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[日録]自己否定する自己をあなたに

May 23, 2021

 私は独りでいることが好きなのであり、独りにされることが好きなのではない。昔から仲間外れにされると哀しい気分になり、友人と他愛もない話をだらだらと喋り続けている間は、至福の時間を過ごしていると心から実感する。しかしながら、私は一年三百六十五日八千七百六十時間五十二万二百分三百十二万千二百秒の内、仕事を忘れてプライベートとして過ごしても良いと神に与えられた時間のほとんどを部屋に篭り、独りきりで消費している。わざわざ惰眠を貪ることを止めて早起きして誰かに会うなど面倒臭いことこの上なく、私の意識が覚醒するかどうかは私の意識こそ知るところであり、目覚めたのが何時であれ、それからまた眠りにつくまでの間は家賃五万三千円の六畳の空間で如何なる小宇宙に旅立つことができるかにしか一切の興味が無い。具体的に述べると、本を読んだり、音楽を聴いたり、映像を作ったりすること、つまりは私の趣味に没頭することなのであるが、趣味だからと言って楽にそれらが行えるほど私は素直な人間ではない。一歩も外に出ないにも関わらず、その日の天候に左右されて何をする気力が出ない日もあれば、体調が優れないことなど御構い無しに爆音でレッド・ツェッペリンを流して小躍りする日もある。果ては友人の都合など知る由もなく電話をかけまくり、喋りたいことだけを一方的に喋っては電話を切ると、恍惚とした表情で近所のスーパーへ買い物に出かけ、献立も決めずに適当に目についた食材を手に取り、いつどこで手に入れたのかも覚えていないエコバッグにそれらを入れるとすぐさま肩にかけ、そそくさと家に帰っては鼻歌交じりに手際良く料理をし、安価なプロジェクターにMacBookを繋いでYouTubeに挙がっている将棋名人戦の大盤解説をロールスクリーンに投影させて、これこそが本当の大盤解説なのだと独りで微笑みを浮かべて満足しながら食事を済ませ、眠りにつくこともある。仕事以外において予定を立てることが何よりも苦手で、それがとても窮屈に感じてしまう私は、その日の気分に身を委ねて自分の意思で意思決定せずに一日を過ごすことに全生命を懸けているのである。私の気分に巻き込まれる友人たち、とりわけガブガブさんにはこの場を借りて謝罪したい。彼は私のどうでもよい話や瑣末な悩みにも真摯に耳を傾けてくれるので、時には賢者にお話を伺うように、またある時には掃き溜めとして汚い言葉を吐き捨てようとも、決して煙たがることなくそのときの私の情緒を的確に理解し、ウンウンと適当に頷いたり、目から鱗がボロボロと溢れでるような言葉を投げかけてくれたりと、とても頼れるお友だちなのである。一言だけ、彼に苦言を呈するならば、私が電話をしたときには一発で出てもらいたいものだ。とにかく電話が全くと言ってよいほど繋がらないときが多く、そういうときの私は癇癪を起こしてデスクトップの前に座り込み、適当に映像ソフトをいじるなどしていつしか制作に身を傾けてしまうことになるのである。私はストレスを抱えると煙草をばかばかと吸うだけでは飽き足らず、自己に内在する行き場のない感情を制作にぶつけることがままあるが、そうなったが最後、制作それ自体がストレスへと変貌してしまうという本末転倒のメビウスの輪へと飲み込まれることになるので、なるべくそれは避けたいと常々感じている上、彼にもそのことは伝えている。無論、その日の気分に応じてただただ楽しんで制作をするときもあるが、今までの経験上、往々にして苛立ちを覚えてしまうことの方が多い。ガブガブさんの楽曲である " Hearts " に映像を勝手につけ始めたときも、事前に許可を得るため電話をしたが出なかったので、一方的に進めてしまったのである。

 本映像のラッシュを作成している間も、何度も電話をかけてみたが繋がらず、一方では映像の拙さと己の実力に苛立ちながら、修正を繰り返してはストレスを溜め込んでいたように思う。彼が電話に出たのは、私がラッシュを送りつけた後であった。私は勝手に作っておきながら、彼が電話に出なかったことと制作が面倒臭かったことに対して文句を垂れたのだが、電話口の向こうから驚きと感謝の言葉を述べられると機嫌を良くし、遂には彼に「二番目のパートで実写映像が欲しいので撮影しに行ってくれ」と顎で使うまでに至った。我が家から徒歩十五分先にある場所へと足を運べば自分でも撮影できないこともなかったのだが、私は外に出たくなかったので、その心情も全て伝えた上で遠い地にいるガブガブさんに重大な任務として託したのである。彼は「それならしようがない」と二つ返事で了承し、すぐさま出かけてくれたのであるが、いやはや何とも素晴らしい人格者である。電話を切ると自ら撮影に出かけずに済んだことへの安堵と、このまま家で寛ぐことのできる喜びを抑え切れずに飛び上がり、室内に置いたキャンプチェアに身を預けてコーヒーを嗜んでは音楽に耳を傾け、彼の撮影が終わるまで口角を上げて優雅に待っていたのであった。
 我乍ら自身の自己中心的な言動と行動に辟易するが、私は要するにこういう人間なのである。とても誇れるような人間ではなく、四方八方から嫌われても仕方の無い正真正銘の糞人間なのだ。罵声を浴びせられても言い返すことなどできるはずもなく、こうべを垂れることしかできないような、同年代の平均年収として線を引かれている額を稼ぐには程遠い経済力しか持ち合わせていない紛うこと無き社会的弱者であり、おまけに性格は極悪非道とまでは言わないが最低最悪の野卑なヒト科生物以外の何者でもない。それでも周囲に "親友" と呼んでも差し支えの無い、私には本当に勿体無い霊長類の王たるヒト科の友人たちがたくさんいることには天を仰いで感謝を申し上げるほかない。私が物理世界において独りでいることにも平気でいられるのは、距離的には離れたところにいる友人たちが今でも友人として離れずに慕ってくれているからにほかならず、そうでなければ精神世界において耐え難く侘しい気持ちを抱えながら、鬱屈として過ごしているであろうことは容易に想像可能な事実なのである。みなさん、いつもありがとう。
 私は自己肯定をするべしと強いられる社会の風潮がとても嫌いだ。自己啓発本などを読んでいる人の気が知れない。ブームにもなり、書店に足を踏み入れては嫌が応にも目に付くほど平積みされていた時期があったかと思う。今でもそうかもしれないが、私などがそういったものに目を向けては先述のように宜しくない感情が渦巻いては勝手に不機嫌になってしまうので、興味の湧かない書物は脳内で処理するよりも早く目を離してしまうよう心身ともに調教し終えたため定かではない。兎に角、私は自己肯定や自己啓発などという言葉に対しては、却ってマイナスな感情を産むだけなのではないかと思ってしまうのだ。 "不況になると哲学が流行る" と云うが、言い換えれば "哲学が流行るのは不況だからだ" ということでもあり、つまりはブーム/流行などと云うものは手放しに受け入れて良いものばかりではなく、時代を映す鏡であるからこそ、見ないように努めることも生き延びる術ではないだろうか。我が国は先進国の中では若年層の自殺者の人口比率が圧倒的に一位であり、政治に対しては不信感どころか関心すら抱かせないほどに皆が一日を生きるために精一杯で疲れ果ててしまうような社会に成り果てた今の日本において、自己啓発ブームなどは "そんな事実には負けないように心を強く持とう!" と、無理に奮い立たされているような気がしてしまい、それは曳いては現実から目を背けさせるために誘導されているのだと疑って掛かることが間違っているとはどうしても思えない。だからこそ私は自己啓発本など手にも取らないし、自己肯定感を高めようぜと肩を組まれるとその腕を容赦なく引き千切ってしまいたい衝動に駆られてしまうのだ。勝手な印象でもあるが、自己肯定感を高めることを万人がするべきであると信じて疑わないような言説をする方々に対しては、どこかで自己否定することを悪だと見做し、自分たちこそが正しい人間なのだと言わんばかりの傲慢さが透けて見えてしまう。一方の私は坂口安吾の『堕落論』宜しく、自分を卑下することを微塵も厭わない。自己否定の海に埋没して何糞と思い足掻くこともなく、溺れながら "我が生涯に一片の悔い無し!" と高らかに拳を突き上げて堂々と死んでいきたいと心から願うのである。
 当然ながら、そういった書籍や言説を経て、生きる希望を見出した人もいるだろう。誓って言うが、その方々の趣味嗜好や人生そのものを否定する気は毛頭無く、謹んで肯定しよう。ただ私は、自己否定することが悪いことなのだと考えてしまう人に対して、そんなことはないよと小さく声を掛けてあげる必要が今の社会にはあるのではないかと強く感じてしまうのだ。私自身、小学校二年生の頃から言い表せない死の影が自分の中で育つのを感じており、ついには社会人三年目に差し掛かる頃に爆発して心の底から "死にたい" と叫びたいほどに、いや、叫ぶ気力もないほどに心身ともに疲弊し切り、自らの生命を絶つことを望んだ時期がある。そんなときに手を差し伸べてくれたのは、ほかでもない友人たちなのである。彼らは私に取り憑いた死神をどうすれば祓うことができるのかと頭を悩ませるわけでもなく、具体的な案を出してくれたわけでもない。ただ私が発する言葉に、ある者はギターを片手に、ある者は煙草を指に挟み、ある者はペンを握り締めながら、自分の人生を全うしている最中においても耳を傾けてくれ、よくわからんけど人生これからちゃうの、と半ば杜撰な返答をしただけなのであるが、彼らのおかげで私は今もこうして飄々と生き延びることができているのである。
 私にとってはどん底だったその経験を引用して、似たような経験をした/している方々、あるいはそれよりも遥かに酷い経験をした/している方々に対して、助言をするなどできるはずが無いことは分かっている。況してや、そのような方々に対して "自己肯定感を高めよう!" などと声をかけることは実質的に自殺幇助にほかならないとも断言しよう。その人の問題は、その人自身で解決するしか方法が無く、一方で解決方法が "自殺" という自らの人生を失する行為しかないのであれば、私だけではなく誰にも止める権利など無いのだ。私の誇れる友人たちは、誰も私を止めようなどとはしなかったし、明確な答えを提示しようと努めてもくれなかった。だが、それが正解なのだ。死にたいなら勝手に死ねよ、自分の人生すら否定しながら首でも何でも吊ればいいとでも言いたげな彼らの態度こそが、私を死から生へと導いたのである。その事実だけは、私の少ない人生の中でも声高に伝えられる確かな経験として残っており、それは誰にも否定される謂れはない。
 私は誰かに優しい言葉をかけるほど面倒見の良い人間では無いし、偉そうにできるような立派な人間でも無い。だから私は密やかにこのような文章を綴ることしかできないが、その行為がいつかどこかで、必要としている人に届いて、あのときの私を友人たちが間接的に助けてくれたように、誰かを死から遠ざけることに繋がるのであれば、それほど嬉しいことはない。もしここまで目を通してくれた方がいらっしゃるのであれば、そして、その人の手元に鋭利な凶器が握りしめられているのであれば、最後に一言だけ伝えたい。朝日を拝むだけの人生でも、誰かに馬鹿にされる筋合いなどない真に清く尊いものなのであると。どうか、自己否定する自分すら慈しみ、自己肯定などなんぼのもんじゃいと唾を吐き捨てながら、己の人生を謳歌してほしいと、私も自分自身に言い聞かせ、重たい腰を上げて陽の光を軽く浴びに出かけようと思う。

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