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感情記録 魚は月下の波に伏す

眉墨の色に三日月の。影を舟にもたとえたり。また水中の遊魚は。釣針と疑い。雲上の飛鳥は。弓の影とも驚く。一輪もくだらず。万水ものぼらず。鳥は池辺の木に宿し。魚は月下の波に伏す。(融)

 1年ぶりに会った友人から、実はこの間精神科に行ったのだと打ち明けられた。

 社会人になってから、あなたはあまりに空気を読めない発言をしていると指摘されることが増え、周りから「ありえない」と評される考え方にむしろ同調してしまう自分に気づいたことをきっかけに、カウンセリングとテストを受け、日常生活に援助が必要なほどではないが、「そういった傾向がある」という結果を知らされたそうだ。

 もし誰かから自分の言動を指摘されたら、「そういうケがあるんで!えへへ!」と切り抜けられるようになったと笑っていた。

 明るく話す表情の裏にどういう葛藤や気持ちがあるのかは計り知れない。

 ただ、あいかわらずわたしはその人の、違和感に向き合って突き詰め、自分を通す凛とした姿が好きだと思った。

 その人の、強情でいて、他者の傷にそっと寄り添える優しさや、たまにみせる子どもみたいな無邪気さは、私にとって灯台みたいなものだった。それはこれからも変わらないだろう。

 実はわたしも意識と言動がかなり乖離しているのが悩みで、それは占星術的に生まれたときの太陽と月が相反する位置にあって、かつ心を掌握する月が"混沌"を示すうお座にあるからっぽいわ〜という突飛な打ち明け話にも、それめっちゃわかるわ!って爆笑してくれるのが嬉しかった。

 フラットな自分をそのままで受け入れてくれる存在がいるという安心感は、こんなにもあたたかな気持ちにさせてくれるのだなあと感じ入った。

 河合隼雄の『無意識の構造』によると、人間の心は対極性が存在し、それらの間には相補的に関係し、秩序と解放と治癒という全体性を志向するという。

 人は個人内の実現傾向と、外界の要請という綱渡りの中で、個性というバランス感覚を形成していく。綱は必ずしも平行ではない。足がすくむほどの危険をはらんでいる。

 夏目漱石の『こころ』において、Kに不義理を働き、罪の意識に苛まれた「先生」は悲痛な独白をする。

要するに私は正直な路を歩く積りで、つい足を滑らした馬鹿ものでした。もしくは狡猾な男でした。(夏目漱石『こころ』)
世間はどうあろうともこの己は立派な人間だという信念がどこかにあったのです。それが K のために美事に破壊されてしまって、自分もあの叔父と同じ人間だと意識した時、私は急にふらふらしました。他に愛想を尽かした私は、自分にも愛想を尽かして動けなくなったのです。(同上)

 最も忌むべきこころが自分の中にもあることに気づき苦しむ「先生」のように、わたしたちはこころのなかに、矛盾をはらんだ「人間の罪」をかかえて生きている。

徳は情念と行為にかかわるが、これらいずれにおいても、過超ならびに不足は過つに反して「中」は賞讃され、ただしきを失わないものなのである。こうしたことは、しかるに、いずれも徳の特色に属することがらなのである。徳とは、それゆえ、何らか中庸ともいうべきもの—まさしく「中」を目指すものとして—にほかならない。(アリストテレス『ニコマコス倫理学』)

 アリストテレスは、人間は多かれ少なかれ善を希求しており、その最高善≒幸福に達するためには「中庸の徳」を身につけなければならないと説く。中庸とは、人間の行為や感情における超過と不足を調整するものだ。

 アリストテレスは、徳を有するかどうかは私たちの選択に懸かるため、悪徳を目がけることもまた可能であると言っている。だからこそ、個別具体に存在する文脈のただなかで、矛盾に押しつぶされず、「ちょうど」の判断ができる能力である「実践的な知」を身につけることが重要だという。

 経験を通じて現実に共感することが「共同化」で、そこで新しい“気づき”が起きる。相手の視点になりきったとき、「あっ」という気づきが起こる可能性が非常に高くなり、自己を超えることができます。その気付きの本質について徹底的に考え対話を重ねていくと、そのなかで“真因”が見えてきます。色々と要因があるなかで、「これだ」というものが真因であり、本質です。(野中郁次郎・一橋大学名誉教授が語る「今の時代に求められるリーダーとは」)

 世界には自分の目だけでは見えないものがごまんとある。学びは、世界の解像度を上げる手段だ。あらゆる価値のなかには、手段に帰着するのではなく、それ自体が追求に値する価値が存在しているはずだ。そういった本質を見抜ける知があればこそ、他者や世界と共鳴できるのだと思う。そして、個人と他者が相補的に知を用いて貢献として還元していける世界になればいいと思う。

瑠璃の浄土は潔し 月の光はさやかにて 像法転ずる末の世に遍く照らせば底もなし(今様)

 ふと思うことがある。神仏が消え去った世の中で、私達が祈る対象は何なのだろう。現代における人々の魂が向かう浄土とは一体どこにあるのだろう。わたしは、それはこころの中にあると考える。

 意識と無意識の混沌の中にこそ、迷いや悩みから開放された救済があるのではないだろうか。

 シンクロニシティという概念があるように、個人のこころは多かれ少なかれフラクタル的に世界全体に繋がっている。

 月のように満ち欠けするこころを感じること、それが善へ向かう一歩になると思う。そして、光源を見失ったときや、大事な誰かのこころのゆらぎに直面したとき、救いや癒やしを齎すため、実践知を積み重ねていくことが、"カオスなこころ"を持つわたしの人生のテーマなのかな、と思う。来年も愛すべき年になりますように。

意識と無意識は、どれか一方が他方に抑圧されたり破壊されたりしていては、ひとつの全体を形づくれない。両者を平等の権利をもって公平に戦わせるならば、双方共に満足するに違いない。両者は生命の両面である。意識をして、その合理性を守り自己防衛を行わしめ、無意識の生命をして、それ自、身の道をゆかしめる公平な機会を受けしめよう。……それは、古くからあるハンマーと鉄床との間の技である。 それらの間で鍛えられた鉄は、遂に壊れることのない全体、すなわち個人となるであろう。」(ユング 『人格の統合』)










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