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無調音楽の誕生と楽譜の存在ー「現代音楽史」を読んで

沼野雄司「現代音楽史 闘争しつづける芸術のゆくえ」を読んだ。平成美術展でAI美芸研の作品を見てからというもの、現代音楽について関心が高まっていたので手にとってみた。

本書は、20世紀から21世紀初頭にかけてのクラシック音楽について論じている。

音楽については知見がないので、読んでもわからないことばかりかと思ったが、そうでもなかった。曲そのものの良し悪しというよりは、新しい価値の生成について論じている点で現代美術とつながったためだ。

例えば、「第1章 現代音楽の誕生」で語られる「無調音楽」の誕生だ。

長短調がくっきりとした形を取るのはおよそ十七世紀頃からだが、それ以前の教会旋法の音世界も含めるならば、中世以来の作品はすべて、広義の調性を持っている。また、現在我々がテレビやラジオで日々接する楽曲のほとんども明快な調性音楽だ。無調で作曲を行うとは、このように長い間培われてきた、そしていま我々を取り囲んでいる音の世界から脱しようとすることに他ならない。(p8)

無調音楽を音楽史において意識的に探究したのはアルノルト・シェーンベルクというユダヤ人作曲家だそうだ。無調音楽は具体的な技法ではなく、既存の音の文法を壊せばよいだけなので、実現自体は難しいことではない。シェーンベルクは、調を使わずに音楽史に残るような意味のある楽曲の制作を目指していたのだった。さらに、無調の出現と同じころに抽象画が誕生したようだ。シェーンベルクとカンディンスキーは交流があったそうで、互いに影響を受けていたという。

「第4章 抵抗の手段としての数」では、ジョン・ケージについて言及している。彼の最も有名な作品ともいえる「4分33秒」については、下記のように説明している。

いわばフレーム、額縁だけがここでは提出されており、その額縁で何を見る(聴く)かは支持されていない。一種のコンセプチュアル・アートともいえようか。(p132)

楽譜には3つの楽章にそれぞれ「Tacto(休止)」と書かれており、演奏者は何もしない。無音の中で観客は周囲の音を聞き始め、私たちは音に囲まれていることに気づかされるのだ。

ここまではアートの文脈でも学んできたことだが、「楽譜」の存在についての記述が大変興味深かった。

たしかにケージは音楽に関して、ほとんどあらゆる概念を破壊、更新した人物かもしれないが、同時に、一貫して楽譜にこだわった作曲家でもある。(彼は、楽譜のない即興音楽には最後まで否定的だった。) (p134)

この一文を読んで、ハッとした。ジョン・ケージはそれまでの概念を壊したイメージが強く、私は今まで楽譜について全く気に留めていなかった。そもそも、音楽は楽譜を書く作曲家がいて、楽譜をもとに演奏する演奏者がいるという前提は、文学や美術の世界とは少々構造が異なる。楽譜を演奏家が演奏して初めて成立するのに対し、文学や美術の世界では創作者が造ったものがそのまま表現になる。

ジョン・ケージの後に、それまでの楽譜の概念を覆すような人物が現れる。初めて図形楽譜を作ったアール・ブラウン(1926-2002)や、「具体音楽」を発案したピエール・シフェール(1910-95)などがそれにあたる。

「具体音楽」というのは奇妙な名称だが、シェフェールによれば、一般的な音楽が「楽譜を書く」という抽象的な手段によって作曲されたのに対して、この新音楽においては、まずなんらかの「具体的な音響」という素材があり、それを変形・構築することによって作曲がなされるのだという。(p147)

音楽の世界で前提とされている「調」や「楽譜」の概念を壊す彼らの作品からは、美術の世界でのデュシャンを想起させる。本書の中でも様々な美術作品や建築について言及されており、コンテンポラリーアートの範囲の広さを改めて実感することとなった。

作曲家や曲について知識がなかったので、該当の楽曲をネット検索して聞きながら読み進めていた。ジョン・ケージの作品と具体音楽はそれまでの音楽とは違う概念であるということが分かりやすかったが、無調音楽は調がある楽曲との違いが分からなかった。ただ、純粋に素敵な曲だなと思った。これは、シェーンベルクらの「無調音楽」の成功を示しているのかもしれない。

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