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愛と勇気だけが友達なあなたへ

アンパンマンのうたで「愛と勇気だけ―が友達さー」という歌詞があり、アンパンマンは「友達がいないんだぁ~」ばいきんマンやしょくぱんマンなどいろいろなキャラと絡んでいるはずなのに「さみしい奴だなぁ」と思っていませんか?
最近「キャプテン翼」で「ボールが友達さ!」という発言をしていたのを思い出した。周りに人に囲まれて支えられているのに、なぜこのような発言をするのか?

ヒーローは孤独の様に見えるが孤独ではない

ある程度、大人になると「愛と勇気だけが友達」の意味が解ってくるようになってきた。なにかに打ち込む人は、一人で「孤独」であると考える
たぶんだが「孤独ではない」、なにかに打ち込み集中しているため「孤独という気」すら起きないと思う、「目標」しか目に見えていないのである。孤独ではなく孤高である。一匹狼は自分をさみしいとは思わない。

傍からは寂しい奴と思われる

結婚相談所を運営しているとこんな仲人さんが多い「あのひとさみしそうね」とさみしそうな人に近寄り「ひとりは寂しいから結婚したらどう?」と勧めるのである結婚相談所の営業の手法でもある。

さみしければ、結婚するのもいいと思う。
孤独で何かを成し遂げようとする人「アンパンマン」なみたいなひとにとっては「独りで十分」とおもう。
そんな考えから、「ひとりで頑張っているひと」は遠目で見ると異端に見えて、話さず、気持ち悪い、あたまがおかしいなど異質に見えて理解されないいじめられたりもする。けど大成すれば手のひらを返したように「やるとおもった」などの言葉をもらうのである。

先生と呼ばれる人ほど

私は、先生と呼ばれる人が、群れを成し派閥を作りなれ合いのが一番嫌いである。結婚相談所の先生(仲人)は群れを成し派閥を作りその中で生きる先生たちが多い、まるで女子高の便所みたいで気持ち悪さすら感じる。けど私は、「孤独」を感じてはいない。先生と呼ばれる以上、「会員の成婚、幸せを考えるため」孤独に切磋琢磨しガチで会員さんで向き合わなければならないと考える。

お医者さん弁護士などの士業もそうだ、一人前になるには、インターンなどを経て経験値を上げなければならない 35歳ぐらいで先生として一人前と呼ばれるようになる。その為には、一人で努力し頑張らなければならない。孤高である。婚期が遅れようと、自分がめざす道には余計なものを排除しなければ達成はないのである。

中には、学生の頃から、孤高の道を歩む人がいる、スポーツ選手や勉強ができ目標ができている人は、孤高の道を歩んでいる。一人なので異質に見えていじめられたり、ぼっち・陰キャなど呼ばれ、友達もいないけどわき目もせずに頑張るのである。

そんなに友達が大事か?

「友達ってなんだろう」とみんなは考えたことがあると思います。一緒に遊んでくれる友達、相談に乗ってくれる友達、いろいろあるだろう。人それの考え方だとおもう。けど、「ともだちいない人は寂しい」「恋人がいない人は寂しい」と思うのはおかしいのではと思う、さみしければ自分で探す。
日本には「走れメロス病」が蔓延しているため。友達大事と考える傾向が強いが、「孤高の道」をめざす人は関係ない事だ。

経営者も孤高である

経営者も同じで「孤高の道」を歩む人である。基本ぼっちである。その道を一人で歩くのがつらい為、みんなでさわいだり、愛人をつくったりと逃げるところがある。逃げると大成はしないと考える。

孤高はもう古い?

ヒーローや先生、経営者は「孤高の道」を歩むという考えは古いかもしれない、みんなでわいわいやれば楽しいし「ガチ」で考えなくてもいいのかもしれない。けど、「アンパンマンやキャプテン翼」を観てきた世代には「愛と勇気だけが友達」「ボール」でしかないのだ。

たぶん、「孤高の道」がしみ込んだ時代遅れのオッサンだがこれでしか生きていくかない。

あなたはどう思いますか?



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