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「黒影紳士」season1-短編集🎩第四章 チェックメイト

――第四章 チェックメイト――

 四、チェックメイト

「おい、何でこんな所にいるんだ。」
黒影は聞き慣れた背後からの声に振り返る。
振り返った先には風柳がいた。
「そんなの、こっちが聞きたいわ。それに、黒影はちゃんと呼ばれてここに来たんだから!」
と、白雪は風柳に言う。
「私は仕事だよ。この屋敷の主が亡くなられた死因を詳しく調べ直して欲しいという依頼の手紙が届いてね…悪戯かもしれないと思って確認のつもりで来たが、本当にご主人が死んでいたなんて…厄介な事になりそうだ。」
と、風柳は頭を掻きながら白雪と黒影に説明した。
それを聞いた黒影は、ふと鞄の中に入れていた手紙を取り出し、
「もしかして…その手紙ってこれと同じ物ではないですか?」
と、風柳に聞いてみると風柳は目を丸くして、
「そうだ、それ!何だ…それで黒影君もここに来たってわけか。しかし、この手紙は一体誰が出したのだろうね。住所と豊田という苗字からすると、豊田家に関わる誰かに違いないが、名前が書かれていない。先にいたぐらいだから黒影君はもう知っているのだろう?」
と、言うと黒影の返答を待つ。…が、黒影は何か考えているのか返答が暫し遅れる。
「それなんですが…ここに着いてからこの豊田家全ての人に聞いてみたのですが、誰もそんな手紙を書いていないと言うのですよ。」
風柳はその妙な話に黒影が差し出した手紙をじろじろと観察してみるが、やはり風柳に届いた物と内容も封筒に書かれた記述も筆跡も似ているようだった。
「とりあえずここに住んでる人と面通ししておかなければな。黒影君、悪いが私はここの住人をまだよく知らないから、居間に集まるよう呼んできてもらっていいかね。」
兎に角全員に自分から確認してみたい…そう思った風柳は黒影にそんな事を頼んだ。黒影も全員から聞きたい事はまだある、だからこそその頼みを聞き入れる。

「これで全員ですか。」
風柳は大広間に集まった人々を前に黒影に聞いた。…が、答えたのは清楚なワンピースの似合う髪の長い婦人である。
「ええ。私はこの度亡くなったこの家の主、豊田善次郎(とよた ぜんじろう)の妻、寿子(としこ)です。刑事さんもまだ色々わからない事もおありでしょうし、よろしければ私がこの家の者達をご紹介いたしますわ。」
と、親切そうにその婦人は提案した。
風柳もそれではと快く、
「それは助かります。」
と、それを受け入れる。
「こちらが善次郎の弟、忠郎(ただお)さんとその奥様の洋子(ようこ)さん。それと、私の息子の実(みのる)とフィアンセの萩原佳代(はぎわら かよ)さんに、この屋敷の時計台を管理していただいている時計技師の村瀬道憲(むらせ みちのり)さんです。」
と、簡単ではあるが寿子は風柳に説明する。
風柳は聞き落とさないよう、特徴と名前を慌てて手帳に記入しているようだった。
「有難う御座います。…ところで早速手紙の件ですが、手紙によると善次郎氏の死は何者かによって偽造されたものであるとされていますが、その点で何か心当たりはありませんか?」
風柳は寿子婦人に礼をいうと単刀直入に要点を聞いた。しかし、反応は芳しくなく…誰もがお互いの顔を見合っているだけである。
暫くの沈黙の後、実が話し出す。
「その事ですが、先ほど検死の結果が出たようで警察の人が来て、父の死因は寿命によるものだと説明されて行きました。けれど不審な点もなくはないのです。
私はもう父と一緒に住んではいないので知りませんでしたが、父の善次郎は心臓発作が起きた時にと常備していた筈のニトログリセリンが見当たらないそうなのです。」
と、今までの動きを説明すると風柳は、
「善次郎さんが心臓発作の薬を常備していた事を知っていたのは誰ですか?」
と、尋ねると忠郎と洋子と寿子が手を上げた。
忠郎は善次郎とは兄弟の間柄なので、電話で聞いていたと答え、忠郎から聞いた洋子も勿論知っていたのは当然である。そして、何よりもずっと善次郎と共に住んでいた寿子も知っている。
気に掛かる事と言えば…何故、知っていて当然の筈の実にその事を一切知らせていなかったのかだ。
寿子によると、善次郎本人が心配させてはいけないと口止めをさせたらしかった。
遠くにいる息子を思えばなくもない話だろう。
風柳は話を聞くなり、手紙は単なる悪戯で特に問題はないように思っていた。
これだけ大きな屋敷の豊田家の主が亡くなったからには、遺産相続が絡んでいるかも知れないと思って念のため尋ねてみたものの、善次郎は特に遺言を残したわけでもなく、穏便に法に定められた分配になる事からその心配もなさそうである。
しかし、善次郎の弟にあたる忠郎は兄の死のショックが神経質にさせるのか、よっぽど気がかりなようで、一応に調べて欲しいと懇願した。風柳は渋々一泊してもう少し様子をみる羽目になったのであった。
それは黒影や白雪も同様の事だったが、気乗りしない風柳とは反対に、黒影は随分と状況を楽しんでいるように伺える。話が終わるとそそくさと、善次郎の遺体確認に足を運んだ事からも垣間見える。
「ここにいらしたんですか。」
黒影は葬儀会場になる予定のエントランスで忙しそうに葬儀の準備に勤しむ萩原佳代に声を掛けた。
「ええ、葬儀は明日ですから。まだ実さんとは結婚したわけではありませんが、私も生前にお世話になったお父様の為に、何かして差し上げたくて、こうしてお手伝いさせていただいているのです。」
と、答える。黒影は辺りを一瞥すると、
「そう言えば、先程から寿子さんの姿が見えないようですが…。」
と言葉にした。葬儀の準備で一番慌しいであろう人物の姿が見えなかったからである。
「ああ、お母様でしたらキッチンの方にいらっしゃいますわ。」
と、萩原佳代は答えた。
「そうでしたか。ちょっと善次郎さんのお姿を拝見させていただいて宜しいですか?私がきたのも何かのご縁ですからご挨拶をと思いましてね。」
と、黒影は言うなり萩原佳代は快くにこやかな笑みを浮かべ、頷く。
黒影は了承を得ると、早速亡き善次郎の亡骸を確認した。真っ白な顔からつま先まで食い入るように見たが、何処にも外傷らしきものも、不審な点も見つからない。やはり、他殺という事は考えられないか…そう思った時だった。黒影は、ある箇所に興味を持ち膝を折って屈むと、
「佳代さん、ちょっといいですか?」
と、切り出した。
祭壇の花を整えていた萩原佳代は、その言葉に手を止めて黒影の顔を見つめた。
「あの…この棺、あまり見ないデザインですね。」
黒影がそう言ったのも無理はない。善次郎氏が納まっている棺はちょっと変わった材質で出来ているように思えた。
よく見ると何種類かの色が異なった木々で上手く組み合わせて作られているようではないか。
「ああ、それはお父様が生前からご自分で選ばれていたもので、特別に作らせたものらしいです。」
萩原佳代は黒影に棺が選ばれた経緯を教える。
「善次郎さんは、自分の死期を悟っていらっしゃったんでしょうか…。」
黒影は思わず善次郎の顔を見ながらそう呟いたが、当然死人が答える口もなく萩原佳代もそれについては何も言葉を返さなかった。
己の死が近づいている事を感じながら、一生の最後の時を待った善次郎氏はどんな気持ちでこの棺に眠ったのだろうか…。そんな事を考えながらも、黒影は善次郎の棺の前で黙祷するのであった。
「こんな所にいたのか。」
黒影はその聞きなれた声に瞼を開き振り返る。
振り返ったその先には、風柳の姿があった。
「警察の他の連中は帰ったんですか?」
黒影は聞く。
「ああ、特に不審な点もないし事件というわけでもなさそうだからな。それより白雪ちゃんの姿が見えないようだが?」
と、風柳は言うではないか。黒影はふと辺りを見渡した。
そう言われてみれば、何も言わなくとも何時も黒影の後をうろついている白雪の姿が見られない。黒影は外見に出しはしなかったが、焦る心を押し殺しながら白雪の姿を探す。
何時も傍にあるはずのものがないという事は、なんて心を不安にさせるものだろうか。何時ものポーカーフェイスはそのままに、どことなく足早にエントランスを出て行く黒影の後姿を見ながら、風柳は少しだけ微笑ましい気持ちでそれを見送った。

「白雪…。」
黒影はチェス盤のような黒と白模様の床一面の部屋に入り、白雪の姿を見つけると思わずそう漏らすように口にした。
小さな声だったが、白雪はそんな声でも受け止めて振り向き笑顔で迎える。
「ああ、黒影。…今ね、実さんからチェスを教えてもらっていたのよ。」
と、言うのだ。
黒影は白雪の変わらぬ何時もの姿に安堵の笑みを隠せない。
「すみません。私が白雪さんをチェスにお誘いしたんです。女性達は葬儀の準備で忙しいようで、こんな時男はただの邪魔者ですからね。
何も手伝わせてもらえそうもないので、少し暇つぶしに付き合っていただいていたのですよ。」
実にも黒影が心配して探していたであろう事は表情から察しがついていたので、慌てて椅子から立ち上がると説明をした。
「そうでしたか…僕はてっきり白雪がご迷惑を掛けていたのではないかと思いましたよ。」
と、黒影は笑いながら言ったが、白雪はその言葉に頬を軽く膨らませる。
「いえ、迷惑だなんて…。久々にこうして父の好きだったチェスが出来て、随分気持ちも落ち着いてきました。白雪さんのお陰です。」
と、実は黒影に言い終えると白雪を見て軽く微笑んだ。
「白雪で相手になりましたか?」
黒影は思わず、二人が向かっていたテーブルの上のチェス盤を覗き込んで聞く。
「ええ、なかなかの強敵ですよ。白雪さんから伺うなり、黒影さんはもっとお強いのでしょうね。」
と、実は返す。
「黒影のチェスに何時も付き合ってるって、さっきお話ししたの。」
と、白雪は間を割って話した。
黒影は謙虚に苦笑し、部屋を見渡し言う。
「この部屋もお父様の善次郎さんの趣味ですか。」
部屋の床のチェス盤模様もさる事ながら、部屋の壁に描かれている絵もチェス盤と、何処もかしこもチェスの為にあるような部屋なのだ。
「ええ、父のチェス好きは趣味の範囲を越えていましたからね。幼い頃は私もよくここで父からチェスを教えてもらったものです。僕がこの家を出てからもどうやら随分改造したみたいです。」
と、実は遠い昔を懐かしんでいるのか、漠然とチェスの絵を見ながらそう答える。
「どうです、僕も一興投じてみようかと思うのですが…いかがですか?」
黒影は実の気持ちを察して、チェスの相手に名乗り出た。
「今日は実に楽しい日だ。一日に二人もチェスのお上手な方と勝負していただけるなんて。父のめぐり合わせですかね。」
実も父親に負けず劣らずのチェス好きのようで、目を輝かせながら実に嬉しそうに笑うではないか。
黒影と実のチェスは五分五分といったところで、なかなか勝負がつきそうにはない。しかし、二人が楽しそうに策略を巡らす姿に、白雪は静かに珈琲を注ぎながらそれを見守るのだった。
葬儀の支度も一段落付いた夜更け頃、やっと両者の勝負はつき、黒影の勝利にて決着がつく。
「いやあ、なかなか楽しませていただきました。是非ともまたお手合わせ願いたいところです。」
実は負けたのに、ちっとも悔しがる素振りも見せず笑顔でそう言った。
「では後日、また勝負と洒落込みましょうか。」
黒影はそう言うと実は喜んだ。またの勝負を楽しみに黒影と白雪は実が案内してくれた部屋に通され、時計の針が0時を過ぎた頃、それぞれ眠りについたのである。
静かな夜は深く…これから起きる全てを呑み尽くす程に闇に包み込むのだ。

短いようで長い夜が明けた朝の事だ。
「今日は夢見が良かったようだな。」
黒影はご機嫌に鼻歌を歌いながら珈琲を注ぐ白雪に言った。
「今回は何の事件も起きていないわ。だから安心して眠れたのよ。」
と、白雪は答えた。
けれど白雪は気付かなかったが、黒影の笑みは何処と無く影を滲ませていた。黒影は思わず部屋の壁掛け時計を見上げ、
「時計か…。」
と、珈琲を一口、口にしながら呟いた。
黒影は夢に見た、時計の陰が気がかりだったのだ。
すると何処からともなく鐘の音が聞こえてくる。屋敷にある時計台からかと黒影は思ったが、不自然な事に部屋の壁掛け時計は丁度の時間をさしてはいない。
「時計がどうかしたの?」
白雪がそう言った直後だった。

「きゃ~っ!!」
外から女の人の叫び声が届いた。
黒影は慌てて珈琲カップをソーサーに置くと窓を勢いよく開け、身を乗り出すようにして外を見る。庭の方を見ると下から黒影がいる屋敷の上を指差して凍ったように固まっている萩原佳代がいた。
「どうしたんですかっ!」
黒影は遠く下の庭にいる佳代にも聞こえるように大きな声でそう聞くが、佳代は顔を強張らせたまま震えていて返事も出来そうにない。
黒影は聞いても無駄だと理解すると、自分で状況を判断すべく、佳代が指差した黒影の部屋のもっと上を見上げる。
黒影が見上げた瞬間に何かがぽとりと額に落ちてきたではないか。
黒影は驚いて一瞬目を閉じたものの、額に落ちたものを手の甲で拭って確かめる。
…血だ。
黒影の額に落ちてきたのは雨でも雪でもない、真っ赤な血だった。黒影が改めて上を見上げると、屋敷の上部にある鐘のついた大きな時計台の文字盤にだらりと垂れ下がった人影が見えるではないか。
「これだったのかっ!」
悔しがるように黒影はそう言ったかと思うと、窓の中に身を引っ込め、愛用の黒いロングコートを羽織って駆け足で部屋を出て行った。
「ちょっ、ちょっとどうしたのよっ!?」
黒影の慌てて出て行く後姿に白雪は何事かとそう大声で聞いたが、その声は黒影の耳には届かなかったようだ。しかしながら、白雪にはこの黒影の慌てぶりは何度か見た事があるものだった。
何か事件が起きたに違いない…そう悟った白雪は慌てて、風柳の部屋へと急いだのである。
「なんて事だ…。」
風柳が黒影の姿を見つけ、黒影が何を見ているか知るとそう口にした。
黒影と風柳は時計台にいた。
「時計の針に突き刺さっているようだ。突き刺さった衝撃でさっきの鐘が鳴ったんだろう。今は仏さんの重みで針は動いていないが…。」
風柳が何かを聞くまでもなく、黒影は状況を説明した。
針の切っ先に突き刺さっていたのは先日亡くなったばかりの善次郎の妻、寿子であった。
「後追いだろうか…。」
風柳は思わず聞いたが、黒影は何も答えずに無言でじっと寿子の無残な姿を目に焼き付けるように見ている。黒影はきっと他殺だと思っているであろう事は、長く行動を共にしていた風柳には察しがついていた。
風柳は頭を巡らせているであろう黒影をそのままに、事件があった事を連絡しに時計台を後にする。
風柳と入れ違いになるように実と洋子と忠郎も何事かと時計台に到着した。
洋子は惨劇を目にすると眩暈を起こし倒れそうになった所を忠郎が支え、一方の実はあまりに衝撃的だったのかまるで夢でも見ているかのように呆然と途方に暮れている。萩原佳代も庭に蹲って両手で目を覆い隠し怯えているようだ。
まるで死が辺りを満たしているかのように涙をすする音以外、屋敷は眠ったように静まり返っていた。
度重なる不運で屋敷の人々はすっかり意気消沈していたものの、予定されていた善次郎の葬儀は変更出来るわけでもなく、深い悲しみに包まれながらも執り行われた。
寿子の遺体は葬儀前に片付けられたが、葬儀の為に詳しい調査は後日行われる運びとなる。
寿子の死で急に喪主を務める羽目になり大忙しだった実は、やっと一段落が着き、チェスの間に戻り一服と思った時だった。
ふと実が壁に描かれていたチェス盤の絵を見て不審に思った。何か妙な違和感を感じるのである。
暫し眺めるとそれが何かはっきり浮き上がってきた。絵が…変わっているのだ。
幾ら自分の父親の葬儀だったとはいえ、変わる筈もない壁画が変わるなんて…不気味に感じるのも無理がない。
実は青ざめた顔で黒影と白雪をチェスの間に呼び、壁画を見せた。
「確かに…昨日見た壁画と違うようですね。」
黒影はまじまじと壁画を覗き込みながら口にした。
「そうなんですよ…まったくもって不可解極まりない。しかもこの絵は壁に描かれているのだから誰かが上から塗り替えない限り、変わる筈はないのです。
しかし、この絵を見る限り上から書き換えた形跡らしきものは見当たらない…一体どういう事でしょう?」
実は思わず黒影に聞いた。
黒影も影絵を書く絵師ではあったが、彼の目からも塗り替えた形跡など見当たらない。
「はて…僕にもこれは皆目検討がつきません。壁自体を張り替える事も考えられますが、この弧を描くような曲がった壁はそうも簡単には張り替えられそうにもありませんね。
となると…壁紙を張り替えたのでょうか…。」
黒影はそう考えながらぼそぼそ言うと、壁の壁面に手を滑らせてみる。
しかし、壁紙の張り合わせた箇所もなく、一面を張り替えるには困難にも思われた。
「黒のルークは白のポーンを取ろうとしているのかしら?それとも…白のクィーン?もし次の一手が白側であればクィーンに取られる危険もあるわ。」
白雪は壁画を見ながら呟く。
絵からすると確かにルークは次の手でどちらをとってもおかしくはない位置にいた。
一体この絵に何の意味があるのか…黒影にも理解出来ずにいたが、その直後…一本の電話がこの壁画に新しい意味をもたらす事となる。
「実さん、ちょっといいかしら?」
部屋を訪れてそう実に声を掛けたのは洋子であった。
「どうかされたんですか?」
洋子の姿を確認すると、そう聞く。
「それが…壊れた時計台の時計の修理に、何時も管理をお願いしている村瀬さんをお願いしたのですが、管理会社に問い合わせたら無断欠勤されているみたいで、行方知らずになってしまったようなのですよ。」
洋子の言葉に反応したのは黒影の方だった。
「何ですって?何時から姿を消したのですか?」
黒影はそう聞いたが洋子は、
「さぁ…昨日は出勤されていたようですが、詳しくは…。」
と、言葉を濁すだけである。
「一応、風柳さんにも知らせておいた方がいいわ。」
白雪は黒影の袖の裾を軽く引っ張りそう提案すると、黒影もその方がいいだろうと思ったようで頷いた。
風柳が黒影と白雪に半ば強引に引っ張られてチェスの間についた時、話を聞きつけたのか忠郎も部屋にいて壁画を不思議そうに眺めていた。
「私はちっともこの壁画を気にした事もなければ、昨日見かけてもいないが、確かに変わったのですね?」
風柳は確認の意を込めて、そこにいた面子に聞いた。
「ええ、確かです。昨日黒影さんと白雪さんと私の三人で長時間ここでチェスをしていましたから、はっきり覚えています。」
そう実が答えると、
「私も昨日見ましたよ。彼らがゲーム始める前にですが、確かにこの絵とは違っていた。」
と、忠郎も証言をする。
「何とも不思議な事が起こるものだ。今朝の寿子さんの急な死といい、この変わった壁画と言い…どうかしている。
…ところで黒影君、私はチェスなんて洒落た遊びはしない性分なのだが、事件となんらかの関わりがあるかも知れない。簡単な説明を聞かせてもらえないだろうか。」
壁画を見つめ頭を抱える風柳であったが、チェスのルールがわからなければこの絵が示唆するところも一向に理解できないので、渋々ながらも黒影に聞く。
「簡単に言えば、キングは縦横斜めに一マスずつ、クィーンは前後左右斜めに駒は飛び越せないが一直線に、ビショップも同様に駒は飛び越せないものの斜め一直線に移動できます。ルークも駒を飛び越せないが、前後左右一直線に移動出来る。ナイトは逆に他の駒があっても飛び越せ縦三マス横二マス又は縦二マス横三マスの対角線に移動、ポーンはスタート地から一マスか二マス直進。その後は斜め一マス前にある相手の駒を取りながら進めるわけです。」
と、駒の名称を軽く教えた後に、実際にチェス盤の上で駒を動かしながら説明をした。
「勝敗は先にチェックメイトした方が勝利だったかな。」
風柳は記憶を辿ってそう聞くと、黒影は肯定するように頷き、
「チェックはキングが次に取られる状況にある事を言い、チェックメイトはチェックされても回避する手がない状態の事でゲーム終了となるんです。」
と、詳細を付け加えた。
「成る程。何となくはこの私でも理解できた。」
そう言って風柳が納得したところを見ると実は、
「今度は母の葬儀の事もありますので、私はこのへんで失礼させていただいて宜しいでしょうか?」
と、風柳に聞いた。風柳ははと気付いたように、
「そうでしたな。まぁ、色々心配もおありでしょうが、後は我々警察の者にお任せ下さい。」
と、実を気遣いながらも廊下まで見送った。
「このルーク…何だか、この屋敷の時計台みたいね。」
白雪がぽつりと黒影に言った。
黒影は白雪の顔を見て暫し呆然としたが、思い立ったように手を軽く叩いて、
「成る程、確かに時計台に似ている。…と、なればこのルークはもしや時計技師の消えた村瀬さんと言う事か。
ルークが狙うはクィーンかポーン。寿子さんが狙われたクィーンだとすると、明日あたりにポーンに例えられた死体がもう一つ増えるという予告か。」
と、軽く物騒な事を口にするではないか。
「おいおい…幾ら何でも、これ以上死体が増えるなんてわたしはまっぴらご免ですよ。黒影さんもご冗談が過ぎる。」
と、それを聞いていた忠郎は思わず口を挟む。
黒影は笑いながら、
「まあまあ…その可能性もなくはないというだけですから、冗談として受け止めて下さって結構ですよ。推理とは何時も無い筈の可能性から産まれるものです。
…ただ…この絵が仮に寿子さんの死後に変えられたのだとしたら、犯人が何らかの意味があって変えたと考えるのが自然です。しかし、今はまだそれを確定するだけの材料が少な過ぎる。
今は考えても仕方が無い。…どうです、忠郎さんもチェスを知っておられるのでしょう?宜しければ1ゲーム付き合って下さいませんか?」
と、今度は忠郎をゲームに誘った。忠郎は快くそれを受け入れ、実を送った風柳もそれではと、ルールを覚える為にもと二人のゲームを見守る。
始めは1ゲームと言って始まったチェスだったが、忠郎は負けたのがよほど悔しかったのか、再戦を繰り返し、3ゲーム目に突入していた。
結局3ゲームとも負けてしまった忠郎はとうとう諦めてチェスを終えたが、今度はそれを見ていた風柳が自分もやってみたくなったと言い出した。黒影はもう飽きていたが、断るに断りきれず、仕方なく1ゲームだけ付き合おうとしたその時の事だ。
壊れていた筈の時計台から0時丁度に鐘がなったではないか。黒影は驚いて忠郎に、
「この鐘の音、0時になる仕組みになっていたんですか?」
と、聞いた。
「さぁ…私も普段はここにはいませんから。最初は鐘がただの飾りだと思っていたぐらいです。今朝、母が亡くなる直前に鐘の音を聞いて初めて鳴るのだと知りました。」
と、忠郎が答える。
「0時に鳴るのだとしたら昨晩聞いてもよかった筈だが、昨日は聞かなかったと思うが…。
時計はまだ壊れている筈だから、きっと誤って鳴ったのだろう。」
風柳がそう言うと、皆はそれもそうかと納得したようであった。ただ、黒影一人を除いては…。
黒影は妙にこの時計の鐘の音が気がかりである。幾ら壊れていたからと言って、0時丁度に鐘が鳴るには偶然過ぎると思っていたのだ。
「少し眠気にやられたようだ。今日はこのへんにして、明日に勝負は持ち込みとしましょう。」
黒影は突然そう言うと、そそくさと一人で自室に戻ってしまった。

「おいっ、起きろっ!!」
翌朝、風柳は黒影と白雪の部屋にずかずかと入るなり、眠っていた黒影を叩き起こした。
「一体何だって言うんです、こんな朝っぱらから。」
黒影は目を擦りながらも、風柳が訪問した理由を問う。
「もう昼近くだぞ。…そんな事より、また絵が変わったんだ。」
風柳は飽きれながらも答える。
「昨日は気に掛かる事がありましてね。あれから今朝方までずっと考えていたんですよ。
…で、絵というと例のチェス盤が描かれた壁画の事ですか?」
黒影が聞くと、風柳は肯定して頷く。
黒影が顔を洗っている間に、何時もの朝と変わらずに白雪は珈琲を作っていた。
「すまないが今日は少し濃くしてくれないか。」
黒影は鏡越しに白雪の姿を見ながらそう言ったが白雪は、
「言われなくても、そうしてるわ。」
と、黒影の事なら何でも知っていると言わんばかりに返した。
風柳は黒影の朝の低血圧ぶりを知らないではなかったが、少しも慌てない姿に少し苛立ったのか、テーブルの端を指でコツコツとリズミカルに叩いた。
それから黒影が何時もの黒いロングコートを身に纏い部屋を出たのは三十分程経った頃だっただろうか。早速、風柳に促されるままにチェスの間へと向かう。
「成る程、確かに変わっているようですね。」
黒影は変わった壁画を見ても、顔色一つ変えずそう口にしただけだった。
「何を暢気な事を言っているんだ。やはりこの壁画には何か意味があったとしか思えないじゃないか。」
と、風柳は言うのだが黒影は、
「知っていましたよ。恐らくこの壁画は昨晩の0時に鐘が鳴った時、僕らはあの後直ぐに部屋を出て気付く事はありませんでしたが、ゆっくり時間を掛けて今のこの絵に変化していったのでしょう。」
「何だい、黒影君。君はもしやこの絵が勝手に動くとでもいうのかね?」
黒影の言った言葉に風柳は飽きれながらもそう言うではないか。黒影はそれを軽く笑ってあしらうと、
「まさか…幾ら白雪や僕の能力に説明がいかないとしたって、怪奇現象や呪いだとか、非現実的な事を信じているわけじゃあありませんよ。ちゃんとあるんですよ、トリックが。」
と、言うなり壁画の描かれている壁を手のひらの甲で軽くノックをするように数回叩くではないか。
「…!?妙だな。」
風柳は黒影が壁を叩いた音に疑問をもった。
「そう、普通ならば壁の裏は柱が無い限りはだいたい空洞になっているものですが、この壁は特殊なんですよ。中に何か詰まっている音がする。
僕が思うに、これは巨大なからくり時計なのです。
この表面が曲がった壁は一部を見ているに過ぎない。きっと中をみれば柱のような円柱になっている筈です。そして円柱を回転させる事で壁の絵を変えているんです。
昨日の晩、気になって時計台に上り中を調べて来ました。思った通り、時計台の中のからくりを見ると、丁度下のこの部屋まで続いていましたよ。」
黒影は、そう風柳に説明をした。風柳は成る程と唸りながら首を縦に深く数度振る。
「しかし、普通のからくり時計ならば、規則的にこの壁画も変わる筈だ。けれど、この壁画の変化には規則的なものがないようだが、それは一体どう解する?」
と、風柳は更に頭に浮かんだ疑問をぶつける。
「それならば至極簡単な事ですよ。規則性は元からありました。時計台の鐘が0時になるとからくりも同時に動き出すわけです。問題は我々がこの屋敷に来た初日に鐘が鳴らなかった事です。1日目の0時までには寿子さんは殺され、時計は壊れていた。
そして翌朝、寿子さんの遺体を発見してくれと言わんばかりに、何者かが時計を直して鐘を鳴らし、からくりを起動させたのです。」
と、黒影はその疑問もいともあっさりと解いてしまった。
「えっ、じゃあ…善次郎さんも寿子さんも誰かに殺されたって事?」
と、白雪は黒影に思わず聞いたが黒影は、
「さあね。まだ断定は出来ない。わかったのはこの時計を操作した者がいるという事だけだ。
これだけ大掛かりなからくりを動かせる人物といえば、時計技師の村瀬さんが一番妥当ではあるが、彼は行方不明。
このからくりを他の皆にバレる事無く作為的に動かしたところをみると何か意味があるには違いないだろうけれどね。」
と言うのである。まだ謎は残っているという事を知ると、白雪は気持ちがすっきりしないようで、そわそわと考え込みながらチェスの間を右往左往した。
「では、これまでの壁画の駒の動きをおさらいしてみてはどうだろう。」
落ち着き無い白雪を手助けするべく、風柳がそう提案すると、白雪はそれもそうだと賛成し、早速壁画を前に議論が始まったのである。
「昨日と今日の壁画を見比べると、昨日ルークに狙われていた筈の白のクィーンが今日は消えた。つまり、ルークに取られたと考えた方が自然だね。」
と、風柳が言うと白雪は急に何かが閃いたのか顔を明るくして、
「そうよ。つまりこのチェス盤の駒はこの屋敷の人を表し、犯行予告になっているんだわ。犯人は寿子さんを計画通りに殺害し、まんまと白のクィーンを消したってわけね。
その上昨日までルークはポーンも取れる位置にいた。
次に狙うのはきっとポーンに見立てた人物よ。」
と、言い出すのだ。しかし、黒影は白雪の意見に賛同出来ないらしい。
「仮にそうだとしてだよ、白雪。不思議な事に今日の絵では白のポーンが今度は黒のキングに狙われている。もし、本当に白のポーンを犯人が狙っているのであれば、昨日の絵と同じルークでけしかける筈じゃないだろうか…。
これでは犯人が変わったように示唆しているみたいだ。」
と、黒影は言うのだ。
白雪は折角の名案を台無しにされて、口を尖らせながら、
「それなら黒影、貴方はどう解くの?」
と、聞いた。黒影は…
「僕ならばこれはただの偶然だと思っている。何者かが消えた時計技師の村瀬さんを犯人に仕立て上げようとしているんじゃないかと思うんだ。」
と、答える。
「じゃあ、村瀬さんは?」
白雪は黒影の言葉に不安を感じてそう言った。
白雪の予感通りに黒影は、
「多分…何処かで本当の犯人に殺されているかも知れない。」
と、悲しそうに言うではないか。
推理とは時に、悲しい事実を明かさなくてはいけない辛さを伴うものだ。できればそうであって欲しくない…そう思いながらも、良い事ばかりを考えていては先へ進めない。
「村瀬さんを探すのが一番の解決法のようだな。ここは警察の出番だなっ。」
風柳は黒影と白雪の暗くなった顔を見て、わざと笑顔で意気込んでそう言った。風柳にとってはこの二人が何時ものように明るく笑っている事が、何よりの幸せなのだろう。

風柳が捜査班をはりきって指揮している頃、黒影は先日の実との約束を果たしていた。
チェスのゲームの再開である。
丁度黒影の手に、なかなか次の手が出せなかった実は壁画を見つめてぼそりとこんな事を言った。
「まさか、この絵がまた変わるなんて…。父は何時の間にこんなに凝ったからくりを作っていたんだか…。
一枚目の絵を始めて見た時、いやな予感がしていたのですよ。まさか、こんなにも色々な事件が起こるとは思いもしませんでしたが…。」
と。黒影はその言葉に、
「いやな予感?」
と、聞いた。実はゆっくり一度だけ頷くと話し出す。
「あの一枚目の壁画を見た時、まるでこの屋敷に関わる人間を駒にしてあるように思えて…あまりいい気はしなかったのです。キングの横に二つのクィーンがありましたでしょう?
僕は話にちらりと聞いただけですが、父は昔母と違う女の人との間に子供を作ったらしいのです。僕にとっては兄弟にあたる人になる筈ですが、父は何も教えてはくれない。それで喧嘩になって…僕はこの屋敷を出たのです。」
そんな実の話をじっくり聞いていた黒影は急に思い立ったように勢いに任せて椅子を立った。その衝撃でチェス盤の駒もすっかりバラバラになってしまった。
「一体どうしたと言うんですか。すっかりチェスが出来なくなってしまいましたよ。」
と、飽きれながらも実はテーブルの下に落ちた駒を拾う。
「そうです、それですよっ!壁画はこの家の家系図として作られたのです。しかし、善次郎さんは愛人との子の存在を明るみにしたくはなかった。しかし己の死期を前に形にしたくて、このチェスの壁画に描いたのですよ。そして、それを知っていた誰かが、この壁画と時計のからくりを村瀬さんに罪を着せる為に利用したんです。見てください…」
そう黒影は言うと、ゲームの途中で崩してしまったテーブルの上のチェス盤に一日目にあった壁画を再現して駒を配置する。
「この二人のクィーンに挟まれたキングの人物は善次郎さん本人なのです。善次郎さんが白である事を考えると、脇の白いクィーンが寿子さん。もう一方の黒いクィーンは愛人でしょう。そしてもう一つの黒いキングは弟の忠郎さん。愛人の横でキングではなくクィーンを守る位置にいる黒のナイトは恐らく愛人との子を意味し、黒のルークは村瀬さんではなく、黒のキングを守る者…つまり、洋子さん。そして白のポーンは貴方…実さんなのです。つまり…この白と黒にわかれている意味は、白い駒が一親等の血族、それ以外の血族を黒として善次郎氏は表したのです。」
と、黒影は駒を指差しながら説明をした。
実は一枚の壁画に隠された真実に、
「まさか…父がこんなところに家系図を描いていたなんて…。駒の黒と白にこんな仕掛けがあったなんて予想もつきませんでしたよ。」
と、黒影の名案に絶賛したが、黒影は急に何やら引っかかるようで、顎の下に手を添えて考え始める。
「仕掛け…。そういえば何処かで…。」
と、口にしながら。
黒影の脳裏には幼い日に母からもらった仕掛けのついた箱が浮かんでいた。その箱は二段底になっており、開けるには二色の板をパズルのように上手くスライドさせて二段目の裏底から鍵を取り出さなくていけないと言うものだった。
「実さん…寄木細工というものをご存知ですか?」
黒影は唐突に実に聞いたが実は、
「いいえ。」
と、首を横に振った。
「仕掛けがあったんですよ、君のお父様の棺に。風柳さんを呼びましょうっ!」
そう言ったと同時にもう黒影は実の手を引いて走り出していた。
風柳を呼ぶと言うよりも、黒影はそそくさと実を連れて庭でうろうろしている風柳の元へ辿り着いた。白雪も急な行動に息を切らせて、やっとの事で黒影に追いついたようだった。
「何だい皆揃って。」
風柳は三人の息を切らせて血相を掻いている姿に思わず聞いた。
「墓っ!墓を掘りますよっ!」
黒影は言った。
その言葉に実は思わず、
「何を言っているんですかっ!まさか黒影さんは父の墓を掘り起こそうって言うんじゃないでょうね。」
と、引きつった顔で言う。
「ご名答。おっしゃる通りですよ。君のお父様と一緒に村瀬さんも埋められているに違いないのです。」
と、黒影は答えた。
「なんてこった。まさか、墓荒らしをする羽目になるとは…」
黒影の言葉に風柳は思わず頭を抱える。実を説得して善次郎の棺おけを墓から掘り出すのに半日掛かっただろうか…。気付けば日が落ち始めていた。
棺桶が取り出されると、黒影は棺の表面を探る。黒影の思った通り、二色の組み木は移動するではないか。やがて…棺の脇に穴が開き二重底が発見される。そして…二段目に入っていたのは村瀬の変わり果てた姿であった。
黒影は村瀬の遺体を見つけると、力尽きてスコップを落とすと額に汗を残したまま片膝を地面に落とす。白雪は冷たい水から取り出したタオルをきつく絞り、それを広げて黒影の頭にゆっくりと置いた。
「まったく…こんなに小さな少女にまで心配させるなんて、困った名探偵だ。この事件が終わったら当分は体力作りをさせないといかんな。」
と、墓堀りに疲れきって寝込んでいる黒影の顔を心配そうに見つめながら言った。
「駄目よ、風柳さん。黒影はどう見ても体力系には見えないもの。」
と、白雪が言うと風柳もそれもそうだと笑った。風柳の豪快な笑い声で気がついた黒影は頭を抱えながらゆっくりと起き上がる。
「遺体はどうなりましたか?」
黒影は起きて早々遺体の話をするものだから風柳は、
「君は寝ても起きても死体の事ばかりだな。…村瀬さんの遺体なら解剖に回ってさっき毒殺だと判明したよ。死亡時刻もわかった。寿子さんが死んだのは君の推理した通り一日目の夜11時頃。村瀬さんは僕らが寿子さんの死を知った鐘が鳴った直後に殺されたのだろうってさ。」
と、半ば飽きれながらも教えた。
「…で、君の事だからそろそろ犯人の目星は付いているんだろう?」
と、風柳は黒影の次の行動を察して付け足す。
「勿論。」
黒影はそう笑顔で言って肯定する。
風柳はやれやれと両手を挙げながらも、結局は部屋を出て皆を呼びに行ったようである。
白雪は二人の会話を聞くと、鼻歌を歌いながら上機嫌で人数分の珈琲カップに珈琲を注ぎ、一つを黒影の手にそっと持たせた。
「ありがとう。」
そう一言だけいうと、黒影は珈琲を味わうように目を閉じて口にする。
部屋一面に満ちた香ばしい珈琲の香りに、何時もと変わらない安堵を感じながら。

「皆をエントランスに集めたんだが、実君と佳代さんの姿が見えないんだが…二人でデートでもしているのだろうか?」
部屋に戻って来た風柳は黒影にそんな事を言った。
「そういえば、そろそろ実さんとチェスの約束をしていた時間だった。…もしかしたらチェスの間にいるかも知れない。僕が呼んできますよ。」
黒影ははと約束の事を思い出してそう言うと、風柳と白雪に先にエントランスに行くように促した。
黒影が慌ててチェスの間に向かう途中の廊下で、階段を登って行く実と佳代の姿を見かけた。…まさか…黒影は不安に心を突き動かされながらも二人の後を付いて行く。
二人はどうやら時計台に上がって行ったようだ。
そろそろ黒影も二人に追いついて時計台に着くかと思われた時だった。突然時計台の鐘が0時でもないのに鳴り出したではないか。
黒影はこの鐘の音に焦りを感じて勢いよく時計台の中へと通じる扉を開いた。
扉を開けると夜の冷たい風がどっと流れ込んで来る。
時計台の中央には月に照らされて立ち尽くす佳代の姿が見えた。
「佳代さん…。」
黒影が声を掛けたが、佳代の様子がどうもおかしい。黒影ははと佳代が見つめている時計台の下を覗き込んだ。時計台の下の丁度時計の文字盤の所に針にぶら下がって今にも落ちそうな実の姿があった。
「黒影さんっ!」
実は黒影の姿を見つけると、すがるようにそう言う。
「動かないでっ、今そっちに行きますから。」
黒影は慌てて実に手を伸ばすが届きそうにはなかった。
「きゃ~っ!!」
鐘の音を不審に思った白雪はエントランスの窓から時計台を見上げそう叫んだ。と、同時に黒影は宙に突き落とされ実がぶら下がっている分針と逆の位置にあった時針に捕まる。
二人とも宙ぶらりんになって今にも下に落ちそうな体勢であった。黒影が落とされた時計台の上へと顔を上げると佳代は、
「丁度よかったわ。貴方がいなければ私が犯した罪を見破る者もいなくなる。
エントランスからは私の姿は影になって見えないわ。
このまま私は何事もなかったようにエントランスに向かわせていただきます。」
と、言い残すなり黒影の視界から消えて去って行ったようにも思われた。しかし、
「私は黒影君程甘くはないんでね。推理は出来なくても、犯人を捕まえる事なら得意なんですよ。」
と、聞きなれた声が黒影の耳に入る。…風柳だ。
時計台の上で犯人と一悶着しているだろう風柳と佳代はそのままに、黒影の身には大きな問題が起ころうとしていた。
実が運良く針に留まっているのは、彼のジャケットの裾が針に偶然にも引っかかっているからなのだ。
しかし今まさに、黒影の目前で針に引っかかったジャケットが切り裂けそうになっているのである。
一方の黒影だって無事とは言えない。咄嗟に落ちた時に針を掴んだまでは良かったが、思ったよりも針は金属製で鋭く、掴んだ手から真っ赤な鮮血が流れては落ちて行く。
実のジャケットが針から切り離された瞬間、黒影は針を掴んでいない方の手を伸ばし、実の腕を掴んだ。その衝撃で黒影の針を掴む真っ赤な手が更に針に食い込む。黒影は激痛に顔をしかめた。
もう駄目か…そう思った時だ。
「だから体力つけろっていったじゃないか。」
と、風柳が黒影の腕を掴んで上へひょいと持ち上げたのだ。黒影と実が時計台の上へ無事に戻ると、佳代が倒れている姿が見える。
「…あんまり暴れるもんだから、ちょいと眠っていてもらう事にしたよ。」
黒影はそれを聞いてやっと自分が助かった事にほっとしたのか、天を仰いで寝転んだ。
「まぁ、体力は無いにしろ、君が筋肉質でなくて痩せてて良かったよ。もう少し重かったら、流石の私でも片手では吊り上げられなかったかもな。」
未だ息を切らせている黒影に風柳は冗談交じりにそんな事を言う。黒影は、
「あなたの怪力があれば、僕に体力なんていりませんよ。」
と、言って苦笑した。
実は呆然と佳代の顔を見ている。婚約者に殺されかけたんだ…無理もない。暫くして息が落ち着いてくると、上半身を起こした黒影は実に言った。
「エントランスに行きましょう。皆待ってます。…貴方もどうして佳代さんがこんな事をしたか、知りたいのでしょう?」
と。
実は無言で頷いた。そしてまだ気絶している佳代を背に抱えて時計台を降りて行った。
実が佳代をおぶってエントランスに着くと、何が起きていたのかと心配していたエントランスに先にいた人達は聞いたが、実は何も答えはしなかった。
白雪は実の後に入ってきた黒影の姿を見つけると、思わず駆け寄る。
「風柳さんのおかげで助かったよ。」
黒影は心配そうな顔を向ける白雪にそう言って笑う。白雪は黒影の傷ついた手を取って、
「こんな怪我までして…馬鹿みたい。」
と、言うのだ。
一見白雪の言葉は冷たいように思えて黒影は意表をつかれたように目を丸くしたが、白雪の顔を覗き込むとその目には薄っすらと涙が滲んでいる。
「珈琲…飲むんでしょう?」
白雪は黒影の手を簡単に治療するとそう言った。黒影はほっと肩を撫で下ろし、
「…ありがとう。」
と、簡単に言ったが、その言葉には黒影の優しい笑みが反映されているようにも聞こえる。
丁度その頃、ソファーに横になっていた佳代がゆっくり目を開く。
「さぁ、佳代さんも一ついかがですか。白雪の作った珈琲はなかなかのものですよ。」
黒影はそう佳代に言うと、珈琲カップの乗ったソーサーを手渡した。
佳代は自分のしてしまった事に後ろめたさを感じて躊躇するが、黒影の笑顔に負けてそれを受け取る。そして、今回の一連の事件について、ゆっくりと黒影は話し出した。
「どうも、皆さんお待たせしました。それでは今回の事件について私の見解をお話しましょう。」
そう、黒影が切り出すと、佳代は俯いた。それを知らないではなかったが、黒影は話を続ける。
「まずは我々がここに来るきっかけとなった手紙の差出人の事からお話しましょう。
実さんには心の痛む話かも知れまませんが、正直言ってこの屋敷には貴方に財産を独り占めされたくない連中が多いようだ。
善次郎さんの死は他殺でもなく、警察の調べの通り寿命による死でした。
手紙の差出人の思惑はきっとこうでしょう。
…我々を呼び出し、実さんが善次郎さんを殺したのだと推理して欲しかった。そうすれば、幾ら実が息子とは言え、遺産相続の権利を失う事になる。
つまり差出人は、実さんの次に遺産を相続する権利のある人物となります。」
その話を聞いた忠郎は額に汗を滲ませ、
「きっと誰かのいたずらに決まってますよ。ここにいる誰もが父の遺産を自動的に少なくとも譲り受けられるのだから、そんな無駄な事をする必要はないでしょう。」
と、言うと黒影は、
「実さんが善次郎さんを殺したとして一番得するのは貴方です。遺産の分配額が増えますからね。いたずらにしては実に悪質だと思いませんか。わざわざ警察に善次郎さんの服用していた筈の薬がなくなったと言い出すなんて。妻の寿子さんさえ知らなかったのに…。洋子さん、貴方は葬儀の準備のふりをして薬を探していたのですね。もう出してもいい頃でしょう?」
と、返しさらに洋子に薬を出すように促した。
「始めはこんな事をする気はなかったんです。ただ、善次郎さんが亡くなったと寿子さんから連絡があった時、寿子さんは私に善次郎さんが心臓発作の気があった事もちらりと聞いたのです。それで…」
そういいながら渋々ながらに洋子はポケットから薬の入った瓶を取り出すと、それを風柳が受け取る。
「…それで、忠郎さんと二人で手紙を出す事を思いついたんですね。」
黒影がそう言うと、洋子はこくりと無言で頷く。
「でっ、でも村瀬さんの事は私達は何も知らないんです。今更信じてもらえないのも無理はないですが…。まさかこんな事になるなんて思ってはいなかったんです。」
忠郎は慌てふためきながらそう言い出す。
黒影はそんな忠郎に笑顔でこう言った。
「ええ、わかっていますよ。貴方方ご夫婦はただ手紙を出しただけです。勿論、貴方が村瀬さんを殺したところで何の得もないのですからご安心下さい。」
その話を聞くと、忠郎はほっとしたのか落ち着いてソファーにどっかりと座り込んだ。
「村瀬さんを殺した犯人の本当の動機は遺産などではないのです。彼女は初めから何もしなくても善次郎さんの遺産の一部をいずれ譲り受ける立場にあったのですから。犯人の動機の答えはあのチェスの間の絵の中にありました。善次郎さんが作った一枚目の壁画の中にね。」
黒影がそう言うと、佳代は急にソファーから立ち上がった。
「…あの壁画さえなければ、貴方はきっと今回の事件を起こす筈もなかった。あの壁画に描かれていたのは善次郎さんが残そうとした家系図でしたね。
勿論、その中にも貴方のお母様と佳代さん自身も描かれていた。しかし、それは貴方をこの豊田家の者とは認めないという善次郎さんの想いが描かれていた。
善次郎さんは貴方が昔愛人にした萩原美智子さんとの間に出来た子だとは死ぬまで気付かなかったようですが、貴方はこの絵を見た時に怒りにも似た想いを持った事でしょう。
一等親の親族を白の駒、それ以外の親族を黒の駒に描かれている事を知った貴方は、実さんと婚約し、今回の事件の罪を実さんに被せ、自分は堂々と豊田家の者として認められ、遺産を相続出来ればいい…始めはそう思っていたんでしょう。」
黒影がそう言うと、実は驚いた顔つきで、
「では、私と佳代は腹違いの兄弟だったんですか?!」
と、黒影に問う。黒影は頷くと答えた。
「そうです。けれどそれでは婚約は出来なかったでしょうね。だからこそ、佳代さんは自分の素性を隠したままにしておく必要があったのです。寿子さんを殺せば遺産は実さん…貴方の物となる。すると自然に実さんが怪しまれる手筈だったのです。けれど、佳代さんには協力者がいた。」
と、言うと忠郎は、
「それが村瀬さんだって事かい?…まさか、それで村瀬さんは…。」
と、黒影の言葉から予測がついたのだろう。
「そうです。佳代さんは寿子さんと実さんを殺して遺産を山分けにしようとでも村瀬さんに言ってまんまと自分の手を出さずに、村瀬さんに寿子さんを殺害させる事に成功した。村瀬さんはこの計画に必要不可欠な人でした…彼が寿子さん殺害後に時計を直さなければ、佳代さんは村瀬さんを殺す暇がなかった筈ですし、何より捜査を混乱させる為に奇妙な変化をする時計の存在は大いに役立ったでしょう。
佳代さんは寿子さんを殺害後、村瀬さんに時計を直させ、それが終わると当時に鐘をならしてその時に村瀬さんを殺害したのです。
そして時計台から外へ出る途中に善次郎さんの入った棺のからくりを使って、村瀬さんの遺体を一緒に入れる。その後何もなかったかのように、外に出て悲鳴を上げ、第一発見者になったわけです。」
と、黒影は今回の事件の成り行きをほぼ話終えた。
「なんで…。少なくとも僕は遺産が入ったら、君に管理を任せる気でいた。僕にはあまりに手に負えないだろうからね。こんな事になるんだったら僕がもっと早く、心の内を君に伝えておけば良かった。」
と、実は佳代を慰めるように言った。けれど佳代は余計に悲しそうな顔を浮かべるではないか。
全てがわかっても佳代をせめない実の姿が、何だか痛々しくも思える。黒影は二人の為に、もう一つの推測を語り出した。
「僕が思うにね…実さん、この計画が成された当初、佳代さんは貴方を殺す事を考えていた。けれど、貴方といるうちに佳代さんの心の中で、何か変化があったのでしょう。一見、今回の犯行の動機は単なる財産欲しさと善次郎さんやこの豊田家への恨みに見える。しかし、本当に佳代さんの心の中に闇しかなければ、あの変化する壁画をこんなに手間をかけてまで使用する理由はなかったのです。
あの壁画を使った最大の理由…それは、実さんが無実の罪で疑われる事を避けたかったのです。だから、我々も実さんではなく、村瀬さんを疑っていた。
本来ならば実さんに罪を被せる予定だったのに、佳代さんはそれを変えた…僕はそう思っているんです。
佳代さんの心の闇に光があるのだと信じて止まないのです。」
と。佳代は瞳に薄っすら涙を浮かべ話し始めた。
「そう…憎い、憎いわ実さんが。同じ血を引きながら、何の苦労も無く育ってきた実さんが憎い。…けれど、それは私が無知だったから…。実さんといて私は実さんの周りに起きている事実を知りました。
お金で繋がっている血族との関係に怯えながらも、実さんは善次郎さんさえ忘れていた、愛人とその子の身を何時も案じていた。一度も…会った事もなかった相手によ。実さんは言ったわ。いずれ遺産を受け継ぐ時が来たら、彼らにも何かしてやりたいと…そう、私に話したわ。
私はそれでも、嘘を突き通さなければならなかった。もし、もっと早く知っていれば…ここに来る事などなかったのに…。」
佳代の後悔はきっと計画を進めていた間にも、彼女の心を取り巻いていたのだろう。
「何を馬鹿な事を言っているんだ。婚約は解消されるけれど、ここは君の家でもあるんだ。
君が来られない場所ではない。
僕は今まで血の繋がった家族に僻まれながら一人で生きてきた気がする。佳代さんに会った時、初めて信頼できる人を見つけたと思えたのですよ。
僕はさっき時計台で君と夜空を見ていた。だが恥ずかしい事に酒を飲んでいて足を踏み外して転落しそうになった。
それを君と黒影さんと風柳さんは僕を助けようとしてくれました。そんな人を恨めますか。…折角見つけた妹を恨む事なんて僕には出来ませんよ…ねぇ、黒影さん、風柳さん。」
と、言うではないか。
実は佳代に殺され掛かった事実を事故にして欲しいらしかった。
黒影は殺されかけたあの酷い瞬間を思い出しはしたが、
「…そうでしたね。佳代さんが助けを呼んでくれなかったら今の実さんもいなかったでしょうしね。」
と、苦笑しながらも答える。
風柳はぽかんと口を開けているだけだったが、黒影と実がどうしたいのかわかるとやっと、
「佳代さん…貴方の心の中にはまだ善意がある。けれど村瀬さんを殺し、寿子さんを殺す計画を共に企てた事実は変わりません。
でもね、罪は裁く為だけにあるのではない。償う為にあるのです。償ったら…またこの家に戻って、実さんと協力してこの家を支えていくといい。」
と、言った。
佳代は深く風柳に頭を下げる。黒い心と白い心が人にはある。それは正義と悪であったり、闇と光だったりもする。
時に人は黒に負け、間違いを起こすが白がまったくない人もまたいないのだ。
黒影は今度こそ、佳代の心が黒に負けないよう願う。

「まったく…君のお陰で黒く染まってしまった。けれど何故か悪い事とわかっていながらも、心は晴れやかで真っ白い気分じゃないか。」
と、風柳は覚えたてのチェスの腕試しを黒影としながら嘘を作ってしまった事を少しばつが悪くそんな事を話す。
「犯罪者の気持ちがわかったような言い方ですね。案外犯罪者よりも我々の方が悪どいのかも知れませんね。」
と、黒影の顔は何処か楽しそうである。
「チェックメイト…ねっ。」
と、白雪が突然二人の間に分け入って言う。
風柳がチェス盤を見下ろすと、まさに今黒いキングが白のキングを奪って行った。
「まさか…キングで取るなんてっ。」
風柳は思わず口にした。
黒のキングは今日も黒い服を身に纏い、黒い心を隠して上機嫌のようである。

🔸次の↓season1-短編集 第五章へ↓(此処からお急ぎ引っ越しの為、校正後日ゆっくりにつき、⚠️誤字脱字オンパレード注意報発令中ですが、この著者読み返さないで筆走らす癖が御座います。気の所為だと思って、面白い間違いなら笑って過ぎて下さい。皆んなそうします。そう言う微笑ましさで出来ている物語で御座います^ ^)

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お賽銭箱と言う名の実は骸骨の手が出てくるびっくり箱。 著者の執筆の酒代か当てになる。若しくは珈琲代。 なんてなぁ〜要らないよ。大事なお金なんだ。自分の為に投資しなね。 今を良くする為、未来を良くする為に…てな。 如何してもなら、薔薇買って写メって皆で癒されるかな。