【治承~文治の内乱 vol.53】熊野騒乱(中)
『平家物語』諸本には、湛増と湛覚とが争った騒乱(前回 vol.52)より前、つまり治承4年4月下旬~5月上旬頃に”以仁王の平家追討の呼びかけ(以仁王の令旨)”をめぐって熊野三山が分裂、合戦が行われた話が記されています。いわゆる「熊野新宮合戦」と呼ばれるもので、今回はその合戦についてのお話しです。
3つの『平家物語』が記すもう一つの熊野騒乱
熊野新宮合戦は『平家物語』諸本によって、どことどこが戦ったなど微妙に内容が異なっていて、『玉葉』などの当時の公家の記録や『愚管抄』『百練抄』などの歴史書にも記されておらず、果たして実際に行われたものかどうか確認できない合戦です。
とは言え、せっかくなのでご紹介したいと思います。
『平家物語』諸本は非常に数が多いので全部は紹介できませんが、今回はそれらの代表として、「高野本」「延慶本」「源平盛衰記」の3つの『平家物語』にある熊野新宮合戦を列記していきたいと思いますので、ぜひ読み比べてみてください。
(テキストの方は原文ではなく、オリジナルを尊重しつつ、仮名の漢字変換、送り仮名の補充や削除、カタカナをひながなに変換など適宜改変を施しておりますので、その点はご了承ください。それと、これはちと長くなりますので、読み飛ばしたい方は下の「▷」のところまで進んでくださっても話が繋がります。笑)
高野本(語り本系平家物語の代表「覚一本」の別本)
(意訳)
その頃熊野別当湛増は平家に忠節を尽していたが、どのようにして漏れ聞いたのか、
「新宮十郎義盛(源行家)こそ、高倉宮(以仁王)の令旨を賜って、美濃や尾張の源氏どもにそれを触れ回り、いよいよ謀叛を起こすようだ。那智や新宮の者たちはきっと源氏の味方をするであろう。この湛増は平家の御恩を多大に受けた者であるから、どうして(平家に)背くことがあろうか。那智や新宮の者たちに矢一つ射かけて平家へ子細を報告しよう」
と、鎧兜で身を固めた1000人が新宮の湊へ向けて出発した。対する新宮は鳥井の法眼・高坊の法眼、侍には宇井・鈴木・水屋・亀甲が、那智は執行法眼以下、都合2000余人の軍勢である。
(両軍は)鬨の声をあげて矢合わせ(開戦)し、源氏方では「こう射るのだ」、平家方では「こうして射るのだ」と射手が矢を当てた時あげる叫び声(矢叫び)がひっきりなしに聞こえ、鏑矢が発する音が鳴り止むこともなく、三日ほど戦った。熊野別当湛増は家子や郎等が多く討たれ、湛増自身も手傷を負って、危うい命をようやくのことで助かって本宮へ逃げのぼった。
延慶本(古態を有すると言われる読み本系平家物語)
(意訳)
同日(治承4年5月15日)に高倉宮(以仁王)の御謀叛の事が露見した。去る4月28日に、十郎蔵人行家(源行家)は高倉宮の令旨をひそかに賜って伊豆国へ下向、頼朝にそれを授け、令旨の草稿を書き起こして義経に見せようと奥州へ向かった。
行家は平治(1159年~1160年)以来熊野に住んでいたから、新宮では彼に協力する者が多いため、何となく(反平家の)用意をしていた。しかし、(新宮が謀叛の準備をしているのが)世間に知れ渡ってしまい、那智の執行(※1)、権寺主、正寺主(※2)、覚悟法橋、羅睺羅法橋、鳥居法橋、高房の法橋らは、
「新宮十郎義盛こそ高倉宮に語られて平家を討とうと源氏の決起を促すために東国へ下向したと聞いた。このような悪党を熊野で養っていたと平家に聞かれれば大変なことになる恐れがある。今新宮に義盛(行家)はいないけれども、新宮に一矢射ようではないか」
と、那智の衆徒をはじめとして熊野の僧官たちもこぞって出発した。このことを聞いた新宮の衆徒たちは一致団結して、城郭を構えて(那智の者たちを)待ち受けた。本宮の衆徒たちは思々に那智方、新宮方に分かれて加勢した。(那智方は)田辺法橋を総大将として、那智の衆徒ならびに諸々の僧官らが合流して2000余騎の軍勢を率いて5月10日に新宮の湊に押し寄せた。
平家方(那智方)は覚悟法橋を先陣として攻め戦い、源氏方(新宮方)は「覚悟を切れ」と応戦して、梓や真弓の木で作った丸木弓の弦が弛むことなく、三つ目の鏑矢(※3)の音が鳴らない間もなく、一日一夜戦った。
那智の衆徒らは多く討たれて疵を負う者はその数を知らない。ことごとく駆け散らされて討たれなかった者はただ山へ逃げ入っていった。これを見て新宮方の者たちは、
「源氏と平家の天下を争ういくさ始め、那智の神々と新宮の神々との代理戦に平家は負けて源氏が勝った」
と一同悦びあった。
その頃、熊野別当の覚応法眼という者を「おぼえの法眼」と言った。この者は六条判官為義(源為義・頼朝の祖父にあたる)の娘が生んだ者であるから、母方は源氏方であったが、世間の流れに従って平家の祈師(祈祷師)となっていたからであろうか、その覚応法眼が六波羅へ使者を立てて、
「新宮十郎義盛(源行家)こそ高倉宮(以仁王)に語られて謀叛を起こそうと源氏の決起を促すために東国へ下向していきました。そのため、彼に味方する者たちを攻めようと、君(天皇)には知られていない宮仕えと御味方で新宮に押し寄せ数刻合戦を致しましたが、寄せ手は多くの者が討たれ、いくさに負けて僧官や那智の衆徒等は山林に逃げ込んで無事でいられることが難しくなりました。この状況を急いで調べていただきまして、新宮の衆徒等が義盛(行家)に同意したことが判然としましたなら、軍勢をさし向けられ新宮を攻めてくださいまし」
と申し上げたということだ。
源平盛衰記(詳細な記述が特徴の読み本系平家物語)
(意訳)
(以仁王の謀叛の計画が)露顕したのは、十郎蔵人(源行家)が東国へ下向した時、内々に新宮へ、
「平家は悪行多年に及んで、(後白河)法皇を鳥羽の離宮に押し籠めて、たちまちに逆臣となったことにより、(私は)平家を追討するよう宮(以仁王)の令旨を賜り、(私と)同姓の源氏や年来の家人に決起を促すために関東へ下向することになった。早く家人たちにこの事を知らせて準備を致し、この私の上洛を待つように」
と指示していったため、那智や新宮の者たちは寄り合ってこうしようああしようと囁き合ったが、国内(紀伊国内?)に広く知れ渡ってしまい、平家の祈師(祈祷師)であった本宮の大江法眼はこれを聞いて、
「新宮十郎義盛(源行家)こそ高倉宮(以仁王)の令旨を賜って、東国に下り、源氏の白旗、弓を入れる白い袋に成り変わって平家を滅ぼそうとしているが、那智や新宮の大衆(衆徒)らは源氏の味方をしようと用意している。いざ押し寄せて(彼らを)滅ぼそう」
と、大江法眼を総大将として3000余騎、舟に乗って新宮の渚(※4)に押し寄せた。新宮・那智の大衆らはこの事を聞いて、那智の執行、正寺司(正寺主か?)、権寺司(権寺主か?)、羅睺羅法橋、高坊の法橋らが同意して大衆2000余人が新宮の渚に陣を取った。大江法眼は押し寄せ、互いに鬨の声を三度あげた。三目の鏑矢が鳴り止む事はなく、太刀や長刀が放つ閃光はまるで稲光のようである。源氏方はこうして斬れ、平家方はこうして射れと戦場に響く様々な声は六種震動《ろくしゅしんどう》(※5)のようである。互いにわずかな時間さえも退かず、一日一夜火の出るような激戦を繰り広げた。しかし、大江法眼はいくさに負け、共に戦った者で遁れることができた者は少なく、討たれた者が多かった。那智や新宮の大衆はいくさに勝って、法螺貝を吹き鳴らし、鐘を叩き鳴らして、
「平家の運は傾いて源氏が繁昌するであろういくさの初めに、神々のいくさをして勝った」
と勝鬨を三度まであげた。
和泉国の住人に佐野法橋という者がおり、大江法眼の甥にあたる者であるが、いくさに負けて山に逃げ籠もりなんとか息をつけることができた。そこで彼は私信を福原へと送った。
「君(天皇)はいまだご存じないことと思いますが、新宮十郎義盛(行家)は高倉宮(以仁王)の令旨を賜って東国へ下向し、源氏等に決起を促して、平家を滅ぼそうと、源氏の白旗、白い弓入れ袋に成り変わったため、那智や新宮の者たちが義盛(行家)に同意したことを聞いた大江法眼は御味方として新宮の渚に押し寄せて一日一夜戦いましたが、いくさに敗れました。どうかご用心くださいますよう」
と告げた。平家はこの事を聞き、(人々に)面目ないことだと笑われた。太政入道(清盛)は心穏やかならずして数万騎の軍勢を整えて福原から上洛した。六波羅にて公卿や殿上人がびっしり並び居る中で清盛は、
「おおかた起こしてはならないものは、武士の中途半端な情け心であった。永暦元年に切るべきであった頼朝を減刑して流罪に処したが、今このような大事を聞かされることになろうとは。とにかく東国の軍勢が馳せ上ってくる前に宮(以仁王)を捕えて土佐国の幡多へお流しせよ」
とおっしゃってお決めになられた。
▷
ということで、以上3つの『平家物語』を列記しましたが、共通する話をまとめるとこのような形になります。
”平家追討を呼び掛ける以仁王の令旨が十郎蔵人義盛(源行家のこと)によって諸国の源氏に伝えられたが、十郎蔵人義盛が平治の乱以来身を寄せていた新宮では以仁王に呼応する準備が進められた。
ところが、この新宮の動きは早くも熊野の平家方勢力に察知され、平家方勢力は先手を打つかたちで新宮に攻め寄せた。そして新宮の湊周辺で激戦が繰り広げられたが、結果は平家方勢力の多大な損害を被っての大敗北。平家方勢力は平家へ十郎蔵人義盛が東国へ以仁王の令旨を伝えに行ったことと新宮が以仁王に呼応して加担していることを報告した。”
しかし、これら3つの『平家物語』だけでも違いがあることもわかります。挙げられるのは熊野の平家方勢力についてです。これら『平家物語』では新宮が源氏方勢力であるのは一致していますが、平家方勢力が本宮だったり、那智だったりで一致していません。また、高野本では平家方勢力の主体が湛増とされているのに対し、延慶本や源平盛衰記では湛増は登場せずに覚応法眼(延慶本)や大江法眼(源平盛衰記)といった人物が湛増の代わりとなっていて、三者三様の違いを見せています。
先ほどもお話ししたように、この熊野新宮合戦は『平家物語』だけが語り、他の史料では一切確認できないため、実際に行われたものではない、つまりフィクションであると断じてしまうこともできてしまいます。
「熊野新宮合戦」が実際あった可能性について
一方で、この「熊野新宮合戦」を他史料になかったからといって全否定してしまうのも早計であると思われます。
新宮別当家の行範(第19代熊野別当)の妻が源為義(頼朝の祖父)の娘と伝わり、その間に多くの子息が出生したと熊野別当系図(『続群書類従』所収)にあることから、新宮家が河内源氏と縁浅からぬ関係であり、”以仁王の令旨”を各地に伝えたとされる源行家(頼朝の叔父)が平治の乱以降に身を寄せた地が新宮であったことを考慮すると、新宮が以仁王の呼びかけに応じた可能性は否定できません。
その一方で、熊野では当時の紀伊国の知行国主(その国の国司任命権を持ち、その国からの収益を得られる人)が平頼盛であったことや平忠度(頼盛・忠度ともに清盛の異母弟)が熊野と深い関係にあったと伝わることなどから、平家と関係が深い者も多かったことが考えられ、平家追討の動きに対する反発も想定できるため、“以仁王の令旨”をめぐって熊野三山で何かしらの動揺が起こった可能性があり、「熊野新宮合戦」が起こりうる素地は十分にありました。
あと、『玉葉』の治承5年閏2月29日条に気になる記事が存在するのも熊野新宮合戦が実際に行われた可能性をほのめかします。
その記事は那智山に強盗が乱入したところ、そこに住む僧が誰一人おらず、すでに荒廃した土地となっていたというものなんですが、なぜこの時那智には誰もおらずに荒廃していたのか。そこで一番考えられるのは戦で、『延慶本』で那智は衆徒はじめ執行以下上綱(上位の僧綱)に至るまで2000余騎で新宮に攻め寄せて惨敗、多くの者が討たれ負傷者は数知れずという大敗を喫したとされていますので、もしこの敗戦の話が事実に基づく話であったなら、これが那智の人口急減の原因として説明でき、『玉葉』の記事に繋げることができます。したがって、熊野新宮合戦は那智(平家方)と新宮(反平家方)の間で行われた可能性が浮上してくるのです。
「熊野新宮合戦」での湛増について
覚一本系の『平家物語』で「熊野新宮合戦」に平家方として登場する湛増について、国文学者(日本文学者)で平家物語研究に著名な冨倉徳次郎先生はこのように述べられておられます。
また、同じく国文学者の和田英道先生も、
と、両先生ともに熊野新宮合戦における湛増の関与を否定されておられます。また、歴史学者の上杉和彦先生は、
と述べられ、やはり熊野新宮合戦での湛増の積極的な関与に否定的な見解を示されています。
そこで問題となるのは、「以仁王の乱」当時の湛増の政治的立場はどのようなものだったかということになりますが、vol.52(前編)でお話ししたように、湛増はこの当時、田辺別当家の内紛の中で時には違法とされる行動をして平家主導の朝廷から叛逆行為と取られてしまった面はありましたが、湛増自身は別に平家に対しどうこうしようという意思はあまりなく、あくまでも田辺別当家内の地位の確立と勢力拡大が念頭にあったように感じます。
なぜなら、朝廷からいよいよ湛増召喚の宣旨が出されて朝敵扱いとなり、不利となってしまった状況に際して、湛増は子息を差し出して恭順の姿勢を示したからです。もしこの時湛増に反平家の意思があれば、朝敵扱いになるのは織り込み済みだったはずで、このような恭順の姿勢は示さなかったでしょう。
おわりに
「熊野新宮合戦」が実際に行われたものかは、繰り返しになりますが、わかりません。しかし、もしこの合戦が実際に行われたものであったなら、『延慶本』が語るように、那智(平家方)と新宮(反平家方)とが戦い、本宮は基本的に中立的立場で、中には那智方か新宮方か分かれて加勢した者がいたという状況で、湛増の積極的関与はなかったと思われます。
なお、高橋修先生は「熊野に以仁王令旨がいち早くもたらされ、それへの対応をめぐって内紛が起こったことは事実として確認しておけばよい」とされ、湛増がこの内紛に関与していたかどうか明言されないものの、治承4年8月半ば頃から激しくなった騒乱に関しては、反平家勢力として挙兵に踏み切ったとしています。そしてその挙兵の動機を「内乱を積極的に地域に持ち込むことで軍事力を自己の許に集中させて三山における主導権を一気に獲得せんとする企てに出たから」と述べられています。
ただ、これまでお話ししてきたように、「熊野新宮合戦」が実際に行われたものか判然とせず、もし実際あったとしても湛増が「熊野新宮合戦」に関与していたとは考えにくく、治承4年8月半ば頃から激しくなった熊野騒乱は田辺別当家の内紛が主軸であって、湛増が三山の掌握まで念頭に入れていたかどうかわからないことや湛増は平家方でも、反平家方でもないことが朝廷への反発と恭順の姿勢から見て取れるので、果たしてこの高橋先生の御見解が当を得ているか注意深く見直す必要があるように思われます。
ということで、今回はここまでです。
次回は年が明けた治承5年(1181年)の熊野についてのお話しです。
それでは最後までお読みいただきありがとうございました。
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