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『仏果を得ず』 〜たどり着いたときの恍惚〜

仕事柄、インタビューをすることが多い。人物インタビューとして記事にまとめるときは、取材相手の言葉をそのまままとめるんじゃなく、その人が言ったことを、さらにわかりやすく、響きやすくまとめていく。

書くときはいつものめり込んでしまう。あの発言の底にあった意味はどういうことなのか、あの言葉をどうすればもっとわかりやすく伝えられるか…。繰り返し考える。だんだんと自分がその人と重なっていく、自分自身がその人の思考回路や気持ちになっていく時間がある。

乗り移ったかのように書く。書いて書いて、書き上げたときは、最大限の「ふうぅぅぅぅぅ」がある。
やり切ったぞ。しばらく放心…。

書くことを仕事にしている人ならきっと、少なからずこんな瞬間はあるはずだ。

役者さんの役作りもこんな感じなんじゃないかなって思っていた。
そして「やっぱり、そだよね」と思える小説に出会えた。

ただし、登場人物は役者ではなくて「太夫(たゆう)」だったけれど。

お風呂で読んでたからボロボロ…

『仏果を得ず』は人形浄瑠璃・文楽の世界を描いている小説。
主人公の健(たける)は、義太夫を語る大夫をしている。

文楽の舞台は、浄瑠璃の人形が流麗な動きで物語の世界を動きで表現する。
人形はしゃべれないので、物語を語り進めるのは義太夫と呼ばれる太夫の語りと三味線だ。舞台の花道から、物語の場面の説明や登場人物のセリフを節をつけて太夫が語り、三味線が情感を奏でる。

ときに激しく、ときに静かに。義太夫は波の満ち引きのように物語を伝える。クライマックスでは熱を帯びた太夫の語りに、三味線がざわつく心を激しく奏で、観客を引き込んでいく。

太夫の語りの緊迫感は、舞台と客席の空間をぴりりっと引き締める。それはそれは、清々しい場を作り上げる。

健は太夫としてはまだ半人前だが、文楽の世界に取り憑かれたようにどっぷりつかっており、寝ても覚めても義太夫のことを考えている。

物語のことや語る役たちのことを真に理解しようとして、師匠や三味線の兎一郎と議論を交わす。一人でもんもんと考えることもある。ときには、役のことが理解できずもんもんとドツボにはまっていく。げっそり痩せこけてしまうほど、思考をループさせ続け、義太夫のことを考え続けている。

恋愛していても、師匠や先輩に振り回されていても、寝ても覚めても義太夫と生きる健。

職業といえ、異常なほどのめり込むその姿には驚く。役者さんの役作りと同じものを感じた。

健の熱量の源泉はなんだろうと考えた。なぜそこまで食らいついていけるのか…。読み進めるとだんだんわかってきた。彼は、物語や役を突き詰めて考えて、最終的に答えらしきものをいつもつかんでいる。

なるほど、そうか。義太夫にのめり込みその先に答えを探って探って見つけたとき、そこには恍惚となる瞬間がきっとあるんだろうな。

自分におきかえたら、これって、私が人物インタビューを書くときと同じだな…と思った。確かに、悩んで悩んで、これが答えかなと思って書いたとき、一種の恍惚を覚えているかも。

そう気づいてから、どっと共感できた。少し難しくて遠い文楽の世界がすごく近く感じられた。

きっと、誰しもそうやってのめりこんで考えすぎて、答えにたどり着いたときに感じる恍惚がきっとある。
そんな体験がある人なら、楽しめる1冊だと思う。

伝統芸能の世界は、浅い知識やよこしまな心で踏み入ってはいけないと思う。とても難しい世界だと思う。

作者の三浦しをんさんはそれを最大限理解し、敬意を払っている。
そのことが、小説が終わったあとの謝辞を読むとわかる。

「作中で事実と異なる部分があるのは、意図したものも意図せざるものも、作者の責任による」

「仏果を得ず」双葉文庫

実際に念入りに取材もしているのだろうけど、全部自分が責任を負うというこの覚悟よ。実はここに一番感動したのだよ。


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