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【読書】 硝子戸の中 夏目漱石

彼女はその美しいものを宝石の如く大事に永久彼女の胸の奥に抱きしめていたがった。不幸にして、その美しいものは取も直さず彼女を死以上に苦しめる手傷その物であった。二つの物は紙の裏表の如く到底引き離せないのである。

 一人の人の中に在るもの。こころ。それをどこまでも突き詰めていったらどうなるのか。文学者として、また一人間として、向き合った漱石の考えが詰まった一冊です。生きとし生けるものが必ず人生のどこかで向き合わなければならない問題について、苦しみや悲しみを抱えながらも向き合う姿に溢れています。そんな本書について感想と考察を書いてゆきたいと思います。

概要

大正4年1月13日から2月13日まで、『朝日新聞』に掲載される。全39編からなる夏目漱石の随筆で、内容には私生活から、自分の過去、人間関係、ペット。また、人間の生死についての疑問や、時間という概念への洞察などが在る。


時間というもの

私は今持っているこの美しい心持が、時間というものの為に段々薄れて行くのが怖くって堪らないのです。この記憶が消えてしまって、ただ漫然と魂の抜殻のように生きている未来を想像すると、それが苦痛で苦痛で恐ろしくって堪らないのです。

 人が生きていくために備えた機能……「忘れる」。どれだけ苦しいことや、痛みも、人は忘れることで生きていくことができる。それでも「忘れたくない」ことの一つや二つくらい、誰にでもあると思う。喜びも悲しみも、それらを糧に生きている人にとっては、忘れたくない・忘れてはならないものなのだろう。時間というものの中で漂いながら生きているぼくたちのとって、「忘れる」ことと向き合うのは避けて通れないものだと感じる。

公平な「時」は大事な宝物を彼女の手から奪う代わりに、その傷口も次第に療治してくれるのである。激しい生の歓喜を夢のように暈かしてしまうと同時に、今の歓喜に伴う生々しい苦痛も取り除ける手段を怠らないのである。

 ときが経つにつれて、記憶や思い出は形を変えてしまうのは当然とするなら、今この瞬間に感じていたことは、二度と感じれないということでしょうか。大切な人を失ったときに感じる悲しみが薄れてゆく。いつまでも悲しみに浸っているわけにはいかないけれど、失いたくはない感情でもある。どうしようもない事実に対して、抗うことはできないという、漱石の苦しみが見て取れます。それだけでなく、どんな人でも抱えて生きている苦しみの姿が描かれていました。

恐ろしい「時」の威力に抵抗して、再び故の姿に返る事は、二人にとってもう不可能であった。二人は別れてから今会うまでの間に挟まっている過去という不思議なものを顧みない訳にはいかなかった。

 漱石が学生時代の友人と数十年ぶりに出会う場面です。友人の変わりようをみて、自分の変わりようにもまた気づく。変わっていない所もあって、それがまた、時の経過を強調する・・。

 同じような話をどこかで読んだことがあったので、思い返してみると魯迅の『故郷』という作品に当たりました。身分も立場も、もちろん外見も内面も変わってしまう「人」と変えてしまう「時」。それは、太陽が昇り、月が出るのと同じように、そこに「在る」ものだと感じます。支配できない時のなかに生きてるからといって、ただ流されるばかりでは嫌だなと思うのです。「時」への向き合い方を学ぶことが大切なのではないかと感じます。

生きずらさを抱えて

私は凡ての人間を、毎日毎日恥を掻く為に生まれてきたものだとさえ考える事もある

知に働けば角かどが立つ、情に棹さおさせば流される。『草枕』で漱石が言ったように、人へ親切にしようとする度に、衝突があった漱石の生きずらさを表している文に思えます。

有難味の付着していない金に相違なかったのである。ーこうした御礼を受けるより受けない時の方が余程さつぱりしていた。

講演で望まないお金を受け取った時の話です。親切心に対してお金を受け取りたくない...それでも漱石の立場上そういうわけには行かない。

 地位や立場によって苦しまされている人もいる。「見せかけの権威」にあやかろうとする人がいて、そのような権威や立場を必要としない人付き合いがある。人の世で生きる以上、避けては通れない「人間関係」という問題を、抱えながら生きていくしなかないのだと思います。

「時は力であった」

 抗うことのできない「時」。まさに「力」という表現がふさわしく思えます。


いつまでも覚えていること

覚えているのはただその人の親切だけである。

 顔も名前も思い出せずとも、記憶の中で確かに残るもの。それが「親切」であって欲しいと感じます。例え、面識のない人でも、「親切」は心に残る。その逆も然りで、「不親切」もずっと心に残る。それらを受け取るには、あまりに無防備なぼくらですが、「与える」ときには、どちらも選べると思います。


「継続」という言葉

凡てこれらの人の心の奥には、私の知らない、又自分たちさえ気の付かない、継続中のものがいくらでも潜んでいるのではないだろうか。

 心臓は寝ている間も休まず動いているのと同じように、精神も絶えず動き続けていると感じさせられる一文です。自分の生に確かな答えを持つこと。それが、とても輝かしいことに見え、それこそ、人生の命題ではないかと感じます。答えが持てなくとも、最後の時まで考え続けること、向き合い続けることが大切に思えるのです。

 思えば、自分の命には、先祖がいる。地球が始まってから、脈絡と受け継がれてきた遺伝子がある。ぼくたちは生命の続きを生きている。そこにはどれくらい前からかわからないほどの「継続」がある。そう考えていると不思議な気持ちになります。自分じゃない、誰かの命も自分の命に含まれているような感覚を感じるのです。


不善の行為から起こる不快

 損や徳を第一に考えるとき。そこには自分の利益だけがどっかりと心に鎮座しているのだと思います。それでも、無意識のうちに刻まれた道徳的なものによってぼくたちは苦しめられることになる。それこそ漱石の言う「不善の行為から起こる不快」だと思いました。

 (突飛な考え方かもしれませんが)前述した「継続」によって、この不快を感じるのではないでしょうか。自分が得をするということは、他の誰かが損をすることになる。それを本能的に分かっているから、苦しむことになる。だとしたら、損得の継続が人を苦しめているのではと感じるのです。生存競争のなかで、繰り返されてきた(継続されてきた)「損得」から、逃れる法はないのか・・。考えずにはいられません。


まとめ

世の中に住む人間の一人として、私は全く孤立して生存する訳にはいかない

 この一文から、江國香織さんの『僕はジャングルに住みたい』を思い出しました。なんだか、漱石のこの言葉が、ジャングルに住みたいを小難しくした言葉に思えて仕方ないのです。

 切ることのできない、色々な繋がり。世の中に住むとは、つまりそれらに上手く折り合いをつけながら生きていくということなのでしょう。硝子戸の中の漱石の人柄は、誠実すぎて、不器用な人なのだろうなぁと感じました。「そうでもない」「ああでもない」とウンウン唸りながら筆を握ってる姿が浮かぶような感じを覚えます。

 それでも、迷って傷ついて、それでも割り切れなくて、考え抜いている姿勢が好きです。「こうである」とか「すべき」という言葉は一切でてこなくて、押しつけがましいところもない。ただ、誰もが悩んで、いつかは「こういうものか」と納得して通り過ぎる道に、佇む漱石の文章がとっても好きです。これを機に、漱石の他の作品も読み返していこうと思いました。









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