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【哲学者ミルコからの問い】 「球」と「ドーナツ」と「立方体」についての考察


たった一面で構成されている「球体」––––

人も一面といえば一面。
ドーナツだって、そうだ。

ひとつながり。

でも、それなら、
立方体だって、実は「ひとつながり」だ。

「球」と「ドーナツ」と「立方体」––––

すべて「ひとつながり」とも考えられるし、
立方体だけは、あるいは立方体とドーナツは、
別の面を持つと考えることもできる。

球は間違いなく一面体だが、
ドーナツを一面体と捉えるか、
多面体と捉えるか––––

①ドーナツも多くの面を持つと考える

か、

②ドーナツも1つの面だけを持つと考える

か––––

①は、角張る(面と面の境界が直線になる状態だ)と、
そこで違う面になるという捉え方だ。
だから、球とドーナツは一面体で、
立方体のみが多面体となり、
6つの面を持っているという判断をする。

②は、緩やかであっても角度が変われば、
それは、もはや同じ面ではないと捉える。
どこを取っても同じ角度である同一の面で
構成されているのは球だけで、
ドーナツには、立方体をはるかに超える
多くの角度(多面性)が含まれており、
むしろ、フラットか90度しか持たない
立方体の方が、球に近いとも考えられる。

後者において––––
極論、球と立方体は、
互いのデフォルメかも知れないが、
ドーナツだけは突出して異質である。
どれだけデフォルメしても、
ドーナツという形状は、
球や立方体に近付きもしない。

最たる要因は、穴だ。
真ん中にぽっかりと開いた空洞。

そこに何か哲学(形而上学)的な
意味を、見出せるだろうか?

––––うーん、考えても、考えても、
  さっぱり、わからない。


こういうときは、次元を下げて(※)
= 立体から平面にして、考えてみよう。

※ 4次元の住民が我々3次元に与える影響に「❶突然の出現/消滅」と「❷裏返し」がある。

4次元の住民は、サイババが何もない空中から聖灰を取り出したように、3次元に、突如、姿を表すことができる(❶)。

また、球を「そのまま」裏返すこともできる。中が空洞で空気の入ったボールをイメージして欲しい。もし、我々がそれを裏返そうとすると、一旦、球の切開して、裏返し、縫う必要がある。しかし、4次元では、そんなことをせずにいきなりひっくり返すことができる(❷)。

この現象を直感的に理解するのは、なかなか難しい。

が、次元を落として、我々が2次元住民になったつもりで、3次元からの影響を受けるとどのようになるか––––つまり、次元を下げて想像すると––––確かにそういった現象が可能になるであろうコトだけは理解できる。

- - - - -

高さや厚みという概念のない平たいセカイで、ボクたちは薄っぺらいカードのような体で、地でも天でもないただの一面を這うように生きている(机の上に2枚のカードを並べたようなセカイ)。

3次元の住民は、それを高次な視点から見下ろすことができる。

そんなセカイで、ボクがトモダチと向き合っているとき、3次元の住民がヒョイとトモダチを持ち上げると、ボクという高さを知らない2次元の住民は、目の前から、忽然と、トモダチが消えたと見るだろう。トモダチは上にいるのに、ボクが見れるのは左右前後だけなのだ。

その後、3次元の住民が(トモダチの位置を少しズラして)2次元セカイへと戻したとき、ボクが得る2次元上の体験は、消えたトモダチが、突如、別の場所に現れる(瞬間ではないがテレポーテーションした)というものだ。

さらに、3次元の住民は、カードみたいトモダチをひっくり返すこともできる。裏返して、2次元セカイへ戻したりなんかしたら、ボクはとても驚くだろう。それは見たことのないあまりに異形な光景––––トモダチだと気づかない可能性すらある。

2次元という高さのないセカイでは、ひっくり返ることなど不可能だ(と、思われているからだ)。

- - - - -

これと同じ現象が、4次元から3次元への干渉で起こりうることは理解できるはずだ。

4次元の住民は、3次元の現実世界に生きる僕たちを、突然、どこか想像も及ばない別次元の空間に拐って、別の場所に、降って湧いたように戻すことができる。さらに、僕らが見たことのないような方法で(切開することなく)裏返すこともできる––––それは、異形となるだろう。

この考察メソッドを
今回の件にも当てはめてみよう。

球の2次元は円だ。
ドーナツの2次元は二重丸だ。
立方体の2次元は正方形だ。

円と二重丸を仲間にすることもできるし、
円と正方形を仲間にすることもできる。

むしろ、ひとつながりなのは、
円と正方形の方にも思える。

これに厚みを持たせると(立体化すると)––––

たとえば、「球」と「ドーナツ」と「立方体」となり、
急に「立方体」だけが「多面体」のように思えてくる。

でも、結局は、何もわからない。


今回の記事は、タイトルにも書いた通り––––

ボクが敬愛するnoterであり
哲学者(※)の「ゆらゆらミルコ」さんの
👇記事内での「対話(コメントのやりとり)」で、
ミルコさんから頂いたお題に対する回答だ。

※ ご自身で、そう、名乗られているわけではなく、ボクが、勝手に「哲学者」だと思っているだけ。ミルコさんの書く記事の多くは、非常に哲学的に深く、ボクは純粋にファンなのです。くれぐれも、悪しからず。

【ボクからミルコさんへ】

世界は、循環していると思う。

ミルコさんが(👆に)書かれた「空」––––空は球。球って、この世界では、唯一、一面で存在できる立体だと思う。裏と表で2面って捉え方もあるが、そのあたり、ミルコさんの見ているセカイというのは、深くて広い(そして、温かい)。

要約

【ミルコさんから頂いたお題】

球は大変魅力的な形––––体積の割に1番表面積が少ない純粋な形に強く魅了される。

外皮が「ひとつながり」の立体の1つにドーナツの形がある。この形についてもよく考える。人間の形も、極論、ドーナツ。口と肛門があり、ドーナツの真ん中もこれまた空っぽ。

ただし、そこに意味は見出せていない。
もし、この続きがわかったら、教えて欲しい。

要約

と、まぁ、こんな対話があり、
それで、この記事を書いている。

誰かにお題を頂いて、
書くというのは初めてなので、
とても、楽しい。

ミルコさん!
改めて、ありがとうございます👏

さて、「球」と「ドーナツ」の話に戻る。

引き続き、

同じ「ひとつながり」の面を持つ立体
「球」と「ドーナツ」の違いは何か?

から、考察していく。

僕には、円や球という存在は、
「器」に見える。

それその物(あるいは内側)を
意識させる形状であり、
その外側(背景)に意識は向かない。

(ただし、器は、
 中に何かを入れる(満たす)ためのもので、
 説明しづらいが、
 空気で膨らんだら風船であり、
 水で膨らませば水風船になるような存在でもある)

一方で、二重丸やドーナツは、
二重丸という存在意義や、
ドーナツの真ん中に開いた
「空洞」の方に目がいく。

つまり、それその物ではなく、
それが在る世界や空気の方に
意識が向かう存在だと感じる。

両者は、ルビンの壺のような関係––––

白い部分を意識すると、
「器」となる。
そのとき、黒い背景に
意味はない。
むしろ、壺という「器」の中
= 内側に意識は向かう。

一方で、黒い部分を意識すると、
「ふたりの人」になる。
そのとき、白い背景も
意味を帯びる。
むしろ、その間にこそ真意を見出そうとする。

たとえば、ふたりの関係性を
想像する人も多いだろう。
(友人なのか、恋人なのか
 議論しているのか、キスしようとしているのか
 無表情なのか、笑っているのか……etc.)

同じ「ひとつながり」の面を持つ立体
「球」と「ドーナツ」の違いを––––

① 丸/球/壺
それその物に意識が向く
器的な存在
中に入るもので意味が完成に近づくもの
背景に大きな意味はない

② 二重丸/ドーナツ/2人の人間
それその物よりも、
それが存在している世界や状況に意識が向く
ただし、だからこそ、それその物のみの
存在意義が問われるし、
背景 = 関係性にも意味を見出そうとする

としたとき、

① = 神がデザインした世界
② = 人がデザインする社会

のようにも感じられる。

回答(解答ではない)


で、やっと、ミルコさんからの
本当のお題––––

人間の形も、極論、ドーナツ。口と肛門があり、ドーナツの真ん中もこれまた空っぽ。ただし、そこに意味は見出せていない。もし、この続きがわかったら、教えて欲しい。

「空洞」の意味––––を、考察していく。

ルビンの壺から感じたことに従うと––––

ドーナツの「穴」は、
食物という本来の意義ではない
高次の何か……別の意味を孕む
関係性にこそ見出せるはずだ。

人であれば、逆に、
口から肛門という空洞の意味が、
明らかになっており……
それは「食べる」ということであり、
すなわち、「食べる」は、
人の本来の意味ではないはずなので、
ドーナツの「食物である」という
本来の意義に当たることは何なのか?
を、考えるべきだ。


ドーナツ:
本質:食物
空洞:本文ではない関係性とは何か

人:
本質:人の本質とは何か
空洞:食べるため = 食べるという行為は、人間の本質ではないはず


ドーナツの空洞に関しては、
容易に答えが出る。

元々は、調理の際、
火の通りを良くするための工夫だ。

今は、持ち易いとか、
イメージの定着をビジネス活用しているとか、
いくらでも「本文ではない関係性」を
挙げ連ねることができる。

一方で、人の本質に関しては、
答えは出ない。

なぜなら、それこそが、
全人類に課せられた
「命題」だからだ。

それをなんとか解き明かそうとするのが、
哲学であり、形而上という存在かも知れない。

ミルコさんのお題は、
実は、そもそも、それを示唆している。

哲学者ミルコは、

「意味を見出せていないから、意味を教えて欲しい」

とは、言っていない。

こう、僕に問うただけだ。

「意味は見出せていないから、
 もし、この続きがわかったら、
 教えて欲しい。」

さすがだ。

だから、僕は、一定、その宿題を果たしたことになる。

これが、答えのない人類の命題に関して、
ミルコさんが与えた僕への宿題に対する
回答だ。

解答ではなく、あくまで、続き(プロセス)。

さらに、人は「器」とも取れる。
肉体ではなく、中(心)に何を入れるか?
で、色々な者に成り変わるし、成れ果てる。

今回は、頼るまいと思ったのだが、
ここまで混沌としてしまうと……
ミルコさんと僕が出会った
あの言葉(輪廻)に、頼らざるを得ない––––

#なんのはなしですか

人生とは、人類の本質とは、
結局、これに尽きるのかも知れない。

追 伸


なんのはなしですか?

という「空」をご存知だろうか?

果てしなく広がっていく宇宙のような
noteというセカイに、
火ならぬ風の通しを良くするために、
コニシ木の子さんが開けた穴だ。

その「空」つまり「球体」
あるいは「円(輪)」––––
すなわち、コミュニティが
温かいものであることを、
末筆になったが添えておきたい。

以下をお読みになることを
強くオススメする。

これも、やはり、ドーナツのようである。

つまり、関係性––––
リレーション「シップ」という名の「舟」だ。

そう考えると、「なんのはなしですか」は、
「円」ではなく「縁」と呼ぶべきか––––

ひとつながりの膜(球体の器)のように見えて、
(それは、時に、壁に囲まれた排他的な内側 = 内輪ノリを生む)
ドーナツのようなものでもあるのか––––
(それは、きっと、良い意味で間の抜けた外交性 = 社交を生む)

今日も、また、その穴に、風が吹いている。


【 創 作 大 賞 / 挑 戦 中 】


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