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信じる者は救われるか、信じるものはなぜ救われるのか

”信じる者は救われる”という言葉のその多くは、実際にそう言われて勧誘されたというより、友達がふざけて言ったセリフだったり、どこか茶化した感じのものを耳にしたりが多いのではないかと思います。

”信じる者は救われる”というその言葉に、どこか怪しさを感じながら思ったかもしれません。

どうして信じるものは救われるんだろう。

信じるものしか救わないなんてセコい神さまだな。

どうして信じるものだけ救って、信じないものは救わないんだろう、ぼくも子供のころからずっと考えていました。

実は”信じるものしか救わない”のではなくて、”信じるものしか救えない”んです。

じゃあなぜ信じるものしか救えないのでしょうか。

信じるものは本当に救われるのでしょうか。

結論からいうと「信じるものは救われます」

”信じるものは救われる”事も、”信じるものしか救えない”事にも、ちゃんとした理由があります。

この記事では、信じる者はどうして救われるのか、本当に救われるのか、信じる事から生まれる大きな力、など、”信じることでなぜ救われるのか””なぜ神に感謝するのか”という事を主題として、ひとつの答えを出して行きたいと思います。

それでは最後までよろしくお願い致します。

もしこの世に信じられる事が何もなかったら

誰にも信じて貰う事が出来ない悲しみ、誰かを信じても裏切られる悔しさ、自分を信じる事が出来なくなってしまったり、そんな辛い想いを味わった事がある人、今もそれに苦しんでいる人は沢山いるのではないかと思います。

ぼく自身も、誰にも信じて貰えず自暴自棄になり、自分が今まで積み重ねてきた事も、自分の人生もどうでも良くなってしまい、ひどい虚無の中に居た経験があります。

「誰にも信じて貰えないならもういいや。」

「誰にも信じて貰えなくても自分は誰かを信じよう。」

「相手に信じて貰えなくても自分は相手の事を信じよう。」

そう想っても、本当に心が折れてしまった時に、じゃあ何を信じて生きて行けば良いんだろう。

何か悪い事をして立ち直りたいと想う心を誰も信じてくれない時

「どうせあいつはダメだ。」

「また失敗するに決まっている。」

「悪人は悪人のままだ。」

「あの人は何を考えているか分からないから怖い。」

「あいつは何を仕出かすか分からない。」

誰かから信じて貰えない事や、誰にも信じて貰えない理由は沢山あると思います。

善人なおもて往生す いわんや悪人をや
本当に苦しんでいるのは誰?

信じたいという気持ちと信じるという力

人間はこの不確かな世の中で、自分が信じる事が出来る確かな物が欲しく、何かを信じたいという気持ちが働きます。

それぞれが信じたい対象は各個人によって異なりますが、誰か尊敬出来る人であったり、格言であったり、自分が好きな誰かの考えであったり、歌であったりアニメや映画に出てくるフレーズであったり、数字であったり、あるいは物であるかもしれません。

人間は何か形ある物を欲しがります。

他人の事は良く分かるけど自分の心が一番良く分からなかったり、自分はこれで良いんだよと肯定してくれる存在が欲しかったり、それを他者との比較の中から探したりします。

誰かを信じるとはどう云う事でしょうか?

信じる事は認める事

信じる事は相手の存在を認める事でもあります。

肯定は安心に繋がる

自分を肯定出来ない事は辛い事です。

自分を信じて貰えるという事は、他者からの肯定であり、それは安心へと繋がります。

自分を信じられるという事は自己肯定であり、それも安心に繋がります。

自分を信じるという力は誰にでも実感し易く、信じる事は良くも悪くも迷いを振り払います。誰かに信じて貰う事が出来る力というのも、その事に深い経験があれば実感した事があると思います。

それでは神に信じて貰える力はどうでしょうか。これはいくらロジックで説明されても、信仰心のない人がそれを実感する事は少し難しいと思いますが、順を追って説明して行きたいと思います。

人間は形の無い”事”を信じる事がなかなか出来ません。

信じる事は、愛する事

何の代償も無しに相手を信じる事、すなわち認める・肯定する事という事は、相手を愛していなければ出来ない事であり、無条件に相手を受け入れる行為は、最大の愛の証です。

キリストは、すべての人のあがないの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。テモテ1 2:6

もしも神が全ての人の罪を背負われ、自分を犠牲にされ命を絶たれたのなら、あなたはもうこれ以上自分を犠牲にする必要はありません。

あなたの罪は神の犠牲によって償われています

よってあなたは神を信じ
自分自信を信じても良いのです

神はあなたを愛しています
神はあなたの幸せを望んでおられます

神とは自分を絶対に信じてくれる存在

自分が神を信じている限り神は自分の事をを信じてくれる存在

誰かが自分を信じてくれる事で、自信が生まれるという事もありますが、誰にも信じて貰えなかったり、誰も信じられなくなれば、自分自身も信じられなくなったりもします。

あなたは誰を信じ続ける事が出来ますか

神が自分を信じているという実感は、
自分が神を信じる事から始まる

神を信じれば神は自分を裏切らない

私は全ての人を永遠に信じています。

あなたはそれを信じるだけで良い

神にあなた自身の幸せを願えば良い

私は過去において現世に現れ

全ての人を信じ永遠となった

故にそれも永遠である

だからあなたは信じるだけで良い

そしてあなたの希望を願えば良い

あなたはその祝福に感謝するだけで良い

信じる事と感謝する事

あなた自身の幸せを願う事

あなたの世界は開けるから

信じる事が可能な範囲

何かを信じるには担保となる物が必要

誰でも何かを信じるには、それに値する価値ある担保が必要です。もしも、その担保が何も無かったら、あなたは何を担保として自分の存在を信じる事が出来ますか。

その価値は誰が決めていますか。その価値は正しいですか。誰かが決めた価値をあなたはそのまま受け入れて良いのですか。

もしもその担保が愛であれば、それは素晴らしい事だと思います。

物の価値とは情報によって瞬時に一変してしまう様な物で、瞬時に一変してしまうような価値をそのまま受け入れ、踊らされていても疲れてしまうだけ、自分の価値なら尚更自分で認める事が出来れば良いですが、それは自分に自信がなければ、なかなか難しい事です。

神を信じる担保

それでは、居るか居ないか分からない実体の無い神には、信じるに値する担保は有るのでしょうか。

神を信じるに値するであろう担保としては、史実、信仰の数などが挙げられますが、ここに定義する神が存在するとする論証が正しいものであったとすればそれは幸いです。

信じる事が出来ない世界で生きるのは辛い事

もし神を信じ、世界は神が創ったと信じるのであれば、神を信じる事でこの世界も同時に信じる事が出来るかも知れません。

神がこの世の全てを創ったのだと信じるのであれば、この世界の全てを事も信じる事が出来るかもしれませんが、それは人間にはとても難しい事です。

この世界の全てを創った神さえ信じる事が出来れば、あなたの世界は一周周ります。

神は自分が創った世界の全てを信じています。

それでも世界は理不尽にあなたに仇なすかも知れません。世界は何時だって理不尽です。

それでもあなたが神を信じる限り、神はあなたを信じるでしょう。

神は全ての人の幸せを望んでいます。

なぜならそれは過去に置いて、神自信がキリストとしてこの世に現れその証明をされ、それを史実が証明しているからであり、神はまた普遍的な存在だからです。

だから神があなたを信じる事も普遍的なのです。

神は等しく平等に全ての人を信じる事が出来る唯一の存在

神とは永遠の存在

神はこの世に存在しない永遠の存在で在るからこそ、神が永遠に信じているという事を人は受け入れる事が出来て、永遠は有限では無いからこそ人は神を信じる事が出来ます。

神は未来永劫あなたを信じ続けます

神は自分を信じてくれる最後の存在

神はこの世にはいない永遠の存在であり

それこそが普遍の愛を与えてくれるからです

そして神は永遠にあなたの幸せを望んでおられます

誰かに信じて貰えるという事が持つ力と、信じて貰える事から来る大きな救い

信じるという事に実在はなく、信じる対象が例え概念だとしても、それが自分に取って矛盾なく成立していれば、それは自分自身に取って大きな心の拠り所となります。

もし自分を無条件に信じてくれた人が居るとすれば、それはあなたに取って、神という概念と対等で在ると言えるかも知れません。

もしあなたが、家族や友人に支えられているとしたら、それはとても幸せな事です。

信じる事で救われる

これは神だけではなく、相手が信じて居ると自分が信じない限り、いくら相手が自分の事を信じていても、相手が自分を信じているという想いは自分には伝わりません。

自分自身が相手が信じてくれていると信じるから、相手が自分を信じていると実感出来るのです。

自分がその事を信じていないと成立しないのです。

誰かを信じても裏切られ、自分も信じる事が出来ないなら、あなたはどんな物であったら信じる事が出来ますか。

裏切られて誰も信じる事が出来なくなった、誰にも信じて貰えず誰も信じる事が出来ないのであれば、無条件にあなたを信じてくれる存在すれば、それはあなたに大きな安心を齎してくれるかも知れません。

それが神という永遠の存在なのです。

信じる事で救われるのは、あなた自身の心です。

それが神を信じるという事が持つ大きな力です。

無条件にと言いましたが、あなたが神を信じる限り、という条件は必然としてあります。

それは、神があなたの事を信じていると、あなた自身が信じる事が出来なければ成立し得ない事であって、相手が信じていると自分が信じる事が出来なければ、それが成立しないのは誰に対しても同じです。

よって、神を信じるという事、これは必然の条件となります。

自分が相手を信じなければ、“相手が信じてくれている”が成立しないのは、誰に対しても必然の条件です。

信じるという行為において、神はあなたを絶対に裏切る事はありません。

また、神があなたを信じるという行為においては、神や仏が永遠となった時点から、史実として担保されたものであるという事です。

これを、”一神教における神を起点とした信仰による幸せロジック”と言ってしまえばとてもチープになってしまいますが、実際にこのロジックは信仰というひとつの形式によって支えられ存在しています。

このロジックは、多くの人に信じられる事で成立し、その信仰が続く限り機能します。神が世界を創ったとか、神が全知全能であるとかそういう事では無く、信仰する者を対象とした心の拠り所としての神は、信仰が続く限りこのロジックが成立し、神は存在し続けます。

信じるかどうかは永遠であるかどうか

人は相手を信じるかどうか判断する時に、それが永遠に変わらないかどうかという事を相手に求めます。

普遍的でないものは嘘であったという事になります。

しかし、もし普遍的な事があるとすれば、誰だって間違いは犯すという事が普遍的であると言えます。

過ちを絶対に犯さない人間などいません。信じるという事は、その過ちも認めてその人を信じるという事です。

自分自身を犠牲にする人は、多くの過ちを自分自身の過ちとします。

信じるのは愛

相手が嘘を付いていないかどうか、相手が約束を守るかどうか、誰かを信じるという事はそういった事ではありません。

信じるのは愛があるかどうかです。

愛は全てを許容する

愛は全てを許容します。許容できなくなれば愛は消えて無くなります。

全てを愛せるのは神だけ

人間には全ての人を愛する事は出来ません。全ての人を愛する為には、自分の全てを犠牲にしなければ、それは出来ません。

2000年以上前、この世界に神が存在する事を証明する為に神は人としてこの世に現れ、自分自身で全ての人の罪を背負って命を絶つ事によってそれを証明され、この世界に神は居るのだという事を人間に示されたのです。

その事が事実であったとするならば、それが事実であったと信じるか信じないかだけです。その事実を受け入れるのであれば、あなたの世界にも神は存在する事になります。

しかしその証明には、はからずも負の連鎖も生まれてしまいました。大きな悲しみは大きな憎しみや争いも生みます。しかし、それを証明される為には、そのようにされるしか他に無かったのかも知れません。そのようにされなければ伝わらず、そのようにされたからこそ、今日まで伝わったのだと思います。

それが神の究極の証明です。

神はそれを証明する為に、誰の犠牲も求めはいないのです。

なぜ神に感謝するのか

命は他に変わりのないかけがえのないものです。その多くを犠牲にしなければ人は生きていけません。

人を大切なもの為には何かを犠牲にしなければなりません。

生きて行く中で、どちらが大事かという選択を多く迫られ、その片方の犠牲の元に全ては存在します。

自分という存在が多くの誰かの犠牲の元で成り立つのであれば、それはとても有り難い事です。

しかしこの複雑な世の中では、どこで何を犠牲にしているかは分からず、その全てに感謝する時、何に感謝して良いの分かりません。この世界の全てを神が創られたのであれば、神に感謝する事は、世界の全てに感謝する事と同意です。

神が全ての人の為に自分を犠牲にされたのであれば、神に感謝するということは、全ての犠牲に感謝する事と同意なのかも知れません。

全ての人が全ての人に感謝する事が出来れば、感謝は必ず自分に回ってきます。

誰かが感謝の言葉を口に出来なくても、自分に出来る事は、自分が感謝の気持ちを言葉にして相手に伝える事です。

それでも自分自身の世界というのはそれ程は大きくなく、自分自身の隣人に親切にする事、感謝する事で自分の世界に良い流れを生む事は可能かも知れません。誰であっても、世の中の幸も不幸も自分の身近な所で起こる事です。

宗教の多くは感謝の大切さを教えるもの

神は犠牲を求めてはいない

神からすれば、犠牲の元にしか成り立たない、この世界からの犠牲はもう十分です。

神が自分を犠牲にされたのは、すべての人の罪を背負い、その罪を神が償う事で、全ての人を神は愛していると伝える為に来られたのですから、それは神の愛と存在の証明です。

それは決して、私のようにあなたも犠牲になりなさいと、自分を犠牲にされる事を伝えたかったのではありません。

神は全ての犠牲を望んでいるわけではありません。
誰の犠牲も求めてはいません。

もしあなたがどれだけ自分を犠牲にしたとしても、あなたは必ず何かを犠牲にしなければ生きてはいけないのです。

伝えたかったのは愛の存在です、愛の証明です。

神は全ての人の幸せを望んでおられます。

神はなぜ誰の犠牲も求めないのか

全てが神の子だからです。

もし神が存在するとすれば、この世界は神によって創造された本当の世界です。

この世界が神によって創造されたとするなら、この世界の全てが神の創造物であり、全ての人が神の子だからです。

神は自分自身の子に犠牲を求めてはいないのです。

神の証明ー神はなぜ一人で良いのか

この世界の全ての起点が一点であり、それが愛である事を神が証明されたらどうだろうか。

その証明によりそれが事実となればどうだろうか。

世界はひとつの愛から生まれ、その愛で世界は満たされているとしたらどうだろうか。

神は人として生まれ、全ての人の罪を背負い命を絶たれ、神が存在する事、神が全ての人を愛している事を証明された。

あなたはそれを信じるだけでいい。そうすればあなたの世界では、全てを犠牲にした神という存在は、神一人で十分ですから。あなたがもし神の事を信じるので有れば、あなたの世界に神は存在します。

そしてあなたの世界は愛で満たされます。

全ての犠牲に感謝の気持ちを持ちなさい。

そうすればあなたの世界は必ず良い方向へと進むから。

神がもし何かを求めるとすれば、感謝の気持ちを持つ事です。

感謝の気持ちを伝える事です。

人は実体のないものには証を欲しがります。

形がなければ不安です。

それは神に対しても同じで、神にも信じるに値する実体を求めました。

心の動き、感情には実体はありません。

人間は言葉を作りました。

言葉は感謝の気持ちを相手に伝えることに成功しました。

それでも本当の心は分かりません。

人は言葉の裏をかきます。

人は常に実体を求めます。

目に見えない物、形のない事を信じる事は不安です。

言葉は心を形に変える

感謝の気持ちを言葉にすると、誰かの感情は言葉に乗ってあなたに届きます。あなたの感情は、言葉や文字に乗って相手に届きます。

感謝の言葉で感情は共有されます。

神はどこにいるのか

自分自身の心の中です。

愛そのものです。

その心が神であり仏であり、

あなた自身の心です。

それが愛です。

我が業は我が為すにあらず
天地を貫きて生くる祖神の権能

治癒の菩薩たらんか

キリストとは人としてこの世に現れ、全ての人の為に神が居る事の証明をされた人であり神。

様々な宗教にそれぞれ大切な教えはあり、共通の教えも多くあります。それぞれが自分の信じる神や仏を信じて良いと思います。

もし神も仏も全ての人の幸せを願うので有れば、それを怒りはしないと思います。

愛の形は様々

自己犠牲は他者への最大の愛の表れだけれど、重要なのは相手の厚意が愛だと感じそれに感謝の気持ちを返すこと。

信仰は他者への敬意と感謝の念を養う

自分を信じる事だけで良いのではないかと思う人も居るかも知れません。

宗教には人が正しく生きるための教えがあります。

神を信じるのであれば、その最低限の教えを守って生きる必要があります

そう生きるのが正しいという生き方を守って生きれば、より幸せに暮らせるという事になります。

信じるものが共通であるという大きな力

共通の神を信じる事が出来れば、人の心は纏まると考えたのが一神教だと思います。

人は感情を共有することで幸せを感じる

人間は自分と相手が同じであると双方で確認が取れた時、感情が共有されて幸せを感じる事が出来る生き物です。

何か美味しい物を食べても、給料日に給料が入っても、何か欲しいものが買えた時でも、幸せだと感じるのは自分自身の心です。

幸せだと感じるのは自分自身の心の動きです。

感謝の言葉とは

感謝の気持ちを現す言葉の語源を見ればわかりますが、言葉というのは、相手に伝える為に人間が創り出した物なので、感情を伝える為の言葉の語源となると、それぞれの言語によって意味は違ってきますが、その中でもインドネシア語の「ありがとう」は、「Terima kasih(テレマカシ)」と言って、その言葉の意味は、Terimaが「受け取る」、Kasihが「愛」だそうです。

直訳すると「愛を受け取りました」という意味になり、感謝の気持ちを表すのにはとてもストレートな表現だと思います。

愛は自分から湧き起こる感情です。誰かへの厚意は愛の感情から働きます。もし自分が誰かからの厚意を言葉や行動で受けたとします。

厚意を受けるとその厚意に自分の心は動きます。今度は自分の気持ちが動いた事を、感謝の言葉で相手に伝えると、相手が贈ってくれた愛の感情は、あなたから相手の元へ感謝の言葉として形を変えて返ってゆき、愛の感情は共有されます。

「Terima kasih(テレマカシ)」という言葉から分かる事は、この言葉を創った人達は、相手の厚意ある言動が愛から来ていると知っているという事であり、厚意を受けて感謝の気持ちを言葉にしたくなる、あの嬉しい温かな気持ちが、相手の愛を受け取った時に生まれる感情だと認識しているという事です。そしてその愛の感情は、相手に感謝の気持ちを伝えた時に共有されるのです。

ここで付け加えて置かなければいけないのは、言葉の表現はあくまでも言葉の定義によって縛られてしまい、全てを表す事は不可能だという事です。

相容れぬものは交わらぬもの

しかし全てを感謝で解決する事は出来ません。

火と木が交われば木は燃え
火と水が交われば火は消える

距離を置く事が最善である場合も多くあります。相容れぬものは決して交わらぬ物もあります。この場合は適切な距離を置くという事が、愛の表現であると言えるかも知れません。

信仰とは共通の価値観を共有すること

信仰から来る価値観の違いは大きく、争いは互いの価値観の相違から生まれます。信じるもの、信じていることが正しく同じであれば起きない争いもあるという考えです。

過去には法律に代わって宗教による教えによって治安を一定に守り統治して行ったという事もあります。この場合、法律によって縛り付けるのではなく、宗教的な教えにより心を育んで統治して行ったとも言えます。

宗教の教えによって共通の世界認識を共有する事でもあります。世界認識が正しく共通であれば、その分争いは減るはずですが、過去には宗教的な世界認識の相違における争いは多くありました。それを間違えるのはいつだって人間です。

人生の価値

自分の人生の価値は点数でもなければ、誰かの正解が自分の正解とも限りません。

これが幸せであると他人に決められた幸せはあなたにとって幸せだと思いますか。

それぞれの答えはそれぞれのに出る事です。それぞれの人生の価値は数値化で決まる物でもなく、幸せかどうか決めるのはいつでも自分自身の心です。

Happiness depends upon ourselves.

情報に依存した価値

外部からの流動的な情報による価値基準に依存した自分自身の価値というものは本質とかけ離れてしまうことが多く、そこから得られるだけの自分自身の価値というものは時として破綻してしまいます。

あなたがリンゴを見て美味しそうだなと思ったところに次々と情報が入ったとします。

最初からそのリンゴは物質的にはなんら変わりませんが、情報によって価値や認識は次々と変化させていってしまうのです。

しかし神は、もしあなたが自分自身の価値を見失ったとしても、無限の愛を持ってあなたを信じてくれる存在であると言えます。

信仰とは心を育むもの

心は生涯成長する

人は死んでしまえば自分自身には何も残りません。すべての所有を手放します。自分自身の肉体すら手放さなければなりません。

心は誰のものでもなく自分だけのものです。自分が自分であると認識できるのは、自分自身の意識であり、心を生涯にわたって育てる事は、自分が生きた唯一の証であり、それが証であると認識できるのも、自分自身の心以外にありません。

しんでしまえば全て無になり、自分の意識もなくなってしまうかもしれませんが、自分の命が尽きる最後まで、自分にとってのこの世界は自分の意識の投影にすぎません。

最後の時に自分の人生を振り返る時間があったとしたら、なにをどれくらい集めてどんな暮らしをしたとしても、それを幸せであったかどうか判断するのは、自分自身の心以外にありません。

もしも、自分が亡くなった後も心が残るとしたら、心を育てる事は人生の全てと言って良いと思います。

心を育てるという事はとても重要です。

信条と法律

法律で縛るのではなく人の心を育んで世界を纏める

宗教にも戒律はありますが、宗教は自分の心を育てるためのもの

効率の追求

効率面でいえば人の心を育てるのは非効率、それに比べ法律は効率が良く、誰かを犠牲にしなければ生きて行けない世の中では、信仰だけでは全てをカバーする事は出来ません。

宗教は正しいのか

どの宗教の教えも全て正しいかというと、そこにはさまざまな問題があり、それは一概には言えないのではないかと思いますが、しかし自分が神を信じ教えが正しいものであると思うのであれば、それに従うのは当然の事だと思います。

信仰が必要ない時代

それでも信仰なくしては生きられない現状は世界にはまだ沢山あります。

今は信仰以外にも人それぞれ心の拠り所とするものは沢山あります。

また豊かな時代では信仰の必要性は実感出来ないかも知れません。

宗教の必要性

自分が知っているだけでも、多くの英知が宗教には内在しています。この多様化されて行く社会の中で、今こそ、それぞれの宗教にある大切な教えを共有していく事が必要なのかも知れません。

社会全体の多様性の受け入れを真剣に考えるなら、それぞれの宗教にある英知をお互いに共有する事が最も重要であると言っても過言ではありません。

真に平和な世界があるとしたらそれは誰に取っても幸せな世界

この世界には自分と他人がいます。

自分という存在は世界の70億分の1の存在

誰でも自分自身の隣人というのはそれ程多くはないですが、全ての人が隣人に親切であれば世界は回って幸せかも知れません。

感謝で世界は回っている

全ての人が全ての人に感謝できる世界があるとしたら、それは自分に取っても素晴らしい世界となるでしょう。

現実にはなかなかそうは行きませんが、目指すのであればそれは間違いではないと思います。

価値観はそれぞれ異なり、全ての人が共通の価値観を持つ事は難しく、お互いの価値観が違うからと言って仲が悪いとは決して限りません。

信仰のうちなる信条を守り、その中で繰り返される経験は、それぞれの心と価値観を養い、次第にコミュニティ全体での共通の認識を形成し、それはコミュニティの健全な治安を維持するのためのものとして機能していきます。

そこに必要なのはお互いの価値観を認める事です。

信じる事と感謝はそれぞれの人生の中で、それぞれの人生の価値を形成して行くのだと思います。

人は自分の大切なもののためなら他人を犠牲にしてしまい、全ての生命は何かを犠牲にしなければ生きては行けませんが、神は自分の全てを犠牲して命を絶つ事で、その全ての人の罪を償いました。

それこそが神の愛です。

もし犠牲を求めるのであれば、すべての人の罪を背負って自分を犠牲にされたという事は成立しなく、またそれは神同等に犠牲を求めるものでもありません。

光が大きければ大きいほど大きな闇が生まれ、
光を遮る時その闇は近いほど濃い。

力が大きくなれば作用も反作用も大きくなる

神は全ての人を救われるのです。

人間はあくまで人間です。

それでも全ての生命は生存競争の中で、

何かを犠牲にしなければ生きてはいけません。

人は常に何かを犠牲にしなければ生きては行けないのが仕方のない事なのであれば、そこに争いが起きる事も、誰かが負ける事も仕方のない事なのかも知れません。

それでも人が、少しでも争いを避けたいと願い、平和を願うのであれば、神は必ずあなたを加護します。

なぜなら神はいるのだから。

この世界は多様で人の数だけ

この多様な世界において必要なのは、自分の世界を信じる事と、誰かの世界を信じる事です。

それはすなわち、自分自身の世界の神を信じ、誰かの世界の神を信じる事と同意といえます。

この多様な世界には神も仏もたくさんいます。誰がどの世界の神を信じていても、それぞれの世界に神がいるのであれば、全ての人に愛はあるから大丈夫です。

その事を神に願う心が大切です。

もしもこの世に神がいるとするならば、誰かを幸せへと導こうとする者を神が加護しない理由はひとつもないからです。

だからあなたの神を信じて良いのです。

信じてくれたから自分も信じよう、自分が信じたんだからおまえも信じろよ、という代償によって賄われる世界では決して回りません。

それで全てが成立するとすれば、自分を信じる事が出来ない人は、何の代償として自分を信じる事が出来るだろうか。

努力が担保、努力は自信に繋がりますが、その努力が報われず自分を見失ってしまい、何も信じられなくなる事もあります。

誰も自分を信じてくれず、自分自身も信じられなくても、もし神を信じる事が出来れば、神はあなたを信じます。

それこそが神が全ての人に与える事が出来る、もっとも大きな救いとなるのです。

世界は愛から生まれてきた

誰も信じる事が出来ず、誰にも信じて貰う事も出来なければ、自分を信じる事も出来なくなる事もあります。

誰にも信じて貰えなければ、自分の人生はもうどうでもいいやなんて気にもなり、自暴自棄になったりもします。

自分を信じる事が出来なければ生きる意味も見失います。

誰があなたを最初に信じてくれる

信じてくれる家族も友人もいなければ誰も自分を信じてくれないのであれば、なぜ自分は誰かを信じ、そして自分を信じる事ができるだろうか

絶対的に無条件で信じてくれる存在が必要
だけど誰しもがそれは出来ない

神という存在は信じることの起点となる
自分が信じる事から全てが始まる

神は永遠であり、神が自分を信じてくれる事を信じる限り、神はあなたを信じています。実はあなたが信じて居なくても、神はあなたを信じて居ます。

それをみんなが信じる事が出来れば、世界は平和になると考えたのが、ここまでに論証した神さまロジックですが、全ての人にそれぞれの世界があり、全ての人にそれぞれの信じる神の形があります。

自分の世界を信じる事、誰かの世界を信じる事

誰かが自分を信じていると思うのは、自分がそう信じているからであって、全ては自分が信じるままです。

願う事

あなたがもしもある事を信じられないので有れば、それを神に願う事です。

そうであって欲しいと神に願う心も、きっとあなたの救いになります。

感謝の言葉は事を物に変える

言葉というのは、人間がなかなか信じる事が出来ない心の表層を、形ある物に変える魔法の言葉です。

感情は目には見えません。だから誰かから送られた愛を受け取った時には、感謝の気持ちを言葉に乗せて、相手に伝える事が必要なのです。

なぜならそれは事実だからです。

人の感情は心に思っているだけでは共有されません。

自分を信じる事、誰かを信じる事
自分を感じる事、誰かを感じる事

それぞれの世界を信じる事
信じるのはそれぞれの愛

誰かの神を信じる事ができなければ、
真の多様性の受け入れは実現しないのではないだろうか。

神とは誰かの愛であり、自分自身の愛であり、この世界の全て

この世界は自分が信じるまま

だけどそれこそ悪は惑わせる

闇は恐れを生み

不安や憎悪は自分の心から湧き起こる

それを打ち払うのは信じる心

迷ったら友として正しき道を選べば良い

得るを見ては義を思う事

誰かを苦しめては決してならない

一番傷つけてしまっている人の気持ちが一番見えない

だからその気持ちを伝えるのが一番難しい
その人は自分の反対側にいるから

気づかないうちに大切な人をまた傷つてけしまう

感情は増幅するもの それは善意も悪意も

あとで笑えない事はしちゃいけない
あとで笑い話に出来る様なら大丈夫

人間には誰でも魔が刺す時がある

ぼくには謝っても謝りきれない人がたくさんいます。
誰よりも悪い事をたくさんしてきました。

悪い事はしても誰かを悲しませる事は
絶対にしてはいけないと云うのは父の教えです。

本当にごめんなさい。

ぼくは多くの失敗を繰り返し、
失敗の中からそれらを学びました。

誰かを欺いてはならない

感情は育てて育むもの

その全てを支えているのは愛を信じる心

愛を共有することで心は癒される

人間は感情を共有する事で幸せを感じる生き物
分かち合う事の幸せ

愛を信じる事 自分を感じる事

人は絶えず変化する意識の世界に住んでいる
それは全て情報に支配されている

曼荼羅

自分の世界を信じる事 その全てを感じる事

生まれてくる感情は
持たない事も捨てる事も出来る

その中で簡単には捨てられないもの
すぐに消えてしまうもの
簡単には拾えないもの
それに向き合うのが人生

自分の心に敵をつくると
それをまたぬぐう事も難しい

自分が観ている世界の中で
誰よりも不幸だと思う人を
照らす事が出来たとしたら
それは誰よりも幸せな事

その人を愛する事が出来たとしたら
それもまた誰よりも幸せな事

全ての人に
全ての人を照らす事が可能な範囲がある
だから全ての人が必要

大きな光の中では小さな光は見えず
暗闇の中では大きな光は眩しすぎる

必ず誰かは誰かの光となる

全ての情には愛が含まれている
だから人は全ての感情に苦しみ葛藤する

全ての感情を真に愛する事が出来れば
それはその時報われる

光が無限で有れば闇もまた無限
無限の光で照らせばいい

忘却は永遠の光

神は常に闇を照らし
闇は常に光に照らされる

神に感謝する事

神様はいます

自分の世界を感じる事

誰かの世界を感じる事

知る事は道を歩む事

中国語で知識は「知道」と書きます。知っている、も「知道」と書きます。

知る事は道を歩む事と似ています。何度も何度も同じ道を繰り返し歩いて気づいたり、道を進んでいく過程で知識はどんどん変化していきます。知る事とは人生そのものと言っても良いかも知れません。

何度も同じ道を歩き、道を進んで行く事で知識は変化していきます。

一度や二度では「不知道」

終わりと始まり

これは自分を取り巻く偶有性が齎す全ての出会いと経験から導き出されたひとつの答えです。この答えが正しいかどうかは、ここから先のあなたの人生の経験の中で、あなた自身の答えを出して照らし合わせて見てください。

自分はと言うと、自分が今生きていく為にしている仕事は、誰かを幸せにする為の仕事であるかといえば全然そうではないし、それを日々葛藤しながらやっていて、自分自身の人生の答えはまだ何も出ていません。

ぼくは全ての人の心に愛があると信じています。
そうであって欲しいと願っています。

それは自分に向いてはいないかも知れません。
それでも全ての人に愛はあります。

それらは神棚があってその下に仏壇、その横にクリスマスツリーを飾るような、日本独特の文化圏の多様性が齎してくれたものであると信じています。

それでは最後までお付き合い頂き、
ありがとうございました!

ここから先に広がる全ての偶有性が幸せへと繋がる事を願い、それを信じています。

世界は愛で溢れています!

あなた自身の未来が幸せになるよう
願って頂ければ幸いです!

未来は皆で創る物

それが人間なんだから

全ての人に幸せな未来が訪れる事
それがぼくの願いです

何故なら、ぼくが見ている世界は
みんながいる世界だからです

世界は全ての人の力で創る物

自分の世界を信じる事
誰かの世界を信じる事

選択肢は無限大

可能は無限だ!

ありがとうございました。
それはあなたが居てくれたからです。

我思う、ゆえに我あり
他思う、ゆえに我あり

entrance to the new world




ご支援いただきありがとうございます!今後とも精進してまいります!