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[日録]A型としての矜持を忘れた日

May 17, 2021

 血液型占いなどは有り得ない、と大学時代に社会学部の友人から言われたことがある。ワンルームの小さな部屋で友人たちと一堂に会し、皆が煽って空になった安酒の空き缶とプラスチック製のコップを私が率先して片しているときのことだった。彼は私のその様を見て、綺麗好きだなあと皮肉も込めて呟いたのだが、それに対して私はA型だからと答えた。すると彼は血液型の性格診断などは科学的根拠がゼロで、信じるに値しないぞと、社会学部生の代表として私に忠告をしてきたのだ。私は血液型により性格が左右されることをそれまでの経験上、信憑生があるものだと思っており、柄にもなく血液型占いなども多少は信じていたのだが、彼は一向に譲らなかった。そんな彼を見てこいつはB型だな、などと思ったものだが、彼とは今は連絡も取っておらず正解かどうかは分からないし、そのときに答えていたのかも覚えていない。それはさておき、当時の私は自分がA型であり、A型の性格として定義されている「真面目・几帳面」な性格を持つ人間であることを自負していたのだ。
 小学二年生の頃、習字の授業で先生から字の綺麗さを褒められた。習っていたのかと聞かれたが、私は習い事など何もしていなかったので、先生から賛辞の言葉をいただいたときには少し驚いてしまった。あまり自慢するほど綺麗でもないので気恥ずかしいが、兎に角、私は周囲から認められるほど字の上手い生徒として、その後も学校生活を歩んでいくことになる。小・中・高と、ノートの提出が求められる授業が少なからずあったが、いずれも先生からは板書の書き写しが丁寧且つ字が綺麗であることを常に評価されていた。私はそれを受けて嬉しい反面、ノートが綺麗なことに何の意味があるのだろう、この先生は物事の本質を理解しているのだろうかと、大人に対して舐めた態度を取っていたのであるが、正直なところ今でもその気持ちはあまり変わっていない。以前の日録でも述べたとおり、私は学業においては暗記するだけしか能がなく、そのことに対して些かの将来の不安を感じていたこともまた事実なのである。何が言いたいかというと、私のノートが綺麗であるのは誰かに見せたいわけでも先生から褒められたいわけでもなく、私が只そうしたい性格だからそうなっていただけだということで、直線を引くときは必ず定規を、円を書く必要があればコンパスを用いて、自分が完璧だと思うノートを作ることこそ私の学生生活のすべてであったのかもしれない。それほど空虚で本質の伴わないことにも全身全霊で臨む真面目で几帳面な性格こそが、A型として生を受けた私の本質なのだと信じていたのである。
 コロコロコミックに始まり、並行して週刊少年ジャンプといった漫画作品を読むようになった小学生の私は、決して多くはないお小遣いとお年玉のすべてを漫画の単行本へと注ぐようになる。私が生を受け、物心がつく前にはすでに連載が終わっていた『ドラゴンボール』の完全版が出始めたのもそんな時期である。かめはめ波程度の知識しかなかった幼い私は、それゆえに本作品はどのような物語なのだろうと興味を持ち、月二巻ごとに発刊されるそれらを自転車を漕いで十分ほど先にある近所の本屋に駆け込んでは、薄っぺらいマジックテープの財布とともに決死の覚悟でレジに持っていき、会計を済ませると即座に帰って部屋の中で読み耽っていた。本作品は、初期は『ドラゴンクエスト』にも通ずる可愛らしい鳥山明先生の絵柄で展開される物語だったが、悟空が成長するにつれ内容が過激になっていき、腕が吹き飛んだり内臓が飛び散ったりしていくグロテスクな描写が徐々に増えていく。小学生の私は、その明らかな変化のグラデーションを感じ取っていたが、嫌悪することもなく、氏の見事な筆致と子ども心を揺さぶるストーリー展開にのめり込み、ベジータと悟空の最初の戦いが収録された第十六巻において、超サイヤ人になっていない悟空が "オラ" ではなく "オレ" と一回だけ発言していることを発見するまで隅々と読み込むに至るのであった。読み終えた後は、身長の倍近くある本棚に戻すのであるが、その本棚に並ぶのは大量の少年漫画作品とゲームのパッケージが少数だけであり、それらは今思い返しても整理整頓され、綺麗に揃えられていたと思う。ジャンプ、サンデー、マガジンと多岐にわたる雑誌の発刊元ごとに棚のスペースを考慮し、且つ、作者が同じであるならば異なる作品でも隣同士に並べ合わせるなど、常に管理を怠らなかった。
 そこで私はふと、MacBookから目を離し自分の頭上を見上げる。窓のカーテンレールを覆うようにして、部屋の内側に庇が取り付けられているのであるが、今の私はその上に本を無造作に並べている。諸事情あり、私の過去集めてきた漫画や小説、学術書といった本のすべては今現在、関西と九州地方に分かれて存在しており、今ここにある本たちは、私が関東に来てから購入したものしかない。その理由はまた別の機会に述べるとして、ともかく頭上の本たちは整理整頓されているわけでなく、めちゃくちゃに揃えられている。河合隼雄の『ユング心理学入門』の隣には天才数学者・岡潔の随筆集『春宵十話』があったり、敬愛して止まない原節子の見事なドキュメンタリーである『原節子の真実』の隣には、LSDの歴史を膨大な参考資料を基に一から紐解いていく『アシッド・ドリームス』がどかっと置かれている。ざっと見たところ五十冊以上は並んでいるが、それぞれの大きさも文庫から大型書と様々で、凸凹が立ち並ぶその様は小学生の私が見たら卒倒するのではないかというほど支離滅裂な光景なのである。
 過去の私も今の私も、A型として生を受け、相も変わらずA型であることに変わりはない。また、性格が大きく変わったのかと問われれば、実感としてはイマイチ分からないと応えるほかない。しかし、こうして過去の私とともに我が人生を客観的に振り返ってみると、明らかに今の私は、A型としての矜持を忘れているのではないかと過去の私に問い詰められても言い返す自信はない。いつからこうなってしまったのだろうか。
 貴方はいつからそうなったのですか、これも大学時代に言われた言葉だ。ベラベラと趣味の話を喋る私に対して、唐突にブチ込まれた質問だった。今思うと、酒も入り饒舌になった私を鬱陶しく思い、喋らせまいとして適当に投げかけられた質問だったのかもしれないが、私は思わず面食らってしまった。言い換えれば、人生のターニングポイントはいつなのか、といった質問なのかもしれないが、そう訊かれるよりも平易な言葉で紡がれた "いつからそうなった" という言葉には、私の中に内在する深淵なこころという本質的な部分を問われたような哲学的な響きであり、今でもふとした瞬間に思い出す呪いの言葉のように残っている。私は私として、真っ当な人生を歩もうとして生きてきただけのはずで、私はそのように驕り高ぶった自分こそが真っ当で周りが変わり者なのだと思って暮らしてきたにも関わらず、決してそうではなく、私こそが変わり者と見做されるような人間だったことを初めて理解した日かもしれない。当時のアルバイト先の先輩に、暇な店内でいつものように談笑している際、先のことを相談したらトゥルーマン・ショーみたいやなと爆笑され少しは救われた気もするが、本質的な問題としては私の中でも未だに残留している。だからといって、皆にまともと思われたいわけでも、変わり者というレッテルを貼られ生きていくことを拒んでいるわけでもない。そういうわけではなく、私という一個人が社会に放り出され、その中で上手く過ごせていると認識して証明することが如何に難しく、また私の居場所がこの世界において存在するのか、はたまたそんなものは幻想なのだろうかということを、ついつい立ち止まって考えてしまうようになったのである。
 つい最近、似たような話として、旧知の友人とLINEをしている内に "自分のルーツが何か" という話になり、私は中学生時代に読んだ鬼頭莫宏先生の漫画作品に人生観を大きく揺さぶられたと答えた。最初に読んだ氏の作品は、当時購読していた月刊誌であるジャンプスクエアに掲載された『彼の殺人計画』という読み切り作品であり、本作品が少年誌だけではなく青年誌を読むきっかけであり、ある意味では大人への第一歩だったように思う。
 本作品は、とある男子高校生の主人公が "オレは人を殺すことに決めた" と思い立つところから始まる。彼はごく普通の高校生男子であり、とりたてて特技があるわけでも勉学ができるわけでもなかった。かといって、将来に対する不安や希望があるわけでもなかったが、このまま行けばこの程度の人生だろうと見込みが立つような平凡なものであるからこそ、人生に一回くらいイベントがあった方が良いと考え、では "人を殺してみようかな" といった軽い気持ちから、淡々とその計画を練り始める……といった筋書きなのだが、少年漫画ばかり読んでいた中学生の私にはその作品が如何に真新しく鮮烈であったかは想像に難くないだろう。まるで禁忌に触れたような気もしつつ、読んで良いのかと戸惑いながらも、その素朴で簡素な絵柄の中、華奢に描かれる人物の膨大なモノローグが繰り広げられていく氏特有の作風にどっぷりと浸かり込んでページを繰る手が止まらなかった。彼はまず誰を殺すかを考え、世論に注目されるためには友達や家族では勝手な理由をつけられてしまうから避けることにする。理由をつけられてはいけないというところがポイントで、彼は純粋に "人を殺す" という動機だけで "人を殺した" のでなければ自分の意図が伝わらないと考える。理由が殺された側にある(とされる)程度の感情なら自分の中で処理できるため、わざわざ殺す必要などなく、自分の中で処理できない動機を以ってして行動に移さなければ人を殺す意味がない。 "人を殺す" という行動は自分の中では処理できないからこそ起こすべき行動なのであり、かつ、より世間の非難を買うのであれば幸福な人間を殺した方が良いと結論づけ、彼は裕福な女子小学生を標的にすることに決めた。標的としては自分に関係がない人物であれば、別に子どもではなく自分と同年代の高校生でも良いかもしれないが、よりセンセーショナルに世間が騒ぐのは子どもだろうと考えたのだ。標的の家や行動記録を入念に調べると、次に彼は、空手とピアノを習い始めると同時に勉学にも励み、平凡な高校生ではなく充実した高校生になることに努める。平凡なままであれば不満や抑圧を理由として捉えられてしまう恐れがあり、それは彼が望む結果ではなかったのだ。平凡だった彼にも今は "人を殺す" という人生で為すべき目的が生まれ、それだけを見てひたむきに努力することができたため、すぐに非凡で恵まれた高校生へと変貌を遂げ、異性からも一目置かれる存在となり、ついには妹の友達から告白されて可愛らしい彼女まで手にすることとなる。そんな願ったり叶ったりの状況になってしばらくしてから、彼は "オレの殺人計画" と記したノートを閉じ、この時間に標的がいるであろう公園に向かう。あの女子小学生を殺すという最後の行動に出るのだ。彼女は公園で友達とけんけんぱやかくれんぼをして無邪気に遊んでいる。彼は包丁を懐に、彼女が鬼となり壁に向かって目を瞑り秒数をカウントするその背中へ、ゆっくりと迫っていく。次第に包丁を握る手にも力が加わる中、彼女が十を数え終え、勢いよく振り向くと、眼前には懐に手を入れた彼が固まったまま立ち尽くし、その彼の隣には金髪の男が寄りかかるようにして立っている光景が広がる。彼女は一瞬きょとんとするも、すぐに友達を捕まえるため笑顔で走り出してその場を離れる。一方の彼は自分の脇腹を見ると、そこには包丁が突き刺さっており、それを握る手元の先には同年代の見知らぬ男がいる。誰だ、と力なく問いかける彼に対し、その男は "知らないからいいんだよ" と笑いかけたのを見て、彼はすべてを理解して倒れこむ。意識が死へと虚ろうその最中、充足感を味わう彼の最後のモノローグで作品は締めくくられる。
 "あとは彼が語ってくれるだろう"。
 読後の興奮冷めやらぬうちに、同じく読んでいた先の友人と連絡を取り合い本作品が "やばい" ことを、拙い言葉を連呼してはしゃいだことを覚えている。それから私たちは氏の作品にどハマりし、友人が『ぼくらの』を、私が『なるたる』を買ってお互いに読み交わしては鬼頭先生の見事な世界観と術中に絡め取られ、ごはんが喉を通らないほど放心状態にされたことも覚えている。それから今に至るまで、いわゆる "鬱展開" と揶揄される作品を数え切れないほど見てきたが、未だに『ぼくらの』や『なるたる』を読んだ当時の私の感覚を超えるほど真摯に精神をへし折られる経験は味わっていない。ある程度溜まったジャンプスクエアは古いものから順にマンションの集積所へと捨てていったのだが、『彼の殺人計画』が載ったジャンプスクエアからは本作品だけをA型らしく丁寧に慎重に切り取り、大切に保管していたのだった。
 そう、 "保管していた" のだ。つまり、どこかのタイミングでそれほど衝撃を受け、今なお素晴らしいと感じている作品の切り抜きすらも捨ててしまった自分が確かに存在しているのだ。その瞬間こそが、いわゆる人生のターニングポイントであり、 "いつからそうなったのか" という問いの現実的な答えであるようにも思うのだが、私はどうしても、その日のことを思い出すことができない。それを捨てる時、躊躇っていたのか、初めて読んだ日のことを思い返していたのか、一切の迷いもなかったのか、それすら記憶に無いのである。人とは、本当の意味でいつから、何を以ってして変わるのだろうか。長々と書いていたら、いつかは思い出すかもしれないと少しの期待を持ち、気負いもせず書き始めたのだが、向こうからの視線を感じ取れるほど深淵へと近づいてしまった恐怖がふつふつと湧いてきたので、今日はここらで目印を付け、引き返すことにする。続きはまたいつか、未来の私が語ってくれるだろう。


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