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ペーパードライバーのまま10年が経った男、ついにハンドルを握る。


4月から、運転をはじめた。

僕の弟、次男にもうすぐ子供が産まれる。

ということで、ファミリーサイズに買い替えた彼の車のおさがりをもらうことになったのだ。

僕は田舎にいるあいだの、便利な移動手段を手に入れた。

そして、僕と一緒に暮らす祖母は、自分専属の便利な運転手を手に入れた、というわけだった。


しかしその運転手、はじめのうちは使い物にならなかった。

なんといっても10年ぶりの運転である。

そのAQUAという車種が貰えることが決まったとき、僕にとって運転することは、「生卵を4つあげるから、今すぐみんなの前でジャグリングを披露してみておくれよ」と言われているようなものだった。

ただしジャグリングは失敗しても笑いが起きるが、運転の失敗は笑えそうにない。

「みんな、なんでこんなにリスクの高いことしてるんだろう」

ペーパードライバー用の講習(1時間で6000円)を終えたとき、僕は素直にそう思った。

たとえば発進や駐車のとき、アクセルとブレーキを間違えたり、ちょっとでも強く踏みすぎてしまったりすれば、どこかに接触して車にキズがつく。

それを直すのは、決して安くはないだろう。

現に弟のAQUAには、車体の左側に長くて大きい派手なキズがついている。

駐車の際に、擦ったとかなんとか。

もはや「これは、こういう柄です」と言っても通用しそうな派手さだった。

まあ、その点で言えば、ピカピカの新車よりは運転しやすいのかもしれない。


右折ひとつとっても、危険だった。

対向車との距離感をはかり損ねた結果、正面衝突、とはいかないまでも、急ブレーキをかけさせたりしてしまうかもしれなかった。

急ブレーキをかけさせた結果、その衝撃で積み荷の生卵がすべて割れてしまうかもしれなかった。

かといって、いつまでも曲がれないでいると、永遠に道路の中心に取り残されてしまう恐れがあった。

俗に言う『かもしれない運転』をしはじめると、僕はいつも決まって、

「運転なんかしない方がいいかもしれない」

という結論に帰するのだった。

あるいはそれは、『10年間、無事故』という華々しい自己の経歴に、泥を塗りたくないからかもしれなかった。


僕は学校の勉強というものが、苦手ではないにしろ、あまり好きにはなれなかった。

高校時代も定期テストにおいて、赤点をとったのは一回だけ。

ただその一回というのが『日本史』だった。

僕はとにかく暗記科目がとてつもなく苦手だった。

こんなこと言うと「歴史は暗記科目じゃない!」という人もあるだろう。

けれど少なくともその頃の僕にとっては、勉強というのは暗記科目で、成績優秀者というのは、記憶力がいいやつ、という歪んだ認識だった。


そんな不真面目な僕はもちろん道路標識を覚えるのにもかなりの労力を費やした。

免許の筆記試験を通ったのはほぼ奇跡みたいなものだった。

「もう一度やってください」と言われても、絶対にできないし、やりたいとも思わなかった。

しかし今になってそれが、払っていなかった電気代みたいに僕の心に重くのしかかっていた。

いま道路を走っている、すべてのドライバーたち。

きっと彼らの頭の中には、あらゆる種類の道路標識がインプットされているのだろう。

そして標識をみた途端、その意味を把握し、ルートを決定するのだ。

ちょうどプロの料理人が、スーパーの棚に並ぶ具材を見た瞬間、その下処理の工程とメニューがパッと浮かぶみたいに。

僕にわかるのはせいぜい『駐車禁止』と『一方通行』くらいなものだった。


そのことをベテランドライバーである父や母、次男、地元の友だちに相談すると、口を揃えて、

「慣れやね、それは」

と言う。

そう口にする彼らはいつもより威厳に満ちていて、いつもより1.35倍くらい大きく見えた。

しかし運転に関する問題、というのは九割九部『慣れ』で片付けられてしまう。

『慣れ』というのはそれほど大事なことらしい。

ではもし仮に、僕が道路標識に慣れ、ハンドル操作に慣れ、車体感覚に慣れたとき。

そのころには、ありとあらゆる標識に対応ができるようになるのだろうか。

たとえば『動物の飛び出し注意』では、動物の気配を運転手固有の第六感的なものでいち早く捉え、速度をゆるめたり。

『一方通行』に対しては、道幅が狭いことを予期して、片輪走行で徐行ができるようになったり。

『落石注意』では、条件反射的にドリフト走行で岩をかわしたり。

……

「慣れやね、それは」

長年、運転席に座ってきた彼らのその言葉には、そんな玄人じみた腹の底に響くようななにかがあった。

想像の後、彼らの姿は1.35倍から1.5倍くらいになっていた。

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