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先生が先生になれない世の中で(28) いち教員である「わたし」にできること②

鈴木大裕(教育研究者・土佐町議会議員)

この社会は「わたし」たちの集まりによって構築されている――それに気づくことにこそ希望がある。そう言うのは、前回も取り上げた文化人類学者の松村圭一郎氏だ。文化人類学は、一つの部族や集団を長期にわたって調査する。しかし、調査を通して知るのはその「他者」だけでなく、「わたし」であり、自らの社会だ。「他者」と出会うことで自分自身の「あたりまえ」が揺さぶられ、その揺さぶりに身をまかせることで、慣れ親しんだ自分の社会の常識が崩れ落ちる。そして、現実として疑いもしなかったさまざまな規則や風習や体制が、「他者」にとってはいかに不自然であるかを知るのだ。すると今度は、その不自然な社会に組み込まれ、「こうあるべき」と信じ込み、それを無意識に支えてきた「わたし」自身の不自然さに気づかされる。

この社会が、そんな「わたし」たちの集まりで構築されていると気づくことにこそ希望がある。なぜならば、もし社会が構築されているなら、それをつくり直すことも可能だからだ。

松村氏は言う。「ぼくらにできるのは『あたりまえ』の世界を成り立たせている境界線をずらし、いまある手段のあらたな組み合わせを試し、隠れたつながりに光をあてること」(松村圭一郎〔2017年〕『うしろめたさの人類学』ミシマ社、182ページ)。その一つの例として松村氏が挙げるのが、「利潤や対価といった市場の論理ではなく、他者への贈与として『仕事』をとらえなおす」(同上、186ページ)ことだ。大学教員でもある彼は、教えることをなるべく生活のためにおこなう労働と見ないように心がけているという。「市場のなかにも、どこかで『わたし』の働きの成果を受けとめ、生きる糧としている人がいる。市場交換によって途絶され、隠蔽された労働の送り手と受け手とのあいだをつなぎなおすことで、倫理性を帯びた共感を呼び覚ます回路が生まれる」(同上、179ページ)。貨幣経済が浸透している今日の社会では、労働さえもが個人が対価を得るために「売る」商品とみなされる。しかし、そんな労働も、ときには社会や誰かへの贈り物にもなりえる。自らの労働を商品と考えないことで、松村は「商品交換」と「贈与」の境界をずらし、サービス提供者と教育消費者という「即時的で匿名な関係」ではなく、教師と生徒という、年月を超えて続きうる固有名詞的な関係という隠れたつながりに光を当てているのだと私は思う。

千葉で中学校の校長を務める私の恩師のことを思い出す。彼は職員に、保護者からの電話に出る際に、「お世話になっております」と言わないよう徹底した。たったそれだけのことが、教職員と保護者の関係をガラッと変えたと彼は言う。サービス業のようにふる舞うな、子どもや保護者を「お客様」にしてはいけない、ということだと思う。ちなみに、彼の学校はコロナ禍において、自治体で唯一修学旅行を実現した学校でもある。子どものためになることはリスクを冒してでもやる――そんな職員の気概に子どもたちは感謝で応え、彼らを「生徒」に変えてゆく。

まだコロナ禍が収束しないなか、ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本とアメリカによる決勝戦の模様を、全校生徒を集め体育館で観戦した校長もいる。世の中にはさまざまな「学び」、そして「成功」のかたちがある。学校は楽しいところなんだ、そんなメッセージを子どもたちは受け取ったのではないだろうか。

逆に、子どもたちのためにならないことはやめよう、と既存の境界線をずらす教員もいる。今日の競争的な社会に子どもたちを必死に適応させようとするいまの教育はまちがっているのではないか、と大阪の松井市長に怒りの提言書を送りつけた久保敬校長も、その一人だろう。彼が直接市長に提言書を送ったことで、自治体の首長による越権的な教育介入に光が当たったのだ。

ふり返れば、アメリカにおける新自由主義教育改革抵抗運動も、既存の境界線をずらした人々が牽引してきた(*1)。8人で読書サークルをつくり、バラバラに見えた社会のさまざまな問題を線でつなぎ、個別に闘っていた市民団体の絆を強め、最終的に歴史的な教員組合ストにつなげたシカゴの教員たち。子どものことだけではなく、保護者と政治的な会話もふつうにできるように教員を訓練し、保護者とのパートナーシップを構築したことも印象的だ。

シアトルの Garfield High School  では、学校のカリキュラムにも準じておらず子どものためにならないとして、ある業者テストを教員たちがボイコットした。それはすぐに同じ地域の他の学校にも飛び火し、結局そのテストは廃止に追い込まれた。発端は、一人の教員の「やりたくない」という言葉だったそうだ。

社会のシステムを支えているのは「わたし」たちだ。
私自身がその中の一人であると気づくことで、何かが動きはじめる。
答えは自分の中にある。

【*1】鈴木大裕(2016年)『崩壊するアメリカの公教育――日本への警告』岩波書店。

鈴木大裕(すずき・だいゆう)教育研究者/町会議員として、高知県土佐町で教育を通した町おこしに取り組んでいる。16歳で米国に留学。修士号取得後に帰国、公立中で6年半教える。後にフルブライト奨学生としてニューヨークの大学院博士課程へ。著書に『崩壊するアメリカの公教育――日本への警告』(岩波書店)。X(旧Twitter):@daiyusuzuki

*この記事は、月刊『クレスコ』2024年1月号からの転載記事です。


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