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アートにおける「商業的」に対する嫌悪感を整理する

「アート」と「商業」

「アート」と「商業」。
この2者は時に相反する性質として取り扱われることがあります。
これについて整理してみたいと思います。

アートやアーティストにおいての性質、
・商業的ではないもの
・商業的に成立しているもの
について。

商業的ではないもの
こちらは作品が金銭に代わることは無くても、
アーティストがアートだと認識している状態。


アーティスト自身がアートだと認識していればそれは立派なアート作品です。

ただ、その中でも、さらに2種類の性質に分けられると思います。

・アート作品に販売機会が設けられていない
・アート作品に販売機会があるが買い手がいない


商業的に成立しているもの
こちらはアーティストがアートだと主張しており、
尚且つ、販売機会が存在し、買い手も存在する状態。


買い手が存在するということの意味

買い手が存在する、ということは作品の価値を見出し、
さらに値付けに納得し、
それを支払ってでもその価値を手に入れたいという受け取り手がいるということ。

個人的な感覚としてですが、
人間は人間から生まれ、
複数の人間が存在する人間社会という現実の中で生を全うするものであれば、受け取り手の感動や喜びが最終的に金銭という対価に代わることは健康的な事だと思っています。

(仮に社会に疲れ人里離れた無人島で一人で住んでいる、といった例でもそれは人間社会という現実が存在するからこその一人であり、
人間社会と自分という対比構図であると考えます)

本当に世の中に自分一人しか存在せず、
受け取り手が存在しない世界ならば、
受け取り手の喜びや共感は必要ありません。

アートにおける「商業的」に対する嫌悪感を整理する

「商業的」
に嫌悪感を示す人やシチュエーションがあります。

本来、喜びの対価として金銭が発生することは、
両者win×winであり健康的な事象。

ただ、ここでは商業を2つの性質に分けて考えたいと思います。


・純粋に買い手の喜びの対価として金銭が発生する場合
・「金銭の発生」が優先され、本質的な価値の純粋さを欠いた状態



「商業的」の嫌悪感は後者のイメージから派生したものではないでしょうか。

前者で「商業的」に成立している作品や商品は普遍的に存在し、
僕たちの生活もこれによる豊かさの恩恵を享受している面は強くあるため、
「商業的」を一括りに悪者にしてしまうのはナンセンスだと感じます。


「商業的」その先の可能性

金銭は予算として新たな可能性を生みます。
本当に人々を幸せにするものであれば、幸せを受け取る分母を増やすことも可能ですし、
アーティストの新たな可能性を切り拓く有機的で健康的なものにも成り得ます。


これから

この先の時代の性質として、
思考の可視化が進むのではないかと感じます。

それは新しい技術であったり、人間の精神の次のフェーズとして。
技術面でいえば、映画マトリックスやアバターのような世界が取り沙汰されています。

人間が何体もアバターをもち同時に存在する世界、
をすでに内閣府が公式に提示しています。
「ムーンショット目標1 2050年までに、人が身体、脳、空間、時間の制約から解放された社会を実現」


これはより、
肉体より思念が強調され、それが思考の可視化に繋がるのではないか、
また、その思念の情報の蓄積がアカシックレコードのような本質をジャッジする指標となる可能性もあるのではないか、と考えます。

もしその性質を帯びた現実であった場合、
前項の、
「アートにおける「商業的」に対する嫌悪感を整理する」

・「金銭の発生」が優先され、本質的な価値の純粋さを欠いた状態
で、
その金銭の発生が、
「「商業的」その先の可能性」
の項とは違う、
欲などと繋がった使われ方をするようなものはジャッジにかけられる機会を経て淘汰される時代が来る、
という一つの方向の可能性も考えられるのではないかと思います。


最後に

「アート」や「アーティスト」を例にしましたが、
これらは「商業」と結びつく全てに置き換え考えられると思います。

・食品
・生活用品
・情報
 サービス
 インフラ
etc….



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