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女性活躍時代のさきがけ

21世紀になって、4分の1が過ぎようというのに、ミサイルを落としたり、爆発物を仕掛けたり、戦車から弾丸を発射したりして、世界のどこかで戦争が行なわれている。落とさなくてもいい命が奪われ、傷つかなくてもいい人がケガをさせられ、心身に生涯つきまとう衝撃を与えられている。
その数は何千、何万、何十万以上の人たちだ。

幸い、私たちが住んでいる日本は約80年間、戦禍に見舞われていない。
それは、先の第二次世界大戦で犠牲になられた、辛苦をなめられた、死線を彷徨われた人たちが築いてきた礎のおかげで、戦争がない状態が成り立っている。

私の妻の祖母もその中の一人である。
祖母は旧満州の吉林で、義父から受け継いだ日清ホテルを経営していた。日本と清の国が仲良くしてもらいたいと願いを込めて、日清戦争後に営業を開始した。

吉林駅前にあったホテルは𠮷林の街のランドマークに成長し、祖母は利用客や街の人たちから慕われていた、しかし、1945年8月9日にソ連軍が満洲に侵攻してからは状況が一変、在住の日本人はソ連兵の略奪や暴行をされるがままになった。

日本人会の男性幹部たちはソ連軍の司令部に「略奪や暴行を兵士がしないように指導してほしい」と訴えたが、「我々は戦争に勝った。人も物もすべて戦利品であり、我々の財産だ。だからどう使おうと勝手だ」と一蹴された。

日清ホテルの三階はソ連軍の司令部にされ、さらに全館を引き渡すように要求してきた。ホテルには家族や従業員、農村地帯から逃れてきた人たちが住んでいた。

祖母は「それはできません、ホテルにいる人たちを路頭に迷わせるわけにはいきません。貴国は人民の国でしょ。私は日本の人民を守るため、引き渡しはできません」と答えた。

ソ連軍将校は祖母の迫力と真実の言葉に圧倒され、ホテルの引き渡しをあきらめ、翌年、ホテルに滞在していた全員が無事日本に帰還した。

その功績をたたえ、祖母は外務省から大臣表彰を受けたが、それを示す証拠の書類は残っていないと、先年連絡を受けた。

祖母は広島県の瀬戸内海に浮かぶ豊島の出身で、地元の中学校に、故郷に貢献した顕彰碑が建てられているが、教育委員会は祖母がどんな人物だったかの記録は残っていないと答えている。

女性活躍時代に向かう今、祖母中川ミツエの歩んだ道を時代のさきがけとして伝えたい。




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