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何の根拠も無く、よい人生だったと言う
人並みのキャリアを経て、
人間関係に恵まれ、
能力の限り自己実現を果たして、
思いつく限りの良い/悪いことを経験する。
これらをひっくるめて「豊かな」人生と呼ぶことにするとして、豊かな人生を歩みたいと思うかというとそうでもない。
どちらかというと善い人生を歩みたい。
ここでは「根拠を必要としない」ことを「善い」と呼ぶことにする。
善い人生とは、根拠を必要としない人生。
言い換えるなら、人
何をもって所有というのか、ひいてはどう所有していくか
私が本を読むときは基本的に、本屋に足を運び、本棚の中からその本を見つけ出し、直接その本を手に取って購入したうえで読む。
(実際は、同じ本をAmazonやメルカリでチェックして状態の良さと価格が優位だったら後でネットで購入することもある)
この時、本を買うという意思決定の間にいくつか葛藤が生じる。
電子書籍でも読めるものを、わざわざ紙媒体で買うことに何の意味があるのか…
図書館でなら無料で読
「伝わる」「相手が理解している」「自分が理解している」は同時に成り立つか
自分から相手に伝えようとしている内容があって、まず最初につまずくのは「自分が伝えようとしている内容を自分自身が理解しているか」という問題。
これに対する回答としては「その都度検証(=自分自身に訊いてみる)して確かめる」となるだろうか。
仮に上記問題をクリアしたら、次に2種類の問題が発生する。1つ目は「そもそも…」の問題、2つ目は「その上で…」の問題。
1つ目は前提を疑う問い。
文にするなら「
「ご丁寧にありがとうございます」の嫌味ったらしさについて
例えば相手から連絡があって「ご丁寧にご連絡ありがとうございます」と返す時、
実際は相手の連絡が丁寧かどうかはこちらの受け取り方や感想の話であって、相手にとって関係のないことだ。
相手にとっての事柄に対して「お・ご」をつけるのは自然だが(例:ご連絡)、こちら側にとっての事柄に対して「お・ご」をつけるのは違和感がある。
仮に「ご丁寧」という言葉がまかり通るなら、例えば「(こちら側が)ご感謝してお
DVDの価値は、メニュー画面で挿入歌が無限にループする時間にある。そうでない時もある。
映画鑑賞に限った話をする。
映画館で観る映画と、スマホで早送りで観る映画には違いがあるだろうかと考える。まだ答えは出ていないが、きっと違いはあると信じている。
なぜそう思うかというと、違いとかどうでも良くない?という人になりたくないから。ただそれだけである。
そういう意味では、自分自身、映画の違いなどどうでも良いと思っている。
映画の違いとは、自分にとって他人との違いを確認するための議題に
着る服によって自分の精神的ポジションが変わる。
新しい人間関係の初期段階において、「親戚の集まりに放り込まれた一人の子ども」という役を本能的に演じている自覚がある。
この心理は服装とも紐づいていて、ドレッシー=大人、カジュアル=子どもと捉えるならば、例えば初対面かつ厳密に状況が設定されていない場においては、服はなるべくカジュアルに寄せようという心理が働く。
ドレッシーを選択するということは本能に反することであり、心理的抵抗感があるので、求め
自分なら、見殺しにしたほうの十字架を背負った風を装う。(トロッコ問題)
トロッコ問題の説明は省く。
トロッコ問題をリアリティを持って考え直してみる。
自分がもしその状況に置かれて、突然選択を迫られた時のことを考えてみる。
自分だったら、なんとなくその場のノリでどちらかを助けて片方を見殺しにする。
おそらくそこに深刻な倫理観は伴っていない。なんとなく顔ぶれに親近感があるほうを助ける。自分ならきっとそうする。
この時、いかに苦渋の決断感を装うかが大事なポイントだ
心の中で同意しない言葉
成長と適応は違う。絶対に。
たいていの業務は、経験を積むと適応することはあっても成長することはない。
そして仕事と業務は違う。絶対に。
そして成長と適応の違いも、仕事と業務の違いも説明できる必要はないと思っている。
自分にだけその言葉どうしの間の境目が見えていれば良い。
他人との間ではその境目は曖昧にする。
ただし自分との境目が曖昧な他人との間では、その言葉どうしの境目は明確になるだろ
春先と秋口は走りたくなる、と60年後も同じことが言えるだろうか。
春先と秋口の夜は涼しく、外を走るにはうってつけの気候だ。
それに、走ることを気持ち良いと思えるということは、それなりに自分は走れるんだぞという自信があることの証明でもある。
さらに言えばこの自信というのは、箸を持つのと同じぐらい当たり前にできるという形で認識しているので、意識しなければ「自信がある」という表現に起こす気にもならない。
20代の自分にとって、春先と秋口の夜に走るのは当たり前のよ