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SNSから逃げだした

Twitterのアプリを消した。
またすぐに、明日か明後日にも再インストールしているかもしれないけど。

8年もやってて今更かよって、このnoteと紐付けてるアカウントも入れて7個もあんのにどの口でって。
でも、いつからかずっと「Twitterに居なくても生きていけるようになりたい」という意味で、「Twitterやめたい」としょっちゅう言うようになっていた。
なんでかな、楽しいからやってたはずなのに、いつから面倒なことが増えちゃったのかな。私が面倒にしちゃったのかな。

友達の成功を喜べない自分が嫌になった。
周りを見ることに疲れて、成功している人を見ても失敗している人を見ても、どんどん自分が嫌いになっていく。
コロナの情報も人の悪意も善意も承認欲求も全部がごった煮で、嘘と本当が溢れてた。

大事で大好きな人もいっぱいいるし、寂しい夜をいくつも一緒に過ごしたのに、しんどさが上回って、突然放っぽり出してしまった。



そもそも自分のことが好きな瞬間なんてほぼ無いでしょ、作った料理がめちゃくちゃ美味しかったとか、自撮りが奇跡的な盛れ方したとか、描いた絵が気に入ったとか、作品で賞もらったとか、記事にいいねいっぱいついたとか。
そういうときどきしか訪れない僅かな瞬間。

でもなぜか自分を肯定できるのが全然長続きしないの。
なんなら肯定した倍の勢いで自己嫌悪がくる。馬鹿なんじゃないかと思う。
生きる機能においてバグが起きている。できるなら修理してほしい。


高校のときの友達に不思議な子がいた(今も友達だよ)。当時私は彼女の下の名前も、誕生日も血液型も、なんにも教えてもらえなかった。ミステリアスすぎた。
そんな子がいつからか急に懐いてきた猫みたいになった。

彼女はクラスでもあまり人と関わっていなかったようだけど(3年間終ぞ同じクラスになれることはなかった)、
私だとか、まあ他にも何人か。自分が仲良くしたいと思った人とはちゃんと仲良くなれる子だった。


その子と私はよく似てた。
育った環境も家族構成も、通ってきた作品も(オタクなので)、違うところは山ほどあったけど、お互い生きるの下手、人間向いてないって。価値観っていうか、そういう部分が。

実際彼女によく言われた。人間向いてねーって。でも私はそれでかなり楽になれた。
実際中学でそれを嫌というほど実感してた。
マジで生きるの下手くそだし、ポンコツだし。

彼女といると、頑張らなくてよかったから心地よかった。最初から生きるの下手だって分かられてるなら、取り繕う必要なんてない。



高校のとき、そうやって人間向いてねーって生きてたのに、なぜか進学すると私は「ちゃんとした人間」だと周りから認識された。

高校のときの私の口癖、「ちゃんとしたい」だった。叶ったのかな、別に嬉しくなかった。

なんにもしてない、普通にいるだけで「ちゃんとしてる」って、何がどうなってそうなったのか。私の周りの人間の認識がひっくり返ってしまったのか?

実際ちゃんとした。いや、時々授業はサボっていたけど、課題は真面目に取り組んだし、成績も良かった。大事な節目の作品制作でも、何度か賞をとった。卒業式のときによく分からないけど優秀な生徒だって表彰もされた。だってちゃんとしなくちゃいけない、ちゃんとしてると思われてるなら。

ちゃんとするってなんなんだよ、全然分かんない。noteでもどこか取り繕って、Twitterでもやっぱり全部が本当なんてことは無い。全部本当で生きていける人間なんか居ないと思う。それで良いと思う。
本当に嫌でつらかった記憶は、人に話す前に涙に化けて滲む。

全部を本音で話して、人間向いてねーって言い訳して、それで好きでいてくれる人間なんかいない。だから良いじゃん、嘘ついたことない人間なんて居ない。

この前見返したドラマ「カルテット」、吉岡里帆さんが演じていた役に対して、4年前の放送当時はヤベー奴としか思っていなかったのに、今見たらつらかったよ。



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