「隣人」と「見知らぬ人」の間 米選挙で考える民主主義

▼社会学者の森千香子氏が書いたアメリカ中間選挙のまとめが興味深い(「UP」2018年12月号「ニューヨーク中間選挙に起きた革新候補の小さな波」)。〈下院では史上初めて女性議員数が100人を超えた〉ことや、性的マイノリティ候補人種マイノリティ候補の躍進、〈下院は史上初めてムスリム女性二人と、さらにネイティヴ・アメリカンの女性二人を擁することになった〉事実が列挙されている。

指名選で最大のニュースは、ニューヨークでは下院議員候補指名選で〈現職で10期20年議員を務める民主党の重鎮ジョセフ・クローリーが、28歳のプエルトリコ系女性の新人候補に破れた〉こと。大番狂わせを起こした〈ブロンクス生まれの新人アレクサンドリア・オカシオ=コルテス〉いわく〈母はプエルトリコ、父はサウス・ブロンクス出身。私が生まれたのは、郵便番号によって人生がきまってしまう場所でした〉。

▼彼女の陣営は300人のボランティアで「12万の扉を叩き、17万のSNS送信、12万回の電話をした」そうだ。2016年の大統領選ではバーニー・サンダース陣営のスタッフだった。

「見知らぬ人に話しかける」という実践〉の見出しがついた文章には、アメリカの選挙運動の一面がくわしく描かれている。

〈筆者も2016年、サンダース選挙運動を半年間追いかけ、「電話作戦」や自宅訪問などの実践も参与観察し、そこで「直接のコンタクト」を地道に積み重ねることの意義を目の当たりにした。たとえば「電話作戦」は主要政党は有給スタッフを雇えるが、ボランティア主体の運動の場合、メンバーの自宅に集まって行う。ウェブサイトで実施に日時と地域を通知して協力者を募り、協力希望者がメッセージを送ると、住所などの情報が送られる。顔見知りでない相手とのやり取りもしょっちゅうだ。行われるのは平日の夜が多く、仕事や授業帰りの人が徐々に集まって始める。持ち寄りの飲み物やスナックなどがあることも多い。そこで2時間あまり、渡されたリストにひたすら電話をかける。選挙日の周知や候補者の宣伝、投票に必要な手続きの周知だけでなく、現在抱えている問題や行政への不満がないかも問いかける。すぐに切られたりトラブルがあっても、周りにメンバーがいれば経験が浅い人でも心強い。

 ドアノッキング=自宅訪問は文字どおり「ドアを叩く」ことであるが、集合住宅にはセキュリティ装置がついているところが多く、ドアを叩くよりブザーを押し、インターフォン越しに話すことが多い。出向いても相手にされなかったり、敵対的な人もいる。でも繰り返し出かけ、直接、話すことを試みる。

 同じ地域に暮らす「隣人」であっても、多忙で個人化の進む大都市では「隣人」も顔の見えない「見知らぬ人」であるケースが増えている。そういう人たちに「声をかける」という実に古典的な手法が改めて見直されている。今回の中間選挙は、そのように「見知らぬ人に声をかける」という実にシンプルな方法によってつながりを作ることの大切さを考えさせてくれた。〉

▼この文章を読んで思い出したのは、先日も紹介した法学者キャス・サンスティーン氏の言葉だ。ポール・ロバーツ氏の『「衝動」に支配される世界』から。

〈自分の内側の問題に集中でき、自己を反映するものや慣れ親しんだものに取り囲まれている、そうした気楽さがあると、不慣れなものや自分に関わりのないものに苛立つのも無理はない。不慣れなものや見知らぬものはストレスになっていく。論争は心の痛手となる。強い公共心のある人でも、多様性を受け入れるのには努力が要り、リスクが絡み、妥協が必要となるーー努力やリスクや妥協は、まさに消費者文化や自己中心的なイデオロギーがさげすむ非効率だ。

 しかし、こうした非効率こそが、個人と社会の利益のバランスを取るプロセスでは不可欠である。また、民主主義とコミュニティというそもそも非効率な制度においても、こうした非効率は根本に存在するものだ。キャス・サンスティーンがその著書『リパブリック・ドットコム2.0』で論じるように、民主主義文化が機能するには「計画していなかった出会い」という気まずい事態が必要で、その出会いでは市民が「前もって選んだのではない内容やトピックを相手にすることになり、これまで探求したこともなく、苛立たしいと思えるような考え方に直面する」。

 一方で、これまでに見てきたように、不快な出会いや予期しない考え方、苛立たしい人々は、まさに自分向けにカスタマイズされた生活からは取り除いてよいと感じられるものである。〉(168-169頁)

「計画していなかった出会い」「気まずい事態」「前もって選んだのではない内容やトピックを相手にする」「これまで探求したこともなく、苛立たしいと思えるような考え方に直面する」……ネット空間には、「計画していなかった出会い」はある。それ以外の項目には、なかなかお目にかかれないような構造になりつつある。

ネット空間を主体にして「民主主義」を論ずるのは危険だ。

(2018年12月7日)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?