『すずめの戸締まり』と『チェンソーマン』

 『すずめの戸締まり』を観た。長髪の男性目当てで観に行ったら冒頭でその男性が椅子になって驚いたけれど、好きな映画だった。
 新海誠の描く綺麗でリアルな風景、そしてそこに生きる人々の生活が、自然災害によってそれが失われることをより残酷に感じさせて、みみずが出て地震警報のアラームが鳴るたびに胸が苦しくなった。

 そして私は、少し前にチェンソーマン1部を一気読みしていて、アニメも途中まで観て、毎日のようにKICK BACKを聴いているところだった。
 そのため、『すずめの戸締まり』を見た後に、自然と『チェンソーマン』のことが頭に浮かび、それにより気づくことがあった。せっかくなのでそれを書いて残しておく。まだ、誰かの書いたしっかりとした考察や、監督・作者のインタビューを読む前の、自分の新鮮な感想として記念に。


 2つの作品には多くの類似点があった。どちらも現実世界に根ざしているけど、設定はファンタジー。リアルな背景と、実際に存在する震災や貧困。初めから何かを失っている主人公。後述するけれど、他にも似ている点がいくつかある。ただ、そこで描かれるストーリーは真逆と言っていいくらい違うと思った。

 すずめは道中、沢山の人に助けてもらう。みかんを拾ってもらったのがきっかけだったり、結果的に仕事を手伝ったりはするけれど、互いに見返りを求めてことではない。
 一方デンジは、契約や支配によって救われる。ポチタとの約束によって死を免れ、マキマの飼い犬になることによってまともな生活を手に入れる。

 好かれていないと弱ってしまう神様(ダイジン)と、怖がられていないと弱くなってしまう悪魔というのは似ているな、と思った。しかし、根本に自然があり、人間では敵わない「すずめの戸締まりの神様」と、人為的に威力を増したり、人間に従わせたりできる「チェンソーマンの悪魔」はかなり反対の性質がある。

 すずめはダイジンに「好き」と言われるけれど、デンジはマキマからチェンソーマンとしてしか愛してもらえなかった。そして、すずめの戸締まりで神様(ダイジン)は最終的に要石として自ら身を差し出したけれど、チェンソーマンでは、支配の悪魔(マキマ)はデンジに殺された。

 ともに命懸けで人々を災厄から守るけれど、すずめは他利のため、デンジは私利のため。そして、すずめは大切な人を取り戻すけれど、デンジは大切な人たちを失う。

 すずめは、幼い自分に明るい未来が絶対に来ると告げるけれど、デンジに明るい未来が待っているかは分からない。

 このように2つの作品には、設定に類似点が多々あれど、ストーリーは正反対な点が多い。明るく救いのある『すずめの戸締まり』と、暗くて報われない『チェンソーマン』。しかし、どちらも自分に寄り添ってくれるので、私は好きだ。

 今はつらい状況でも絶対に幸せになれると断言してもらうことで救われることがある。けれどそれと同時に、努力して叶えたいと思うような夢を持てる生活じゃないし、ただ楽して幸せに生きたいよね、と同意されることで救われることもある。

 『すずめの戸締まり』で好きだったシーンが、鈴芽の叔母の環が、鈴芽への積年の恨みを吐き出してしまい、その後後悔して仲直りする場面だ。「そう思ったことはある、けれどそれだけじゃないよ」と環は言う。
 光と闇は両立する。明るくて正しいことを信じて生きていたいけれど、暗い気持ちを無理に否定しなくても良いし、正しいことばかりでは生きていけない。だから、『すずめの戸締まり』と『チェンソーマン』という正反対のストーリーの作品は、ともに私に寄り添ってくれる。


 あとこれは本筋からは逸れるけれど、RADWIMPSの曲は、君と僕の事と、地球や宇宙といった大きなものを並べて語ることが多いため、君と僕の出来事が他の人々の生活を巻き込んだ大事件に結びつく新海誠作品と相性が良いんだなあ、とこのタッグが組まれてから3作品目にしてやっと思い至った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?