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B.E.夏号 第6章「就職活動とこころ」

※本記事の文量は約21,000字です

就職活動を苦にした自殺が後を絶たない。単なる職探しではないのか。どうして追い込まれてしまうのだろうか。就職活動でわたしたちが求めらてきたものとは何か?「自己分析」という行為を起点にして振り返ってみたいと思う。

ー今回は鈴木さんの就職活動の実体験をまじえながら、今回の特集「こころの問題」についてお話させてください。大学を卒業されたのは2008年ですよね?

(鈴木)そうです。だから就職活動を行なったのは2007年ですね。社会情勢は最悪の一歩手前で、リーマンショックとして語られることになる外資系証券大手のリーマン・ブラザーズ証券が破綻したのが2008年9月。サークルの同期がリーマン・ブラザーズにその年の春から入社していたので、そんなことある?って驚いたのを覚えてます。とても優秀な人だったので、能力に関係なく運に左右されてしまうのが理不尽すぎると思った出来事でした。

ーえっ…そんなことがあったんですか…。冒頭から重たい話を聞いてしまいましたが、今回のテーマは「こころ」です。就職活動中の精神状態はどうでしたか?

(鈴木)こういうと自慢に聞こえてしまうかもしれないのですが、そこまで大きな苦労はしなかったので精神状態は比較的安定していました。ただ変だなぁと思うことが沢山ありましたね。

ー例えばどんなことですか?

(鈴木)某信託銀行の説明会にいったとき、説明会と聞いていたのに何やら個別ブースで面談のようなものが始まったんです。説明会だと聞いてたので履歴書とかエントリーシート等なにも持たずに行ったんですが、「じゃあ次の選考に進んでください」って言われて、「エントリーシートとかお出ししてないです」「後から出してくれれば問題ないですから」って言われて。後から友人に聞いたら、「あの回は早慶の学生だけ集まってたらしいよ」とか「一次選考だったらしいよ」という話を聞いて、そうなんだと。結局、大学名に下駄を履かせてもらってたんだというのもあるし、別に自分じゃなくても学歴が一定水準を超えていれば誰だっていいんじゃんと思ってガッカリしたように思います。なにを生意気言ってるんだという感じではありましたが。それでも、学歴の恩恵を受けている側なので悪い気分はしないんですよ、変な言い方ですが。学歴フィルターって言葉はむかしからあったと思いますが、それが露見してしまった事件がありましたよね。就職サイト大手のマイナビの事件。

Yahooニュースより引用

ーありましたね。

(鈴木)誰もが薄々気づいてはいたけど、やっぱりそうだったのかと思ったのではないでしょうか。わたしも社会人を十数年やってきたので、人事部(というか会社)がそうするのも少し理解できてしまうのが、これまた嫌なんですよね。例えばある会社では、「今年は東大卒ひとりも取れなかったらしいよ」なんてことも言われたりして、人事部が採用活動をどれだけ頑張ったかの定量的な指標がいまだに「学歴」を基準とした採用数なんです。指標として明確だし、社内とか上層部も納得させやすいから、ついやってしまうんでしょうね。いまでは学歴不問、つまりエントリーシートなどに大学名を記載させないようにする企業も増えてきましたが、学生側からすれば、これまで享受していたメリットを最大限活用したいので、教授名や部活動など「あぁ、あの大学ね」と分かるようなエピソードを入れ込むことで少しでも所属が明らかになるような話し方をする。もはや、書面上隠したとしても隠し切れるものではないんですよ。

ーたしかに。学生からしたら他人より優位に立てるものがあれば何だって使いますからね。そういう競争をしている訳ですし。

(鈴木)だから、そういう見たくない(知りたくない)選考の裏側を知って尚、真面目に実直に向き合おうをしてしまうと、とても安定した精神状態で居続けることができるとは思えません。就職活動が人生にとってプラスであった、そう思えるのは就活で満足(成功)した人間か、何年かってむかしを振り返った時にその時の自分を肯定してあげられた瞬間か、どちらかのように思います。だから、就職活動中に「どうしても辛い、耐えられない」と思う人が多いのは当然だと思うんです。

ー就職活動が苦になってうつ病を発症したり、自殺に至ってしまう人が後をたちません。

(鈴木)お前が語るな、何が分かる、とお叱りを受けそうですが、私の親しい友人もかなり苦労していましたので、必ずしも学歴だけではないように思うんです。むしろ、学歴だけで判断されていた頃の方が、分かりやすかったんじゃないかと思うくらいです。現代は、学歴よりもむしろコミュニケーション能力とか、人を巻き込む能力とか、そういう抽象的な能力が求める人材要件に挙げられていて、とても分かりにくいし、むしろ恣意的に人材を選び取れる余地を残してしまっていますよね。

ーどういうことでしょうか?

(鈴木)学歴不問を掲げて、やる気とかコミュニケーション能力とか将来のビジョンとか、定性的で曖昧な基準を設けることで、対外的には「平等に採用していますよ」と見せていたとしても、実際にどの基準をもとにして選考したのかは当然ブラックボックスにできます。経済学では「情報の非対称性」や「レモンの市場」というのがありますが、情報は必ずどちらかに偏って存在しています。選ばれる側である大学生の方が保有している情報は少ないし、まぁ企業側にとってもそれは同様で学生は嘘をついているかもしれない。だから双方とも、全ての情報を得ることなんてできません。そんな不均衡な状況で、自分は何を理由に落とされたのか(あるいは選ばれたのか)を明確にされないまま、何度も何度も「今回は貴意に添うことができませんでした。更なるご活躍をお祈り申し上げます」という文面ばかり受け取ってしまっていては、いったい何をどう改善すれば合格できるのか分からないままに悩みだけが膨らんでいってしまいますよね。

ー就職活動は「就活(シューカツ)」という風にとてもカジュアルな響きで語られることが多いですが、実態はとんでもない。とても過酷です。今では死語なのかもしれませんが、「意識高い系」という言葉がありますよね。そうした意識高い系の中には、そうせざるを得ないなら、どうせやらなきゃいけないのであれば、いかに最小の努力で最大の成果を獲得するかのゲームとして取り組むのが効率的だと考える学生が多いようにも思います。

(鈴木)ゲーム感覚で取り組むというのが、結果として自分の身体や心を守るための最善の方法なのかもしれません。「獲得した内定数自慢」をする学生はわたしが学生の頃から目立っていましたが、仮にそうした学生を「内定獲得ゲーム型」と分類してみましょう。このカテゴリには呼吸をするかのように内定を獲得していく天賦の才を持った学生がいて、彼ら彼女らを頂点としたヒエラルキーが存在します。いくら努力しても、闘いの天才である孫悟空には追いつくことができないベジータ王子みたいなもので、このゲームに参加する人たちは、彼ら彼女らなりに苦しい思いをしている。特に意識高い系は、総合商社や外資系コンサルティングなど高収入で世間が羨ましいと思う職業を狙うので、そもそも競争が激しい。自ら苦労をしに行ってしまうのは尊敬に値するかもしれませんが、意識を高く保ち続けるのは大変でしょうね。

他には「盲信追従型」と「退避型」が存在するといえます。「盲信追従型」が割合としては最も多いでしょう。このタイプの学生は、それなりに苦労し、ある程度満足いく結果をだし、それなりに満足して就活を終える。意識高い系のようにゲームとして楽しむというよりは、学校で課される定期テストのようなもので、「何とか一夜漬けで乗り切ったぜ」という感覚で就職活動を終えられるので、全て忘れて残りの学生生活を謳歌しようとするかもしれません。その点、意識高い系は内定獲得後は既に入社後を見据えて、内定先でインターンしたり資格取得の勉強をしたりして、学生の頃から社畜の気分を味わっている。そんな自分が好きというのもあるんでしょうが、おそらく。

ー地獄のミサワってキャラクターいましたよね。懐かしいな。

(鈴木)最後の「自主退避型」ですが、このカテゴリに属している学生は能力の高低では分けられません。なぜなら、東京大学などの最上位校に所属する学生であっても、「こんなこと意味あるのか」と本質的意味を問うて、民間企業への就職など望まず司法試験や大学院への進学、あるいは起業に突き進む層もこのカテゴリに入るからです。逆に、自分は能力が足りなくて就職できないだろうとはなから諦めてしまう学生もいるでしょう。

  • 内定獲得ゲーム型

  • 盲信追従型

  • 自主退避型

ーこの中で、最も就職活動に苦労してしまうのは、どの人たちですか?

(鈴木)厳しい内定獲得競争に身を投じた人たちでしょうね。中には心底楽しんでいる人もいると思うので、全員が全員というわけではありません。ただ、カテゴリを分けてみたものの、望むと望まずとに関わらず、このゲームに参加させられてしまっているかもしれません。なぜなら、大学構内で会話が聞こえてしまうこともあれば、ネット上の書きこみや記事などで、「もう内定が出た人がいる」とか「今年は売り手市場である」とか、雑音のように聞こえてきてしまうからです。親から「就職活動はどうだ?もう内定はもらえたか?」なんて聞かれることもあるかもしれませんね。

意識高い系の人たちは向上心が高く、新自由主義(ネオリベラリズム)に過剰適応してしまったかのような人たちなので、努力してある程度こなせてしまう。彼らはコミュニケーション能力も適応力も情報収集力も高く、NewsPicksなどの意識高い系メディアをチェックすることも怠らない。彼らは好きでそうしているから良いのですが、そうではない人たちは巻き込まれるようにしてやらざるを得なくなってしまう。意識高い系を通じて、世の中のポジティブな情報もネガティブな情報も入ってくるし、明るい(それは地位と名誉、そしてお金がある)未来を手にいれるためには一生涯にわたって努力をし続けなければならないとか、非正規雇用は怖い(辛い)、若年貧困は怖い(辛い)、ブラック企業に入ったら怖い(辛い)とか、学生同士で啓蒙し合っているわけです。しかも、意識高い系が大好きな新自由主義の最大の特徴である「自己責任」が語られるため、冷たく突き放されて感じるでしょう。それではこころが安まらないし、常に緊張を強いられているようなもので大変でしょう。


ー早熟な学生が増えていますが、そうならざるを得ないのかもしれませんね。そうでないと、この世の中を渡っていけない。そんな彼ら・彼女らが就職活動で求められる「自己分析」について伺わせてください。鈴木さんは「自己分析」されましたよね?

(鈴木)もちろんです。わたしの時代にはもはや必須項目でした。正直、よく分からないことをさせられているなと思いながらも、やらない選択肢が無いので素直にワークシートを埋めたりしていましたね。本号の特集を組むにあたって、大学教授にインタビューしたり、文献を色々読み漁りました。まず掲げた問いは「なぜ、自己分析が必要なのか」です。この問いからはじめるにあたり、仮説として二つの側面からのアプローチを試みたいと思います。

  • 文化人類学的アプローチ

  • 医療人類学的アプローチ

文化社会学については『自己啓発の時代「自己」の文化社会学的研究』(牧野智和、勁草書房、2012)を参照しました。その本では、自己啓発への注目が集まった背景として以下のような理由が挙げられています。

  • 激化した競争環境で生き残るため

  • あるいはそこからの逃避

  • または、モノからココロへの意識の変化

  • 消費による自己実現が困難になった 等

これらを社会的背景論と呼びます。自己啓発にハマってしまうのはそれが幻想だと気づかない者だけだ、と主張するのが需要者論。タレント化、現代でいえばインフルエンサー化した自己啓発書の書き手の登場によると考えるのが、供給者論。同書には多くの要因が挙げられています。もう少し説明させてください。自己啓発は、わたしたちが生きる今日の社会でどのような自己をめぐる知識・技法が流通し、また人々に支持され、影響力を発揮しているのか。それらの知識・技法はどのような自己をめぐる問いを発し、どのようなリアリティを生み出しているのか。そしてそれらを通して私たちが誘導され、動機付けられ、望ましいと感じ、自然に選びとってしまうような自己のヴァージョンがあるとすれば、それはどのようなものなのか。そういったことが語られています。また、詳しく話していくにあたり、そもそも文化社会学が想定している人物像を共有しておきたいと思います。キーワードは「脱埋め込み」「自己のテクノロジー」です。実は、それらを詳しく説明するとなると、本まるまる一冊分を要してしまうのでざっくりとまとめます。

 近代社会(後期近代)おいては、「それぞれの伝統的共同体内部で保持されてきた慣習や伝統が近代国家の介入や科学的知識の浸透、ヒト・モノ・情報の流動性上昇等によって相対化され、吟味されるようになる」(牧野2012)と言われています。それを「脱埋め込み」といいます。つまり、明日には何が起きるか分からないということです。わたしたちはその事をコロナ禍で強く感じたのではないでしょうか。そういう環境では、自分自身についての理解も一貫性を持ちにくくなってしまい、「今までのやり方は本当にこれでいいのか?」、「他にもっといい方法があるのではないか?」といった問いを常に抱えていかなければならなくなる。そうした状況だと人はどうすると思いますか?

ーえーっと…どうするんでしょう。

(鈴木)足場がおぼつかなくなるので、とにかく何か明確なものに自らを固定したいと思うようになります。日本では高度経済成長期以降に顕著でしたが、消費社会はその最たるものです。流行り廃りに合わせて臨機応変に振る舞うことが良しとされてきた、いまでもその名残はありますよね。しかし、流行に合わせて選択し自分を再構成していくことを繰り返していると、結局どれが自分なのだろうかと思い始めるわけです。そんな中で求められてたのが、外部から隔離され何物にも変化させられていない「本当の自分」というものでした。そうして内的世界(自分の内面)の探求が進むようになり、社会の心理主義化(森、2000)が進んだと言われています。

ーソウルメイト(魂の友達)という言葉が流行ったのも1990年代でしたね。あとは、本屋さんにも「○○心理学」といった本が増えたのもこの頃からか。

(鈴木)次に「自己のテクノロジー」について説明します。テクノロジーという言葉から連想されるように、自分自身を管理、変革、治療の対象とするような心理療法的技術のことをいいます。ローズは「自助努力」と「自己責任」が最上価値である新自由主義体制のもとで、「自己形成」や「自己決定」をサポートしていくのに浸透していったと分析しています。では、それがどういう技術なのかというのが気になりますよね。それは四つの観点から説明されています。

  • 倫理的素材

  • 服従化の様式

  • 倫理的作業

  • 目的論

 一つめの倫理的素材とは、何を対象とするのかということです。例えば、不安やコンプレックスなど克服したいと思うもの、就職活動をテーマにした本稿では自己分析の対象である「自己」が倫理的素材に該当します。二つめの服従化の様式とは、「どのような様式や権威にもとづいて」(牧野2012)分析していくかということです。就職活動においては親から大企業に行きなさいと言われている人もいるでしょうし、人気企業ランキングに従う人もいるかもしれません。その人が何を基準にして選択しているかが服従化の様式です。三つめの倫理的作業とは、どのような手続きを通して対象に働きかけていくかということです。例えば、日記をつける、生活習慣を改善するといったものです。最後が目的論で、これは言葉通り最終的にどうなりたいかということを指します。


ー話が複雑になってきましたね。(読者のみなさんは)着いてこれていますか?

(鈴木)失礼しました…メインのトピックは「自己分析」なのでそれに当てはめて言った方が分かりやすいですね。

  • 倫理的素材・・・自分の将来、職業観、

  • 服従化の様式・・・親や先輩の助言、ランキング等

  • 倫理的作業・・・過去現在未来の精査

  • 目的・・・就職活動を納得して終えること

自己分析の厄介なところは、それがひとつの大きなビジネスとして産業を生み出してしまっているところだと思います。リクルートをはじめとした人材業界だけでなく、出版やコンサルティングなどにも拡大しています。わたし個人の感想ですが、自己分析ってスピリチュアルな匂いもするのに、ロジカルでシステマチックな装いをしているから、どこか胡散臭いんですよ。次に紹介する文章は『就職辞典』(旺文社、1959)に掲載されたものですが、一度読んでみてください。

職業の性質上それぞれ適格の人が求められる。それゆえ諸君は気軽く性格に適さない会社を選んでも会社側で拒否するかよしんば入社しても仕事に情熱のわかないのは必定である。自分を知るものはけっきょく自分なのだから、だいたいの判断はつくだろうが、さらに先輩・恩師・父兄などに素直に相談したり、科学的な検査で内向性、外向性などの性格判断をしてみるのも一方法だろう。

(旺文社1959)

特に違和感を感じないというか、普通ですしドライですよね。少し横道にそれてしまうのですが、「職業の性質上それぞれ適格の人が求められる」とサラッと書いてあるのですが、これが書かれたのが1959年です。

このあと私の年代でいえば、織田裕二主演の『踊る大捜査線シリーズ』(フジテレビ)とか木村拓哉主演の『HEROシリーズ』(フジテレビ)など他にもたくさんありますが、職業モノのドラマ作品において型破りで常識にとらわれないキャラクター(本来適格ではなさそうな人物)が登場します。HEROの久利生公平などです。以前から型破りな人物というのは描かれてきているのですが、職業を選択するときの基準も時代が進むごとに多様化しています。先ほど、牧村教授の「服従化の様式」のところで述べましたが、社会的に良いとされる価値がコロコロ変わるので、一体何を基準に選ぶことが正解なのか(本来、正解なんてものはないが)分からなくなってしまうんですよね。自分が選ぼうとしているものに自信がもてなくなってしまう。そういう時は何かにすがりたくなってしまう。ここで今や就職活動といえばこれと呼ばれるような『絶対内定』(杉村太朗、ダイヤモンド社)を取り上げたいと思います。書店などで一度は目にしたことがあると思いますが、この本の特異さというのは、「絶対」と言い切ってしまう強さと、それを補強するかのような膨大な量のワークシートにあるような気がします。

ー「絶対内定」ってすごいタイトルですよね。そもそも、自己分析ってなんなのでしょう。なんというか、学生と企業のミスマッチを無くして早期の離職を防ぐとか、あくまで企業活動を円滑に行うための作業であるならば理解できます。学生にとっては、社会に出て自己実現するという目的も少なからずあると思うので適性を把握することも必要かもしれない。しかし、自己分析ってそこまで必要なの?ってことなんです。もちろん、最低限自分が何をしたいとか考えることは必要ですよ。でも、必要以上に理由づけや意味づけをしてしまっているから、それだけ苦しんでしまう学生もいるんじゃないでしょうか。

万能ロジック

(鈴木)では、次の文章を読んでみてもらえますか。

就職活動を通じて君たちに経験して欲しいのは、「いかに効率よく世の中を渡るか」という小手先の技術を覚えることではなく、「本当に自分がやりたいのは何か」という「自分探し」のプロセスである。この「自分探し」=「自己分析」がきちんとできていれば、たとえ時間がかかっても、最終的には納得のいく仕事に巡り会える。

『自己分析で成功する大学生の面接』(鷲見真、1996、高橋書店)

これは『自己分析で成功する大学生の面接』(鷲見真、1996、高橋書店、強調は筆者による)からの引用です。読んでどう思いました?わたしは、この「本当に自分がやりたい」ことというのが、好きじゃないんですよ。自己分析を自分探しとイコールで結んでしまうあたりにも、危うさを感じてしまうんです。何故かというと、本当の自分などどこにも無いように思うし、仮にあったとしても大学3年生になっていきなり見つかるものでもないはずです。見つかればラッキーかもしれませんが、それも思い込みかもしれない。

自己分析においては、「内面を掘り下げる」という表現が使われることが多いのですが、これは心理学における深層心理を想起させるものです。「本当の自分」という唯一無二の存在が誰のこころにもあって、それはこころの奥底に潜んでいて見つけられるのを待っている。まるでファンタジーですが、本当の自分を見つけ出すことが就職活動の第一歩である、そう聞こえないでしょうか。でも、そんな唯一無二の正解のようなものは存在しないんですよね。さらに、この「本当の」という形容詞は牧野(2012)が言う「万能ロジック」と呼ばれるものだとわたしは思います。


ー万能ロジック。聞き慣れない言葉ですね。それはどういったものなのですか?

(鈴木)万能ロジックとは自己啓発を説明するときに使われる用語です。それは「理論(法則)と実践を絶妙に分けたもので、実践の不備を指摘することで理論(法則)への批判を封じ込め、著者の読者に対する優位性を常に担保するロジック」(牧野2012)のことです。次に三つの文章を引用しますので、まず読んでみてください。

自己分析は診断テストではない。これが正解という答えはないし、優劣や点数もつかない。「自己分析にはけっして正解はなく、何度も試行錯誤を繰り返しつつ、自分の手で完成させていくものだ」「自分はどんな価値観を持っているのか」「どんなことをやりたいのか」を知らなければ、良い会社を見つけることはできない。そのためにも、自分自身を徹底的に洗い出す「自己分析」が必要になってくる。『働きたい会社がわかる自己分析の本』

(日経事業出版社編、1996、日経人材情報、強調は筆者による)

この「徹底的に」というのがまさに万能ロジックです。先ほどの「本当の」もそれに該当します。仮に、本の読者が「これを読んでも全く参考にならなかった」、「内定がひとつも得られなかった」といった批判を展開したとき、著者は「それは、あなたが徹底的に自己分析を行っていないからだ」、「徹底的に洗い出していれば、どんなことをやりたいか見えてきたはずだ」と反論されてしまう。

ーなんですか、それは笑。

(鈴木)すごいロジックですよね。でも、世の中にはそういったロジックが意外と多い。もし徹底的にやったとしましょう。その結果、自分は会社員ではなく喫茶店のマスターをやりたいことに気づいた、あるいは自ら起業して世界に通用するビジネスを作りたいと考える人がいてもおかしくはないんですね。しかし、こういった就活本の類は、あくまで既存の会社の中から行きたい会社を選択させるという前提で考えられているので、そういう結論には至らないようになっているんです。そりゃそうですよね、企業からの内定が欲しい学生が対象ですから、それに応えるものでないといけない。自己分析(つまりは自分探し)といっても、自分にとっての良い会社を見つけるという、就職が前提のとても狭い視野での行為であることが違和感なんです。カタログから(実際にリクナビなどではカタログ的に企業が紹介されているが)お気に入りの商品を選ぶかのように会社を選択する状況はとても不思議です。『13歳のハローワーク』(幻冬社)というベストセラーがありましたが、13歳であれば色々な職業を一覧にして見せることも重要なのかもしれませんが、大学生になってそれをやってしまっているのはキャリア教育の失敗と言われてしまっても仕方ないです。

ー現在行われているキャリア支援も、実態は就活に使えるテクニックを教える場になっているようです。就職内定率を売りにしたい大学側からしたら、学生にはとにかく内定を手に入れて欲しい、卒業後のことはそれから考えて貰えばいい、そんな感じでしょうね。

(鈴木)最近の大学生は賢いし現実が見えているから「仰ることは分かるんですが、そうは言ってもやらないといけないんですよ」とか言われちゃいますし、内定獲得ゲームになるのも分かるんですよ。ただ、ロールプレイングゲームのようにレベルを上げて成長を楽しみながら、勝ちパターンを見つけて就職活動で無双しまくるという学生もいれば、その一方で内定を全くもらえない大学生が多く出てきてしまう。


ー少し話がズレてしまいますが、就職活動が他者からの承認を得るための場として機能してしまっています。

なりたい自分からなれる自分へ

「……内定って言葉、不思議だよな。」
「誰でも知っているでけえ商社とか、広告とかマスコミとか、そういうところの内定って、なんかまるでその人が全部丸ごと肯定されてる感じじゃん」

(鈴木)そのお話はまさにそうだと思います。直前に引用したのは、直木賞を受賞した作家・朝井リョウの就活小説『何者』(新潮社2012)の一節です。この感覚(快楽と呼んでもいい)を全身で浴びることができるのが就職活動です。就職活動を終えた大学4年生が、これから就職活動を迎える大学3年生に向けて開催する内定者セミナーというのがあります。そのセミナーでは内定者が舞台に上がり、就活生が彼らに根掘り葉掘り質問をするのです。根掘り葉掘りというのは誇張ではなく「どんな学生生活を送っていたのか」、「どんなサークルに入っていたのか」「どんな本を読んでいたか」「どんな企業を併願していたか」といった質問が飛び交い、それは就職活動に関係あるのか?と思うような質問が出ることも珍しくない。まるでセレブに憧れる一般人なんですよ。

すごく卑近な例で申し訳ないですが、ある女性から聞いたエピソードで「俺、○○(某大手総合商社)の内定者だよ」と繁華街でナンパされたらしいんです。彼らはまだ働いていないんですよ笑。けれど、大手企業(しかも超人気企業の総合商社)から内定を得られたという万能感で女性も口説きにいけてしまう。それくらい内定によって自己肯定感が高まるのだと思います。

ーすごいナンパの仕方ですね。将来安泰な男性を捕まえたい女性には効くんですかね、分からないですけど。

(鈴木)就職活動の最も苦しいところは、仮に徹底的に自己分析を行い「本当の自分」が見えてきたとしても、それはあくまで自分に閉じたものであって必ずしも望んだ未来が手に入るものではないということにあるんです。どれだけ自己分析や業界研究をして総合商社に行きたいと思っても、それだけではダメなんです。著書の中で牧野教授は次のように述べています。

自己分析は他者(端的には不採用通知)による否定が予期される「本当の自分」をわざわざ導出させ、挫折を誘発し、別の可能な選択肢に向けて調整を促そうとするものである。(中略)誘発された挫折が適度な刺激となり、より納得のいく、もしくは第一志望ではないにせよそれなりに納得できる就職活動の成果に繋げられるのであれば、この機能は今日の職業移行における通過儀礼を果たすものとして積極的に評価することもできる。(強調は筆者による)

牧野(2012)

 牧野教授がおっしゃる様に、納得できる成果に繋げられるのであれば良いでしょうけど、人気企業の採用数というのはごくごく限られた人数です。人手不足で就職内定率も向上しているとの報道がありますが、それは外食・観光などのインバウンド需要に応えるものか、介護医療など限られた分野での話ですから納得した就職をできる人がどれだけいるのかは不明です。納得できないからといっていつ迄も就職浪人している訳にもいかないし、働かないと生きていけない。だから、牧野教授がいうように通過儀礼として捉えて、適宜切り替えをしながら前に進まないといけないのですが、自己分析を徹底的にやればやるほどに、その志向というのは凝り固まっていくのではないだろうかと心配になるんです。何故ならある意味、自己分析は自己洗脳にも近いものなので、そう思い込むことで過酷な就職活動を乗り越えていける面もある。結果として社会の雇用状況を受け入れざるを得ないし、本意ではない就職をすることが、どれだけの精神的負担を強いるのかは想像がつきません。だから、三年以内の離職率がうんぬんという話は、さもありなんと思いませんか。繰り返しになりますが、そもそも「本当の自分」なんて曖昧なものを見つけるために苦労するくらいなら、夢中になれる他の何かに時間を割くほうがよっぽど良いだろうと思うんですよね。最後に、牧野教授の結論も引用しておきます。

 本章の分析結果から、私たちは何を考えるべきだろうか。私たちが考え、気づく必要があるのは、「本当の自分」や「やりたいこと」は自ら導出できる、またそれは客観化・調整可能である、演出・表現可能である、絶え間ない修正が可能であるといった、「自己の自己との関係」へのまなざしそれ自体が、就職活動の結果を個人に帰責するロジックをまさに駆動させているということである

(牧野2012)

ここで重要なのは「『本当の自分』や『やりたいこと』は自ら導出できる、またそれは客観化・調整可能である、演出・表現可能である」という思考法を蔓延させているという点です。後ほど紹介するのですが、もはや何を信じるかという宗教チックな話になってしまうのですが、自分のことを機械とかコンピューターかのように扱っているのがこの考え方です。それを良しとする人がいてもわたしは否定しません。しかし、なにか食材を鍋に放り込んだら、良い感じに調理して美味しくしてくれる、そんなものじゃないでしょと。ただ、自分という存在がコントロール可能であるというのは、なにも絶対的な真理ではないのですよ、ということを牧野教授は伝えてくれています。

冒頭で大学生は新自由主義の「自己責任論」のもと過大なプレッシャーを受け続けていると述べました。彼ら彼女らは、自己分析(それだけではないですが)を通じて、「やりたいこと」は自ら導き出すことができるし、それを取り出して客観的に人に説明できるという風に教わっている。だから、就職活動の結果を過度に自己責任として引き受けてしまっている。「自分は(他の学生と比較して)しっかり準備をして就活に臨んでいるのだろうか?」得られた結果に対して、自分を褒める(あるいは責める)ことでしか現実と向き合えなくなってしまったんです。それが悪い方向に働いてしまった結果が、増え続ける就活を苦にした自殺だと思います。


ー就職活動のなにが嫌かって、自分のどこがダメだったのか、ほぼ全く分からないまま続けなければいけないところですよね。先ほど話してもらった、調整可能・表現可能・修正可能という考え方をベースにしていたら尚更、直せるならどこを直せばいいか教えて欲しいと思いますよね。

全身就活という苦行

(鈴木)武蔵大学・人文学部の大内教授は「就職の採用基準が不明確であるため、不採用となった学生は自己の内面を否定し続けることを強いられる。『自己分析』や『コミュニケーション能力』の名の下に、『会社にどうしたら気に入られるか』を考え続けることになる」と述べていて、その学生が自分の心や精神までをも就職先へと総動員しなければ乗り越えられない状態を「全身就活」(大内2013)と呼んでいます。過酷ななレースをひとりだけで走り続けることができるでしょうか。答えは否です。誰かに頼らざるを得ないのですが、そんなときに手を差し伸べてくれるのが「自己啓発」ひいては『絶対内定』なのだと思います。

ー「翼をさずける」と喧伝するエナジードリンク会社ではないですが、カフェインや糖分だって過剰摂取したら健康を害しますよね。自己啓発は大丈夫なんでしょうか。

(鈴木)ここで少し話を遡って、医療人類学の観点からも自己分析を考えてみたいと思います。この領域を学ぶにあたっては『野の医者は笑う 心の治療とは何か?』(東畑開人、誠信書房、2015)を参照します。東畑先生がおっしゃる「野の医者」とは沖縄をエリアに活動しているヒーラー(治療者)を分析したものです。本稿で「野の医者」の概念を適用したのには理由があります。

ー野の医者と自己啓発には関係があるのですか?

(鈴木)『絶対内定』著者の杉村氏をはじめ、就職関連本を書いている人たちは就職を乗り切るためのテクニックを教えているようですが、実際はそうではありません。彼らが教えているのは、どちらかといえば考え方や思考法であり、先に述べたような自分自身を管理、変革、治療の対象とするような心理療法的技術である自己のテクノロジーを教えています。東畑先生が著書で沖縄のヒーラーをにして現代の医療や心理学を相対化しようとしたように、本稿では沖縄のヒーラーを鑑にして、就職支援を行う団体や人物を相対化してみたいというのが本稿の試みです。

ーまた何やら難しいことをしようとしていますね汗

(鈴木)まぁ、そう言わずに。ちなみに『絶対内定』って何ページあるかご存知ですか?答えは564ページ(2023年初版)もある分厚い本なんですよ。そのほぼ全部が「お前は何がしたいんだ?」「過去現在未来を手がかりに自分を探せ」と迫ってくるんです。怖くないですか?

ー確かに怖いですけど。読み通すのも苦労しそうですよね。

(鈴木)そうです。その点は非常に重要で、読み通せるかどうかで読者がスクリーニングされているんですよね。精神科医で医療人類学のパイオニアといわれるアーサー・クラインマンのという人が「説明モデル」という概念を考案しました。説明モデルというは、「患者や家族や治療者(臨床過程に関与する当事者)が、ある特定の病いについて各々が説明する際に抱く考え」のことです。

治療者であれば、 どのような医療システムに属するかにもよるし、患者やその家族であっ ても、「それぞれの育った環境や受けた教育、文化的背景などによって、個々 の病気や治療をどのように理解し、説明するかは違ってくる」(梶谷2006)と言われています。例えば現代社会に生きるわたしたちは、風邪を引いたなと思ったら掛かり付けの医者のところに行きますよね。熱があれば解熱剤を、咳や鼻水の症状があればそれに対応した薬を処方してもらいます。それは、治療者である医師と患者である我々との間に現代医学という共通認識があるから成り立っています。中世日本のように護摩行をして病の原因となる悪霊を祓うのでもなければ、神様に生贄に捧げて怒りを鎮めようとも思わない。そんなことでは風邪の諸症状は治らないと知っているからです。それを説明モデルを共有している状態と呼びます。

ー国や宗教によっては、いまでも独特の治療法を信じている人たちもいますから、その説明は非常に納得できます。

(鈴木)「ヤブ医者」という言葉がありますよね。沖浦和光という歴史学者は、「ヤブ医者」がもともと「野巫医者」だったと書いています。つまり、我々が普段用いているような腕の悪い医者を指す言葉ではなく、朝廷に仕える正規の医師ではない「野」にいて、それでいて「巫」つまり巫女(みこ:ふじょ)のようなシャーマニックな治療を行う人たちのことを指すのだと話しています。祈祷師や陰陽師のような人たちです。例えばプラシーボ効果というのが有名ですが、患者の側がそれを治療だと思えば、なんでも治療として成立してしまうんです。現代に生きるわたしたちは、たまたま西洋医学を信じているのであって、他の何かを信じている人がいてもおかしくはない。

ーいまだに首にネギを巻くと風邪が治るとか言いますし、そういうことですよね。

(鈴木)そうです。野の医者の場合は、最初からクライエントとの間で説明モデルが共有されていることは滅多にない。そのためヒーラーはよく喋ると東畑先生は著書に書いています。話すことで治療者とクライエントの間に共通の「説明モデル」を構築する必要があるとの認識があり、例えば「オーラソーマ」という手法でクライアントと向き合う野の医者の場合、カラーボトルを選ぶという行為が何を意味するのかを丁寧に説明することで、相手の潜在意識を読み取っていく治療をします。そう考えると、『絶対内定』が564ページもあるのは、就活アドバイスを提供する杉村氏と読者の間に共通の説明モデルが構築されていないため、丁寧に読者を説得し、彼ら彼女らを自らの世界観に引き込んでいく必要があるからでしょう。ちなみに、それでも足りないと感じる読者には、我求館という私塾で対面でその教えを学ぶことができる場も用意されている。

マーケティングによる癒し

ーあの分厚い本を読み通すだけの根気があれば、内定取れそうですけどね。それにしても、セミナーまで用意しているなんてビジネスモデルがしっかりしていますね。

(鈴木)いいところに気がつきますね。そうなんですよ。「マーケティングによる癒し」(東畑2015)がひとつのキーワードです。東畑開人という人は京都大学大学院で博士課程を修了し、臨床心理士の資格を持つ至極真っ当な研究者です。その真っ当な研究者である東畑氏が、沖縄の怪しいヒーラーたちに弟子入りして「心の治療」について考えていく過程が先ほど引用した『野の医者は笑う 心の治療とは何か?』(誠信出版)に書かれています。

ー面白そうな本を見つけましたね。

(鈴木)東畑先生曰く「沖縄のヒーラーは『傷ついた治療者』であり、野の医者は治癒を与えるのではなく、ひとつの生き方を与えるのだ」と分析されています。これからその点をご説明します。


ドラゴンとトカゲ

ヒーラーには二種類います。たえ子さんやヒロミさんみたいなドラゴンと、僕みたいなトカゲです(東畑)

(鈴木)いきなり固有名詞を出してしまいましたが、あまり気にしないでください。たえ子さん、ヒロミさん、というのは沖縄のスピリチュアル業界で有名なヒーラーのことですが、深い意図はありません。なぜ、この箇所を引用したかと言うと、野の医者(ヒーラー)には階層構造があって、トカゲに例えられる普通の「野の医者」の上にはドラゴンに例えられるような野の医者が存在しているということです。ドラゴンと呼ばれるような人たちは、専用のオフィスを持ち、提供されるセッションは一回数万円もするにも関わらず、顧客が後をたたない。一方、普通の野の医者は、概して貧しく、副業をしながら何とか生計を立てているような人たちなのです。彼らは自らも高額のセミナーやスクールに通うためにお金を惜しまず、より良い野の医者になることを目指して日々奮闘しています。野の医者は「傷ついた治療者」であると言いましたが、「野の医者の世界では医療と教育が渾然一体」(東畑2015)になっていることがポイントで、学ぶことで癒しが与えられている。

ー学びと癒しが一体となっているというのが、先ほどの「マーケティングによる癒し」と関係しているんですか?

(鈴木)そうです。自己のテクノロジー(牧野2012)については既に話しましたが、野の医者にとって治療(あるいは施術)は、「技法は空っぽの容れ物に等しく、それに各々が自由に思想を詰め込んで治療を提供」(東畑2015)しています。ですので、ドラゴンから教育を受けたトカゲは、学んだことをある程度自由にアレンジ(ブリコラージュ)することで、自分だけの治療法というのを考案、確立していく。

ーそれだけだと怪しくないですか?根拠がないというか。

(鈴木)実はそうとも言い切れないんです。完全に怪しいと言い切れないというのが、東畑先生の主張です。野の医者は「考え方が変われば、世界が変わる」という信念のもと治療を提供しています。

彼らは「潜在意識(心理学では無意識という)」や「マズローの5段階欲求」、「コーチング」など、学問的な要素もしっかり取り入れているため根拠があるようにみえる。だから、見分けがつかないものも多いようです。「マーケティングによる癒し」については、「何がこころの治療であるのか?」という問いと密接に関わっています。こう言うと元も子もない感じがしてしまいますが、患者が癒しであると思えば何でも良いんです。重要なのは、治療者とクライアントの関係性です。現代のような過酷な世界をサバイブするためには(日々の食いぶちを確保し経済的に自立するには)、顧客を獲得するためのマーケティングが非常に重要になってくる。特に、沖縄県のような産業基盤がしっかりしておらず働き口が少ないところで生活するシングルマザーや貧困家庭など、社会的に弱い立場にいる方々にとっては、自ら稼げる状態になることがとても重要です。例えば、マインドブロックバスターという治療法を提供する人たちにとっては「起業してお金を稼ぐことこそが癒し」(東畑2015)とまで言われている。でもそれは、沖縄という地域性9などの理由もあるかもしれませんが、誰かを生きやすくしているという点で治療法として機能しているのは事実です。

ーお金を稼ぐことが癒しというのは、なんとも現代的な話ですね。

(鈴木)そう考えると、就職活動にとっての最大の癒しとは内定を獲得することですよね。マインドブロックバスターが「あなたの心のブロックを外します」と言ってイメージの書き換えを促すこと、それが傍目からは無根拠で軽薄に映ったとしても、それが治療を求める患者にとって有効であるならば良しとなる。つまりは、内定を取ることが唯一の癒しである就活生にとっては、その過程がどんなものであろうと関係ない。プロセスよりも結果が重要ということになります。

ヒロミさんは名言をのたまう。
「デタラメOK!でまかせOK!」「だけどごまかしはNG!愛が大事なの!」

(鈴木)ヒロミさんとは、マインドブロックバスターのセミナーを主催している野の医者です。「真実なんてどこにもない。あるのはもっともらしいものだけなのだ」(東畑2015、傍点筆者)。この点を見失ってしまうと危険かもしれません。就職活動においては、それこそ膨大な数の就活本が出版されていますが、昨今ではYouTubeやTikTokなど現代的なツールを介した就活サポートも提供されています。インフルエンサー化した人から、あなた誰ですか?と思うような素人会社員まで多様で、彼らは一様に内定獲得のための必勝法を語っています。しかし、どうみても怪しいとしか思えない彼ら彼女らは、もしかしたら誰かにとっての「野の医者」なのかもしれないと思い直しました。そう考えると彼らを必要とする学生も案外多いのかもしれないし、何より就活アドバイスを提供している彼らも、そうした職を得ること(つまりはお金を稼ぐこと)が癒しに繋がっているのかもしれない。そう考えると、安易に批判してはならないと思ったんです。

ー就職活動における「野の医者」ですか。

(鈴木)そうです。なぜなら行政や大学の就職課、大手メディアなどが就職活動に関するアドバイスを提供していますが、人によってはそれらのやり方が自分には合わない、結果も出ないということに悩んでいるかもしれない。そうした悩みを抱えた人が、ようやく辿り着いた先にいたのが就活アドバイスを提供する野の医者だったというのは十分にあり得るなと。「ファスト化した社会」とよく言われますが、インスタントに癒しを得られるなら、それを提供してくれるのは誰でも良いんです。『絶対内定』を書いた杉村さんは既に野の医者でいえばドラゴンの域にいる人でしょうから、そのドラゴン杉村から学んだトカゲが社会にはたくさん存在しているはずなんですよ。ともすると、彼ら彼女らも内定が得られなかったり、就活に納得していない「傷ついた治療者」かもしれない。似たような悩みや苦しみを経験したからこそ誰かを癒すことができるというのは、傷ついた治療者の特徴ですから。ちなみに『絶対内定』は次のような一連のシリーズとして展開されていて、就活生向けの自己分析ビジネスをかなり細分化しています。それは見方によってはビジネスとして洗練されてきた証だともいえるし、就職活動が無くならない限り、ビジネスとしては安泰でしょう。

  • エントリーシート・履歴書

  • 面接

  • 面接の質問

  • インターンシップ

  • 就活手帳

ー学生にとってはそれくらい藁にもすがる思いで就職活動をしているし、産業として成立させることで、就活に失敗して働き口がない人や納得していない人たちが、今度は就職活動領域における野の医者として職を得ることで自立するという、ある意味生態系ができあがっているのですね。

(鈴木)それほど現代を生きることが過酷になっているということだと思います。一方で、選ぶ側である企業側や、既に社会人として働いている側の問題も見過ごせないと認識しています。ここで女性の貧困問題や労働問題を研究している栗田隆子さんの文章を引用しますね。

先ほどの大人の視線の話の延長だが、なにか大人達のシューカツを巡る視線はどこか生き生きしてしまう。さきほどの記者の発言も、どこか心配と好奇心がないまぜとなったようにみえる。若い者の右往左往を心配することへの欲望。もしや、就職活動とシューカツの違いは、この大人達の盛り上がりにこそあるのではないか

(栗田2013、傍点は筆者)

若い者に対して教育をするという欲望だ。心配するという欲望でもある。挨拶の仕方、洋服、ヘアスタイル、写真、それら全ての指導。やっていることは、本人の就職先を見つける手助けという建前なのだけれど、むしろ大人達が、格好も含めて、あるスタイルに仕立て上げることに喜びを感じているのではないか。それはなにより快楽なのだ。はっきりここで認める必要があるのではないか

(栗田2013)

ーどうしてこの文章を引用されたのですか?

(鈴木)怖いなと思ったんです。学生が右往左往するのを楽しんで見ている大人って怖くないですか?冷静になって読むと、本当にどうでもいいことをアドバイスしているんですよ。徐々に変わってきてはいると思うんですが、服装とかヘアスタイルとか写真の指導とか、本当にどうでもいい。よく、欧米だと履歴書に写真を貼るのはハラスメントなのだから日本でも止めろ、と言う人もいますが本質はそういうことじゃない。大人である我々は、若い人たちにアドバイスをしたくて仕方ないんですよ。もはや病気といっていいかもしれない。就活において自己肯定感を高めている学生について話しましたが、大人も学生を使って自己肯定感を高めているのが実態です。大人は大人で大変だと思うんですが、学生との接触でそれを解消する必要はないですよね。日本的な新卒一括採用は非効率だし、欧米型の通年採用に切り替えろという提言は以前からずっとされています。新卒一括採用システムに内在する問題もあるとは思うんですが、社会人の側の認識や学生への向き合い方を変えてみることだけでも、随分とマシなものになるとは思うんですよね。

ー大人の側の問題も解決しなければならないと。

(鈴木)そうです。大人に対しては、「大人にとっての社会のオルタナティブ」(貴戸2013)を提示してあげる必要があると考えています。

ーどういうことでしょうか?

(鈴木)関西学院大学の貴戸教授曰く、「子どもが学校の外に出ることができるようには(それも実際には難しく、かろうじて逃れうる場合が多いだろうが)、大人は仕事の外に出られない」(傍点は筆者)。つまり、子どもは学校が強制する尺度(テストの点数や、模範的生徒であること等)に合わせることができなくても、親や周囲の大人がその子自身を認めてあげること(存在を受け入れる)ことで居場所を作ってあげることができます。

しかし、大人の場合は働くこと(多くの場合は仕事で結果を出す)ことでしか他者からの承認を得られなくなっている。仕事(職場)が自らの居場所と繋がっているため、定年退職した人たちは所属や肩書を失うことで社会と切り離されてしまうし、現役世代は仕事をしていなければ「ニート」や「フリーター」と社会から蔑まれることになってしまう。子どもに対しては「ありのままで良いんだよ」と肯定してあげられるけれど、大人に対してはありのままでは肯定してあげられない。そうした状況に対して、「社会のオルタナティブ」を実現するのに貴戸教授がどういった提言をしているかというと、「働くことを、『食いぶちを得ること』や『子どもを持つこと』、『アイデンティティの帰属先であること』などと切り離し、『社会とつながる』活動を幅広くさすものとして、緩やかに構想していく必要がある」(貴戸2013)としている。つまりは、所属を多元化し、複数の場や関係性との結節点を増やしていくことで自分が何者であるかを証明し、居場所を作っていくということです。

ーその点、鈴木さんは所属の多元化はしていますよね。

(鈴木)手前味噌で恐縮ですが、そうですね。友人と起業した会社にも所属していますし、こうして自分で出版社も作りました。サラリーマンをしている時と比べると、人間関係もまぁまぁ広がってきたと思います。会社員時代は「会社名」があったからこそ付き合いが生まれた人たちが大勢いましたが、それはあくまでわたしが「電通の鈴木」であり「ADKの鈴木」であったからです。わたし個人が評価されたとは思っていません。だから、どれだけ名刺の数が増えようと、関係性が広がったとは思えなかったんです。とはいえ、「言うは易し行うは難し」でオルタナティブを作るというのは簡単ではありません。わたしの場合、自分の会社がこの先どうなるか不透明なのでお世辞にも安定しているとはいえないから不安です。でもそれは大手企業に勤めていても同じですよね。確率が異なるだけで破綻するときは大手企業だって破綻するわけです。だから、どれだけ現在の自分に納得感を持っているかが重要なのではないかと思います。いまは大人になっても右往左往している人が少なくないし、右往左往させて楽しんだり、儲けようとしている人たちが多いんですよ、自己啓発本とか転職市場なんかはその典型だと思いますが、「いまのままで大丈夫ですか?」「いまの働き方に納得していますか?」とか煽っているわけじゃないですか。ほっとけよ、と思いますがね。冒頭の「就職活動とこころ」の話に戻ると、就職活動での成功(成功の定義は人によって様々ですが)だけに拘ることなく、広い意味で自分の将来を考えてみて欲しいと思います。安定した大企業に所属した立場からそれを言っても全く説得力が無いので、わたしとしては自分がそれなりに結果を出していくことで「あぁ、こういう道もあるんだ」というのを微力ながら示していきたいです。だから、自立を目指す人がいるなら一度わたしに声をかけてみて欲しいです。松葉杖的な存在になれるかもしれません。

ー自立を目指す人のための松馬杖、良いですね。

(鈴木)いきなり自分ひとりで起業するというのはやはり大きなリスクを伴います。わたしの場合、友人という存在がいたからこそ起業に踏み切れたというのが大きい。だから、現在会社勤めしているけど、将来のことを考えれば自分で生きていけるようになりたい、そう思う人は副業という形でわたしを使って欲しいし、企業勤めに興味を持てない学生は弊誌に記事を寄稿して少し稼ぎ、他にアルバイトなどで生計を立てながら次に何をするかゆっくり考える時間にしてもらってもいい。とにかく、このクソ早い社会の流れに身を任せることだけが、唯一の生き方ではないよ、ということを多くの人に知って欲しいと思っています。

ー今回はお話いただき、ありがとうございました。

参考文献
「医療における現実の多元性と多層性--アーサー・クラインマンの現象学的・解釈学的医療人類学」梶谷真司、帝京国際文化、2006
「野の医者は笑う 心の治療とは何か?」東畑開人、誠信書房、2015
「就活の社会学 大学生と『やりたいこと』」妹尾麻美、晃洋書房、2023
「『何者』と「就活デモ」を結ぶ線」樫村愛子、現代思想 特集「就活のリアル」、2013
「『働かないことが苦しい』という『豊かさ』をめぐって」貴戸理恵、現代思想 特集「就活のリアル」、2013
「シューカツを巡る>大人<の欲望のまなざし」栗田隆子、現代思想 特集「就活のリアル」、2013

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