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鮮血

とある人から聞いた話。

彼は高校生の時、偶然人が飛び降り自殺をする現場に居合わせたらしい。
曰く、学校に処用で立ち寄った際に、屋上から学生が落ち、頭を地面に打ちそのまま亡くなってしまったという。

彼はその光景を目にし、
「美しい。鮮血が綺麗だ。」
という感想を抱いたそうだ。

と、彼の話はここまで。
客観的に聞くと、相当ヤバい話だ。
私も始めてその話を聞いた時は、正直ドン引きした。

人の死を間近に見ておいて美的感知が働くとは、彼の感覚は、はっきり言ってどうかしている。

彼を誤解して頂かない為に先に言っておかねばならないが、彼は社会性の高い人間で温厚な奴である。そして、こういった話を私にしてくれたのは、互いに信頼関係があった上でのことだということを了承頂きたい。

さて、話を戻そう。

死を見て美を感知するというのは、彼の気質は何処か狂っているのかもしれない。
だが、彼の主観を想像してみると、彼をサイコパスだと断定するには少々躊躇せねばならない。

というのも、私は鮮血というものを見たことがない。
したがって、初めてその鮮やかに対峙した時に、私自身どのようにこの意識が反応するかは、想像だに出来ない。

彼の話は、「鮮血」だけを抜き出してみれば、なんらおかしなことはない。
鮮血それ単独では、恐らく綺麗なものだ。
綺麗なものを綺麗と語ることは至極真っ当だ。

だが、その背景にある死の現象が、この事態に違和感を与えている。

通常であれば、鮮血より前に、死という強烈な現象を先に認知しそうなものである。
しかし、彼は鮮血のイメージを強烈に残した。
故に、後にその鮮明なイメージを私に語った。

それくらい彼は、死に対して耐性なり慣れがあったと言ってしまえばそれまでだが、(確かに彼はグロテスクなものへの嗜好性がある)その視界のみならず、その聴覚や嗅覚をも死はそれらを刺激したはずなのである。

人間は繰り返し記憶を解釈し直す生命体である。
したがって、この稀有な物語は、彼の中で何度も書き換えられて、固まったものなのかもしれない。
客観的にはそういう解釈を施しておくのが、適当なようにも思われる。

しかし、彼の物語をこうも捉えられないだろうか。

すなわち、我々は死を醜いものだと考えすぎているのではないかと。

殆どの人間は不健康で死ぬ。
老い、痩せ、腐敗し、苦しんで死ぬ。

これら、死に付随するものが、死そのものに醜いイメージを与えているのかもしれない。

対し、自殺した人間は殆ど身体に健康で死ぬ。
そこに救いを見出して死ぬ。

彼が経験したものは、付随物を排除した、こうした死そのものではなかったのだろうか。

そして、そこに現れた血の鮮やかさ。
それこそが彼の印象を強く支配したのである。

したがって、死そのものは、極めてニュートラルな印象のものではないのか。

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