見出し画像

「科学と技術が別のものである」と読んだ本の感想をnoteに書いてみてもよいかな?

オシンテックの布施です。

今回は、表題の件について、読んでなんとなくわかった気になったという感想を単刀直入に書かせていただきたいと思います。表題に興味があれば、対象読者は特に選びません。

ちなみに何という本かといいますと、「経済学」(パーサ・ダスグプタ著、植田・山口・中村訳、岩波書店、2008)(原著:「Very Short Introductions: Economics」, Partha Dusgupta, Oxford University Press, 2007 )です。

無題 1

ここまでで十分ご興味をもった方、著者もさることながら、訳者の植田先生もご存知ならば、相当の通ですね。(私はお二人ともこの本で存じ上げただけの素人です。不勉強で申し訳ないです。)。

さて、先生方の著名ぶりについては、お手数ながら読者のほうで別途お調べいただくこととさせていただいて、こちらのnoteは、表題のとおり、科学と技術の解釈についての感想を述べさせていただきます。その要点はずばり、(自分を基準に考えたところの)欧州と日本の着眼点の違いへの驚きであります。

科学と技術って

みなさん、科学と技術、どのように解釈、分類しておられますか。得てしてあやふやで、「科学技術」と四字熟語でごっちゃにしておられたり、連続していて切り離せないものとイメージしていませんか。この本のなかでも「近年ではこの2つの制度の境界線が曖昧になり始めているほどである」(p.122 l.18)と記されています。

しかしですね、この一文からも読み取れるように、この本の第5章は「制度としての科学と技術」と、両者は独立した各々の”制度”に立脚した歴史をもったものとして説明しているのです。ともすれば私なぞは、科学者とは隠者であって世捨て人として憧れの存在であり、技術者は特殊技能の持ち主で働き者(?)などと妄想していたものでありますが、そんな着眼点ではなくて、これらは制度が異なるのですってよ。・・・なんすか、”制度”(原文:"Institutions")って?

制度?

親切にもこの訳書第5章は、その第一文に「制度は公共財である。社会は、社会にとって最も望ましい制度の組み合わせを見つけるという問題と向き合っている。」(p.112 l.1)と書き出しておられます。はぁ、制度というものはなんかそういう概念のものですか・・・はい、わかりません(注:個人の感想です。)。

対応する原文を見ますと、「Institutions are public goods. The problem facing a society is to unearth what combination is likely to work best for it.」だそうです。Institutionって英単語を辞書(https://dictionary.cambridge.org/ja)で引くと、 「a large and important organization, such as a university or bank」とあります。

この時点で私の脳みそは、Institutionって組織、団体を指す言葉では?と思ってしまうのです。が、これをこの訳者の方々は、”制度”と訳しているんですよ。このセンス!大学(university)、銀行(bank)とも、人間が考えた制度が作り出した組織体と理解せよ、ということでしょうか。深い!そしてそういう組織体は、"公共財"(原文:"public goods")であると。

そう、社会のルールが作り出した組織なのですよ、大学、銀行って。銀行はお金のルール、大学は・・・知識に関するルールってことでいいんだろうと思います。この点は明確に、この解釈に至らしめんとする書き振りがあるわけではないのですが、なんか勢いでそんな感じを受ける論述になってます。

さかのぼると・・・

さて、この公共財としての科学と技術について、この本は、”知識”(原文:"knowledge")という言葉を用いて「科学知識」、「技術知識」と表し、また、知識の性質について、「知識は、[非競合性と非排除性が極めて強いという意味で]公共財のお手本のようなものである。」(p.112 l.7)と述べています。そして、いよいよ、本noteの本題、科学と技術が別のものである点ですが・・・

「大まかに言って、ここで言う科学知識と技術知識とはそれぞれ、古代ギリシャ人のいうエピステーメ(思索的、理論的、抽象的な知識)とテクネー(術や実用的知識)の意味である。」(p.113 l.12))。

わーい、古代ギリシャ時代までさかのぼって言葉を引用しておるわー。ヨーロッパの歴史自慢かーい(笑)・・・とか言ったところで、実際、そんな概念を議論していた人たちの記録が残っているらしいので、自慢というより事実として素直に受け止めましょう。

そして、この2400年近くも昔に、概念を言葉にしてその何たるかを語り合っていたギリシャ人とその記録を引き継いできたヨーロッパ人に改めて驚異を感じるわけです。私なんて私自身の1ヶ月前の発言さえ忘れて仕事しておりますよ。え?メモ?記録ですか?書いたという記憶をなくしました(爆)。

ちなみに、これを日本の古文に求めようとすると、文字が残っている時代は1400年ぐらい前?で、当時にエピステーメに相当していた語は・・・うーん・・・「おもひ」(?)、テクネーは「わざ」(?)でしょうか・・・いや、そんな漠然としすぎた言葉で相当していると言えるのか。

まぁ、もし言えたとして、その2語を同一の文献の中に並べて論じたり、もしくはどちらかの一語に対して思索を深めた文章があるのだろうか。私の受けた教育のなかの古文というものでは、「そなたのおもひを、かなたのわざにてごらんにいれたてまつらん」とか述べたやつがいたとは聞いたこともない。というか、よく考えたら古文の授業の中に思索的な文章の作者の紹介があっただろうか?吉田兼好?つれづれ?聖徳太子?


はてさて、ちょっと横道にそれましたが、その後、こちらの本では・・・、ヨーロッパの歴史において、科学知識(=思索的知識)は公共のものとして使いたい者がそれをつかえるようにされるべきものであって、新たな知識の発見には、名誉、優先権をインセンティブにするように発展してきており、いっぽうでそれを私有財産化するような制度が技術制度として発展してきた、とダスグプタ先生の解釈が書いてあります(ざっくり)。

アリストテレスはテクネーについて語るのを上品と思わなかったが、対照的に現代の経済学者は経済発展にはテクネーが重要であると考えている(p.113、意訳)とも。


私有財と公共財

科学と技術についてダスグプタ氏のまとめるところによると、「技術機構での行動は市場の力が原動力であるため、法律に強制される。一方、科学機構においては、行動は共同体の制約を受けるため、規範に実効化される。どちらの制度も知識を生産することに変わりはないが、技術機構では知識が私有財とみなされるのに対し、科学機構では知識は公共財とみなされる。」(p.120 l.19)(原文:「behaviour in Technology is market-driven and thus enforced by the law; whereas in Science, behaviour is community-ridden and thus enforced by norms. Both institutions produce knowledge; but in the former, it is regarded as a private good, whereas in the latter, it is viewed as a public good.」)

日本語で読むとダスグプタ先生、言葉を言い換えているようにみえますが原文で見ると、なるほどそれぞれの概念に従って表現されているだけだと気付かされます。訳者の方々の苦労を感じますし、意味や状況がわかるとこれらの対義の表現も楽しく(?)読めます。market-driven と community-ridden、  regarded as a private good と viewed as a public good のところ。ラップで韻を踏んでるみたい。

 お前 技術者 プライベートグッド マーケットドリブン
 手前 科学者 パブリックグッド  コミュニティリドゥン

(イェ!)


「従来の区別の仕方では、科学機構は基礎研究(自身の産出(アウトプット)がさらなる知識を生産するための投入要素(インプット)となるような研究)に関わるものであるのに対し、技術機構は応用研究(自身の産出が、財・サーブ祖を生産するための投入要素となるような研究)に関わるものであると考えられてきたが、これは作り出されるものが異なることに着目した解釈である。本書で提唱した見方は、科学機構と技術機構を制度として見るものであり、より深い考え方であるように私には思える。

このように考えれば、2つの機構では作り出すものが異なると期待されているそもそもの’理由’を説明できるからである。」(p.121 l.1)(原文: The traditional distinction between Science and Technology, which sees the former as being concerned with basic research (whose output is an input in the production of further knowledge) and the latter with applied research (whose output is an input in the production of goods and services), interprets the two in terms of differences in their products. The viewpoint being advanced here, of regarding Science and Technology as institutions, seems to be me to be deeper. It helps to explain why their outputs would be expected to differ.)

社会からの受け取られ方

ダスグプタ先生が、科学と技術を、institutions にて説明したいと考えた理由はこれのようです。背景となる社会の受け取り方、取り扱い方が、それぞれ異なっていることに言及なさりたかったんですな。そもそもインセンティブがないと知識生産活動が行われない、という経済学らしい前提をおき、そのインセンティブの”意味合い”(←社会に対する効果とでもいうのでしょうか?言葉を知らない・・・)が違うことから、科学と技術を説明しようとした、ということですね。そんな着眼点があるとは・・・よもやよもや、だ。さらに先生が続けておられる言葉には・・・

ダスグプタ先生の仰るところによれば、では、科学というのは金銭的には無報酬なのか、というと、まぁ先生もそこまでは言っていない。ただし、「研究者仲間から受ける尊敬や、勲章、紋章は科学者に報酬を支払う際の通貨であり、これらはあまり資源をかけずにすむという点で素晴らしいイノベーションである。」(p.122 l.4)と、金銭的報酬でないものが得られるとしている。

え?金銭的報酬なしで人間が生きていける世界があるのですか?日本に暮らしていてその発想はないわー。かつての日本政府が「技術立国」を目標に掲げていたけど、「科学立国」とか「科学者育成」とか言わなかった理由がわかった気がするわー(個人の感想です)。

また、ダスグプタ先生は更に言葉を続けて「このような社会的仕組みが効果を発揮するためには、科学者に対して、非金銭的な報酬を好む態度が身に付くような教育を十分に行わなければならない。」(p.122 l.7)(原文:「In order that those social contrivances are effective, a good part of a scientist's education involves developing a taste for non-pecuniary rewards.」)と述べておられます。ここは、訳文に注意が必要ですね。「科学者に対して(のみ)」教育が必要なのか、科学者とはそういうものだと「社会に対して(広く)」教育が必要なのか、ダスグプタ先生はどちらで書いていると思います?私は、後者であってほしいと思っていますよ。前者だと、科学者を洗脳して社会で使い倒してやろうって考えてるみたいじゃないですか。


そのころと今、一般人と科学者、日本と世界

ところで、この本が書かれたのは2007年でありますが、そのころは科学と技術はまぁまだ並走できていたのだと思います。が、その後の10年で技術というもの、とくにインターネット利用層の世界的拡大、パソコンを超えるスマホの普及において、情報の交換のハードルがどんどん下がり、活発になっています。科学知識生産のための、その生産者たる科学者の囲い込みの壁ともいうべき、知識の伝播手段がこのような形で活発になったことは、科学者にとってまた別の影響を与えているのではないか、と個人的には思ったりします。

たとえば、日本でいえばQiitaであるとかteratailなど、エンジニアが経験や知識をブログで発表する活動、これってもはや技術の言い出しっぺであるとか師匠とかよばれるような立場の人って関係なくなっていて、「あ、その方法、おれ聞いたこと在る。」「おれ、こうやってその問題解決した」とか、情報の言い出しっぺ、優先権を持つ人の存在なんて触れられていないのです。リスペクトはないわけではないのですけど、だからってそのリスペクトって誰かに具体的に向けてどうこうするものでもなくて。。。こんな技術の溢れた時代に、科学者としてリスペクトを集めるには相当の権威が必要になっている気がします。しかも、そんな日本で相当の権威を得るための努力をしてまで科学者になろうという気概を持った人間が現れるでしょうか。日本では科学者を育てる教育は相当に困難な状況(もしくは失敗)していると思われ、残念に感じるいっぽう、だれでもちょっとした技術者になれるような社会になっている点に、なにか漠然とした期待を抱いてしまうのですよ。きっと世の中を技術者が良くしてくれるって。

この、漠然とした期待を漫然といだいてしまっているわたしのような人間には、ダスグプタ先生のようなヨーロッパ風の「科学者」の擁立は、眩しいものにみえます。科学知識生産を日本の教育において目指すならば、やはり教育のなにかを変えないと・・・と日本の教育しか受けたことのない私は思うわけです。いっそ日本の教育は技術知識の伝達による、全員が平等に技術の恩恵を受けるチャンスを作る土台、と言い切ってしまうならば、それはそれですが。そうすると、いつまでもヨーロッパはじめ、他国の科学知識のうえに立脚した技術知識を利用する国、として、科学知識生産分野においては後塵を拝する立場は変わらないのでしょうね・・・。

私は常々周囲の人間にアイディアを出せ、と言っています。私自身は、これは技術を使えとか技術知識をだせといっているのではなくて、もっと根幹的なイメージとか理想とかを語れ、と言っているつもりなのですが、なかなか通じません。この通じないもやもやしたもの、それは科学者基質を理解している人が少ないことに関係あるのかもしれない、と思ったりしました。(ちょっと考え過ぎかもしれませんが)

「ヨーロッパが啓蒙の時代に成し遂げたことは、認識論における1つの革命という程度のものではなく、もっと画期的なものであった。それをやりとげたところは他に存在しなかったからである。そのときに作られた制度によって、知識の生産、普及、利用 -- 実質的には知識産業全体 -- を、少数のエリートから一般の人々へ移転することが可能になった。そしてこの移転によって、分析や経験に基づいて論理を組み立てる方法が研ぎ澄まされ、日常的に使われるようになった。」(p.124 l.5)と件の章を締めくくっているダスグプタ先生の言葉を真に受けると、ヨーロッパ人は誰でもこのような基質をもっているのであろう。そんな人たちに、私みたいに感覚でしゃべる人間が話を聞いてもらえるわけがない。ヨーロッパと日本の着眼点(背景として自分の受けてきた教育で形作られた自分自身の思考スタイルを含む)を、恨むとも果たしてどうすればよいものか、違いを知ったことによって打ちのめされるばかりであります。

#読書の秋 #エンジニアでよかったこと



皆さんのサポートで、このアカウントの後ろにいるメンバー1人1人がハッピーな気持ちになります(∩´∀`)∩ どんな人がいるの?→https://www.osintech.net/vision-culture