先生が先生になれない世の中で(27) いち教員である「わたし」にできること
文化人類学者、松村圭一郎氏のこの言葉に共感する教員は少なくないのではないか。この連載でも、大きなテーマを扱ってきた。資本主義の影響による教育における「構想」と「実行」の分離。新自由主義化する社会の帰結である公教育の市場化と民営化。そうして起こる学校の「塾」化と教員の「使い捨て労働者」化……。そして、子どもの教育を通して、この「モノ・カネ」の社会のあり方そのものを問い直す必要性を、私はくり返し訴えてきた。それを頭では理解していても、いち教員である「わたし」に何ができるのかわからず、日々の激務を乗り切ることに必死な教員はたくさんいるはずだ。そんな教員に、松村氏の理論は優しく語りかけるようだ。絶望する必要はない。いくら支配的に見えようとも、「モノ・カネ」の価値観に社会が完全に飲み込まれることはないのだから。「すきま」はたくさんあるし、変えられないものでもない。ただバランスが崩れているだけなのだ、と。
松村氏は、文化人類学の歴史の中で起こった一つのパラダイムシフトを紹介する。古典的な文化人類学は、「未開社会」を「長期的で人格にもとづいた人間関係」によって成り立つ贈与経済ととらえる一方で、「短期的で匿名な関係性」で成り立つ、お金を介した商品取引に象徴される近代社会を貨幣経済と位置づけた。それは、文明化の結果として「歴史的な一方向への変化」であり、戻ることのない、不可逆的なものと見ており、将来「あらゆるものが消費社会に置き換わっていく」と1970年に予測したジャン・ボードリヤールの見解と一致していた。
しかし、1980年代以降の文化人類学の知見では、贈与と商品交換はそんなに単純に二分できず、双方向に揺れ動きのある連続的なものとする見方が主流になってきたという。このパダライムシフトの重要性を松村氏はこう表現する。「貨幣を介した商品取引という非人格的な関係にもとづく資本主義的な社会が、均質的で固定した不可逆のものではない可能性を示唆している」(同*1、60ページ)。つまり、貨幣経済が贈与経済を完全に置き換えたわけではないし、私たちの資本主義的な社会は人々が思う以上に流動的で、不安定で、変えることだってできるということだ。
そして、松村氏自身も、資本主義や新自由主義など一つのシステムに社会全体が完全に覆いつくされることはない、と否定するデヴィッド・グレーバーに賛同している。その理由として松村氏は、市場経済にもとづく資本主義一色に見える社会でも、目をこらせばシステムに包摂されない「すきま」がいたるところに点在し、そこでは貨幣のやり取りだけでは説明のつかない人間関係が淡々と営まれていることを、実例をもって示している。
病気による休業をSNSで発信した女性店主を助けようと、常連客が自然発生的に店の玄関前の掃除や郵便物の投函などをする小さな本屋。ひとり親家庭で育った若者たちのかけがえのない居場所となっている古着屋。出演者でもあり客でもある常連客が、お店にお金を落とすために余分にドリンクを注文したり、時に店長が常連客にお酒を振る舞ったりと、持ちつ持たれつの共同性によって成り立っているライブハウス……。市場原理と贈与交換が組み合わさって「利害からはみ出して生まれる共同性」が生まれ、バラバラだった人たちの「結節点」となるような店が、小さな町でも都市部でも無数に存在すると松村氏は言う。
そして、それが「社会の底が抜けるのを防いでいるのではないか」(同*1、67ページ)、「新自由主義化が進む現代の資本主義のもとでも、ある種の『自治』への契機は常にあちこちで芽生えているのではないか」(同*1、52ページ)と問いかけ、「すでにその巨大なシステムとは別の動きや働きをしている『すきま』のような小さな場所に目を向けることが、システムそのものに対抗する最初の一歩になりうる」(同*1、76ページ)と私たちを鼓舞する。
「一つの教育政策で新自由主義をひっくり返すことはできないが、教育を通した社会運動を通じて人々の意識を変え、社会の潮流を少しでも変えることはできる」。『崩壊するアメリカの公教育』に、そう私は書いている(*2)。松村氏の言葉を借りれば、それは「すきま」をつくり、連帯と運動を通してその空間を広げていくということなのだと思う。新自由主義の価値観を内在化し、それに忠実に自分たちの言動を規制し、その歯車となってシステムを支えているのは他でもない、「わたし」自身だ。自分が変わることで他者を変え、新しい社会をつくるための「すきま」をつくる。人々が商品交換モードに支配され、人間らしいつながりを失ったモノ・カネの世の中でも、他者への共感を忘れず、公平を求め、お互いが「こぼれ落ちないよう支え合う」人間関係の残る「すきま」を楽しめる、またはそういう空間を自らつくり出せる子どもを育てること。そうした子どもたちが増えることで、社会は失われていたバランスを少しずつ取り戻していく。いち教員である「わたし」にできることは、決して小さくない。
*この記事は、月刊『クレスコ』2023年12月号からの転載記事です。
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