見出し画像

「低スペック団塊ジュニアの僕が就職氷河期で凍死しなかった理由」

近年SNSの普及により、多くの人々が何らかのコミュニティに所属し、自分の居場所を見つけている様子が可視化されています。かつては「何かしらに所属すること」にほとんど関心を払わなかった僕も、気が付けば自分の「家族」と自ら経営する「会社」という2つのコミュニティに属していました。それにも関わらず、趣味の集まりや仕事界隈でのコミュニティ、異業種交流サロンやお仕事仲良しグループには未だに縁がない。それを寂しいとも思わず、他の人と繋がることの必要性や不安を感じたことはありませんでした。むしろ、現状が心地よい均衡でちょうど良いと感じています。僕の友人もみんな大体同じような感じで、どこにも属さない「無所属」的な生き様が共通項になっています。

思い返せば両親が共働きで1人っ子だった自分は、学校から帰っても家には誰もいないという日常が当たり前でした。サラリーマンと専業主婦が大多数を占める昭和後期のニュータウンで、共働きで子供を家で1人にさせる事自体まだ珍しく、近隣からは「子供が可哀そう」と陰口を言われたそうです。もちろん僕はそんな世間体など一切知らずに毎日勉強などせず、級友達と日が暮れるまで遊びまくっていました。友達の家に行ったり、野山を駆け回ったり、プラモ屋に行ったり、ザリガニ釣りに行ったり、野球をしたり。そろそろ日が暮れる頃になると誰もいない家に帰って洗濯物を取り込み、雨戸を閉め、飼い犬の散歩をするのが日課でした。寂しいかというと、そうでもありません。家事を早く済ませば干渉なしで好きなテレビを自由に観れるわけで、親が帰ってくるまでの時間帯は至福のフリーダムだったのです。そういう訳で、今更「1人でいると寂しくないですか?」という感覚を全く理解することが出来ないでいます。

山の向こうには青い海が広がっていると信じて

小学校では低学年からクラスの中で「班」という最小のコミュニティが形成され、その小さな世界の中で日々パワーバランスや政治、ポジショニングを通して生存戦略を学ばされます。僕はこの「班作り」を通した役割分担などのチームでの作業に日頃から違和感を感じていました。所詮小学校というものはその地域にたまたま住んでいる同じ年齢の子供たちを強制的に集めて集団管理する場所。学校という狭いムラの中の更に小さい「クラス」や「班」といった強制的に配属させられたコミュニティで出会ったクラスメイト達は、「友達」というよりも、この境遇を同時期に体験した「ただの他人」と呼んだ方が自分的にはしっくり来ます。

中学に上がると、その違和感は益々大きくなります。小学校というムラを出てまた次のムラに移住しただけ。ムラは所詮ムラだから、色んな意味ですごく狭い。今まで仲の良かった人と疎遠になったりと、中学というムラの中でのポジショニングは思春期も重なって一段と面倒くさくなっていました。生存戦略が上手くいかなかった人はイジメや排除のターゲットになりやすかった。そして、ムラの本質的な目的はなるべく従順な羊を量産して社会の安定と秩序を保つことなんじゃないかと薄々気が付き始めたのです。だから僕は当時自分の通っていた中学校を「強制収容所」と呼んでいました。

しかし、高校というムラは少し違った。勉強が苦手だった僕は学区内の下から三番目の高校へ入学しました。小学校から始まった「ムラ」の最終工程に辿り着いたわけですが、そこは今まで経験したことのないムラだったのです。小学校や中学校は学区のカバー範囲が狭かったので、大抵の家庭はニュータウンの中で注文住宅に住み、父親は都内に通勤する大卒のホワイトカラーで母親は女子大卒の専業主婦と相場が決まっていました。そういうライフスタイルや考え方の似通った人々の集合体がニュータウンであり、その地域の小学校や中学校でも家庭環境における同質性が保たれていました。しかし高校となると学区内という区分範囲が圧倒的に拡がります。ニュータウンだけではなく、工業地帯や商業地区など地域の多様性が含まれるようになると社会階層や階級の多様性も飛躍的に増幅されます。家庭環境が複雑だったり、ブルーカラー主体の階層が流入して混ざり合い、今まで周りにはいなかった「人種」で構成された世界が高校には存在していたのです。

自分のライフスタイルとは別次元の世界から集まって来た人達で構成された高校というムラでのポジショニングもまた相当に面倒くさかった。(でも僕はこのムラで全く階層の違う家庭で育った生涯の友と出会うことになる。)とにかくこのムラを出ればもう自由になる。ムラを出る日までただひたすら耐えるしかない。それはもうムラなんて言う生易しいものではなく、まさに「修羅の国」と呼んだ方がしっくりきます。一刻でも早く時が流れ、卒業して自由な世界に出ることばかり考えて高校の3年間を過ごしていたように思います。

なんちゃって留学の末路

そして待ちに待ったその日はやって来ました。あれだけ嫌だった高校生活からの解放は、もう二度と戻れない18歳という輝かしくも切ないタイミングと重なって感傷的な気分になっていました。卒業後はカナダ留学が決まっており、この小さなムラから脱出して海外へ大きく羽ばたく、輝かしい未来しか想像できなかった。希望しかない僕は大志を抱いて飛行機に乗り、意気揚々と日本を後にしたのです。

だが、しかし、現実はちょっと違っていました。カナダへ渡るとそこにはまた新しいムラの生活が待っていたのです。カナダ留学と言えば聞こえは良いが、実態は日本人が作った日本人の為の大学(カレッジ)でした。実家がある程度裕福で勉強のできない子供が、ハクを付けさせるために放り込まれたような留学風の大学ライクな専門学校みたいな (笑)。海外に打って出ようという意思のある人間はほんのわずかだった様に思います。全国から出来の悪い人間(もちろん自分を筆頭に)が集められ、カナダの田舎で寮生活という究極に狭い宇宙で共同生活をさせられる。カナダという外国に日本のムラをそのまま移植して、そこで生活するという事はすなわち日本のムラにいるのと何ら変わらないということでした。(満蒙開拓団みたいな感じでしょうか)カナダに渡ってすぐにそのことに気が付いた僕は、心の底から落胆してしまいます。そして早くもこの新しいムラから出る(卒業)ことばかりを考えてその後の2年間を過ごすことになるのです。

留学中の2年間、僕は一度も日本へ帰りませんでした。高校から付き合っていた彼女にも帰ってこないと愛想を尽かされたが、それでも帰らなかった。何故なら、やっと日本のムラから出て海外で自分の可能性を試せるという絶好の機会を手に入れたからに他なりません。休みの度に日本へ帰って何の意味があるのか。高校を出てあのまま社会に出てもロクな人生は送れないだろうと直感的に感じていた世間知らずの僕は、海外で勉強して映画監督になるという中学生あたりから芽生えた夢に少しでも近づくために覚悟を決めて日本を出たはずでした。だからムラの中の派閥やグループには極力属さず、流されず、時には孤独を感じながらも自分の信念をブレずに保ち続けようとしました。そんな時に心の支えになったのが、ノビー(落合信彦)の自叙伝、「狼たちへの伝言」でした。「群れたブタになるな、孤高の狼になれ」この言葉に当時どれだけ励まされたことか (笑)


ダメな人間は人より動かないともっとダメになる

カナダのなんちゃって留学から帰国した後、本物の大学でちゃんと勉強しないとダメだという事を理解し、今度はアメリカに渡って7年ほどかけて2つの州立大学で学位を取ることになります。アメリカでの生活はムラ社会から完全に開放され、自分の責任において自分自身ですべての選択肢をジャッジしていかなければならない自己責任の世界。パッケージツアーみたいななんちゃって留学とは真逆の宇宙がありました。勉強が苦手な僕がアメリカ人学生と対等に渡り合うには、当たり前だが彼らの何倍も勉強しなければいけません。正直もう一回やれと言われたら絶対にお断りしたいような環境にわざわざ身を置いたのは、「若いうちの苦労は買ってでもしろ」という言葉を本能的に理解していたからだと思います。アメリカでの経験がなかったら、きっと今の自分は存在していない。幼少の時から事あるごとに「海外へ出ろ」と説いて、チャンスをくれたオカンには本当に感謝しています。

アメリカでも人種や留学生ごとに群れをつくる傾向は散見されました。多分それは仕方がなくて、群れを作ってマンモスを狩っていた原始時代からのDNA的なものが関連しているんだろうと思います。四六時中日本人同士で固まって過ごす日本人留学生は多く、そんな人たちが小グループに分かれてキャンパスに点在していました。稀にそういった群れに一切属さない日本人もいました。ワナビー(アメリカ人になりたい日本人)と呼んでいたその類の人々は、数は少なかったが常にアメリカ人に溶け込もうとし、他の日本人を敵対視している様子さえ感じました。僕の場合、日本やカナダのムラ社会で生き抜くために培った柔軟性とバランス感覚で上手く渡り合ってきたと思います。どのグループにも属さず、かといって敵対もしない。属すれば楽だが新しい世界を知るチャンスは確実に減る。しかし必要なときに協力しないと孤立し、生き残れない。

その後アメリカの大学を卒業して日本へ帰国しましたが、時代は就職氷河期真っ最中でした。一応映像系の会社に何社か応募してはみたけれど、自分自身本気で会社員になるという未来が想像できず、すぐに就職活動を止めてしまいます。両親が共に自営業であり、何が何でも就職しろという圧力もなく、景気が上向けば何とかなるだろうという楽観主義で本当に助かりました。小学校や中学時代の同級生たちは相当就職に苦労したようでした。偏差値の高い高校や有名大学に行った団塊ジュニア世代の級友たちがバブル後の氷河期で苦汁を舐めていたとは露知らず、僕はその間にカナダとアメリカでのうのうと合計9年間も学生生活を送っていたのです。アメリカ時代の日本人留学生の友人が一足早く日本で就職しており、その繋がりで外資系の会社の映像制作をフリーランスとして請け負うことになりました。当時日本では普及していなかったソフトとスキルのおかげで、有難いことにどんどん仕事が舞い込むようになりました。これはチャンスとばかりに事業を拡大し、帰国して5年後に法人成して組織化することになったのです。思えば本当に運が良かったと思います。

低スペック人間が氷河期で凍死しなかった理由

結局、僕が今現在自分の立ち上げた事業を15年近く続ける事ができているのは、学校を卒業したら会社に就職するという固定概念に違和感を持ち続け(逆張りの思考)、どこかに所属するという事で安住を求めなかったこと(世間体を気にしないことで常識に縛られなかった)が功を奏したのではないかと思っています。ポジショニングに一喜一憂して群れに属することにエネルギーを浪費する生き方をしていたならば、きっと考え方の幅が狭くなって近視眼的になり、常に不安に苛まれていたかもしれません。大多数が選ぶ選択肢に無条件に従って、ブラック企業でも何でもいいからとにかく就職し、精神を削られて摩耗していた可能性もあります。就職氷河期の影響を受けなかったのは、つまりみんなと違う方向へ行くことを恐れなかった結果であり、隣の芝生の色が青かろうが赤かろうがそんなことに興味を持たなかったから。そして、それがたまたま上手くいった。率直に運が良かったの一言に尽きるのかもしれません。

オカン、ありがとう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?