幾原監督最新作『さらざんまい』から目が離せない!――過去作からの一連のテーマを確認する回

 映画を見に行って、アニメの予告が始まって、「この雰囲気でこの語り、新海誠っぽいなー」と思ったら案の定新海誠のクレジットが出てくる、という仕掛けが凄いなと思った。スマブラのCMの時も似たようなことを書いたけど、観客の頭に「新海誠」の文字をあえて浮かばせて、その瞬間を狙って名前を表示させてるんだと思う。
 トレイラーの作り方以前に、その演出ができるだけ独自の雰囲気を確立しているというのがもう十二分に凄いんだけれども、この時期それをやったアニメ監督がもう一人居て、それが『さらざんまい』の幾原邦彦なんですよ。

 タイトルだけじゃ料理物で寿司の話だと思ってしまうけど、一度でも予告映像を目にしたら頭には幾原邦彦の名前が浮かぶ。twitterでも広告を打っていたから、「アニメは好きだけど、毎期毎期熱心に追ったりはせず、気に入ったやつがあれば見る」というスタンスの人には結構刺さったと思う。それを狙っての露骨なまでに『ピンドラ』に寄せたトレイラーにしてきたんじゃないかな。
 かくいう僕もtwitterの広告で視聴を始めたクチで、急いでアマゾンプライムの配信を追いました。

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 今回はプレゼンの練習ではないので見ている前提で見ている人を相手に書きますけれども、5話時点では『ユリ熊』から内容に大きな変化がないように思えるのが気になっています。
 全12話らしいので次回かその次くらいで大きく方向が変わってくるんじゃないかと予想していますが、仄めかされているストーリーの基盤となるメッセージがどういう方向に向かうのか目が離せない。

 2011年に放送された『輪るピングドラム』は、まさに今のインターネット世界を一歩先に予見したような内容で、理不尽にも重い宿命を背負うことになった子供たちが、「何者か」になれずとも幸せになる方法は何か、みたいな話でした。少なくとも僕はそうだと思っています。
 作中は周囲の人達との愛情のリレーがその答えとして示されていて、愛を与え受け取りそれが回り巡ってゆく繋がりの関係性が、特別な超越者になることに対置されています。そして最終的に勝利したのはイモータルとなった孤独な復讐者ではなく、世界的には何者でもないが愛の受け渡しを成し遂げた陽鞠達でした。

 思えば平成初期の『少女革命ウテナ』では、「期待されるロールに沿うか、沿わないか」といったテーマが描かれ、最終的にヒロインがロールから脱却することを「少女革命」と称したわけですが、「レールから外れたはいいものの、路頭に迷ってしまった」人々に向けた作品が『ピンドラ』であったと考えられます。

 2015年の『ユリ熊嵐』は、youtuberなどが台頭する中で、『ピンドラ』の方向性を修正するような意味合いで登場してきたように思います。社会の規格に沿うよう個性を矯正することを「透明」と表現するなど、テーマの一部が『ピンドラ』と被っているからです。
 均一化に抗い、かといって何者にもなれずとも、幸せになれる道はある。愛情の大切さを提案したのが『ピンドラ』だったわけですが、現実は「承認欲求」のキーワードを燃料として、その場所からさらに加速していきました。
 例えば、インターネットで有名になった者たちがオフパコに励むようになってからは、結局元の鞘に収まるというか、やはり「愛情を得られるかどうか」と「何者かになること」が密接に関わるようになってしまった。
 『ピンドラ』で示された「周囲の大切な誰かとのかけがえのない繋がり」を巡って、均一化と超越することが再び対立することになったのです。

 『ユリ熊』では同調圧力と「何かを好きでいること」を対比させたうえで、その好きが本物かを問います。それが承認欲求を満たすためのものか、より純粋なスキであるかを。
 同調圧力と超越者の二項対立も、繋がりを得られるかどうかの問題も、同時に解決する方法として「本当に好きなことに打ち込むこと」を提案したんですね。少なくとも僕はそうだと思っています。
 だから透明な均一化集団、あるいは定型発達者コミュニティーのような人間の世界から、断絶の壁を超え超越者やイモータル、何者かやバリバリやっていく発達障害者のコミュニティーのようなクマの世界に行くには、自分の姿を砕かないとならないのです。『ドラゴンボール』の神様がピッコロ大魔王を追い出したように、人間は欲望にケリを付ける必要がある。一方でクマが人間の世界に入るには、自らの大切なアイデンティティを差し出さなくてはならない。

 『さらざんまい』はこの流れの中にある最新作です。今作の重要ワードに、『ユリ熊』で切り捨てた「欲望」があることは疑いの余地がありません。それを持っていては、他人に見られては、繋がれなくなる。
 その中における少年たちの葛藤を描いていますが、既に書いたように、「繋がり」のワードは『ピンドラ』の流れも汲んでいます。

 幸せになるためのヒントとして示された「繋がり」と、それを阻害する「欲望」というのが今回のテーマでしょう。
 悪役の活動が今の所おとなしく、6話から動きがありそうなのが気になるところですが、このまま単純に「欲望」を「繋がり」と敵対させたままでは『ユリ熊』から何も変わらないことになります。ただし今回は主人公たちもそれぞれ切り捨てられない「欲望」を持っているため、欲望を全否定して終わるとは到底思えないんですね。

 では、両者の関係は、3人の少年たちのストーリーは、どのような落とし所に収まってどのような提案を導くのだろう。これからも引き続き『さらざんまい』の展開から目が離せませんね。

コミュニケーションと普通の人間について知りたい。それはそうと温帯低気圧は海上に逸れました。よかったですね。