何をもって所有というのか、ひいてはどう所有していくか
私が本を読むときは基本的に、本屋に足を運び、本棚の中からその本を見つけ出し、直接その本を手に取って購入したうえで読む。
(実際は、同じ本をAmazonやメルカリでチェックして状態の良さと価格が優位だったら後でネットで購入することもある)
この時、本を買うという意思決定の間にいくつか葛藤が生じる。
電子書籍でも読めるものを、わざわざ紙媒体で買うことに何の意味があるのか…
図書館でなら無料で読めるものを、わざわざお金を払って読もうとするのに何の意味があるのか…
本の状態にこだわらなければより安く手に入るものを、多少高くても状態の良いほうを買って何の意味があるのか…
文庫本も出ているというのに、わざわざ単行本のほうを買って何の意味があるのか…
本棚を見渡せばもっと価値のありそうな本は他にもあるのに、あえてこの本を買うことに何の意味があるのか…
こういった葛藤は枚挙にいとまがない。
(まあ一時葛藤したところで、結局買うもんは買ってしまうわけだが)
この葛藤がおサイフ事情に由来しているかというと、一部そうともいえるがそれだけとは限らない。
(すべての本が無料で手に入るとしてもすべての本を持ち帰ることはおそらくしない。自宅のキャパシティが無限大であっても然り)
これが、もし本を買いにきた目的が誰かに頼まれてで、かつ目当ての本も決まっているという状況であれば特に葛藤することもないだろう。
(最適な本の買い方は依頼者の要望次第でおのずと決まるはずだから)
逆に、本を買いにきた目的が自分自身に由来していて、必要性に迫られているわけでもない時(=趣味)ほど強く思い浮かぶのが「所有」という言葉である。
たとえば電子書籍では購読権を得るだけで、本が実際に手に入ることはない。そういう意味では本を所有しているとは言えなさそうだが、それでも本の中身はデバイスを通して読むことができる。読むことができるという意味では、本の中身を所有していると言ってもよさそうな気がする。
この時、法的に所有はどう定義されているかは私にとって興味はない。
私がある対象を所有しているという感覚を得る時に、何を拠り所にそう判断しているか、ということが重要なのだ。
さらに言うと、所有という概念をどう判断しているかということさえあまり問題ではなく、これからどう判断していきたいか、が最も重要な問題だと思っている。
(重要な問題は、個人的であるべきだと思っている)
ひとつアプローチとして、ある対象が放棄可能かどうかを所有の判断基準にできないかということを考えている。
本でいうなら、その本を捨てるなりメルカリに出品するなり処分を決めることができるということは、私はその本を所有していると言ってよいのではないかという考えである。
このアプローチではさらに、その対象の所有者は誰かという問題も同時に明らかにできるのではないかと踏んでいる。
本でいうなら会社の書棚にある本を私個人の裁量で処分できないように、所有者というのは処分を決定することができて、そこでいう所有者というのは複数人であったり、人以外の存在(動物や自然)であったりするかもしれない。
上記を踏まえると、私がある対象を所有しているという時には、
私は対象を私個人の裁量で処分できると判断しているといえるかもしれない。
たとえば誰かと付き合っている時、私は「相手」を所有していないし、「相手との関係性」も所有していないが、「相手への気持ち」は所有している気がする。放棄可能かどうかという観点で言えば。
(これ、「相手との関係性」の所有者が「私と相手」じゃない場合があるような。たとえば「職場」とか「身内」とか)
諸行無常じゃないけど、所有しているものはいずれ手放すことになるだろうから、長く関係を続けるなら所有しないことが賢明なのかもしれない。
ちなみに、個人の所有を増やすこと/減らすことと個人の幸福感の関係を考えてみたが、いまいちアイデアは湧かなかった。