自分なら、見殺しにしたほうの十字架を背負った風を装う。(トロッコ問題)
トロッコ問題の説明は省く。
トロッコ問題をリアリティを持って考え直してみる。
自分がもしその状況に置かれて、突然選択を迫られた時のことを考えてみる。
自分だったら、なんとなくその場のノリでどちらかを助けて片方を見殺しにする。
おそらくそこに深刻な倫理観は伴っていない。なんとなく顔ぶれに親近感があるほうを助ける。自分ならきっとそうする。
この時、いかに苦渋の決断感を装うかが大事なポイントだと考える。自分ならきっとそう直感する。
そして、助けたほうの無事を手放しで喜ばず、見殺しにしたほうの十字架を背負った風を装う。表情や雰囲気はなるべく深刻そうにする。
もしくは別のパターンで、決断ができなくてその場で固まる風を装う線もある。
この時大事なポイントは、下手にリアクションを取らないこと。すなわち、状況に頭が追いついていないモードを維持すること。
おそらくこれらが最も人間らしい苦悩の姿だと考える。
もっというと、「こういう風に困った姿を見せとけばええんやろ」という人物像が先にあって、そこに自分自身を合わせにいくイメージ。
本当にパニックになってほぼ理性を失いかけていたとしても、一瞬理性を取り戻した時にはきっと自分に対して他人事のような目線を持つ。
もしこの状況を複数の他人が見た時、同情する人もいて非難する人もいたりと賛否両論分かれるのであれば、自分の試みは成功といって良い。
いずれにせよ自分の頭にあるのは、トロッコ問題の状況というのは一過性の出来事であり、その前後には延々と続く社会生活があるということ。
そして延々と続く社会生活になるべく影響が出ないようにその場をやり過ごすために、ある程度一貫性のある人間らしさを演出しなければいけないと考える。
「揺れ動く」「答えが出ない」というのは人間らしさのひとつの要素だと思っているので、人間らしさを演出する時に必ず頭をよぎることになる。
おそらく自分は、意識が向けられる限り人間らしさを指向する。
それは社会が人間という部品の集まりで、自分が人間のうちの一人だという自覚があるからかもしれない。
そのうえで視点を変えて問いを発してみる。
自分が全体だとしたら?