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村上春樹が『カラマーゾフの兄弟』を語るとき

『カラマーゾフの兄弟』について、私には苦い思い出がある。

それはずっと以前、
ある人から本を借りていた頃のことだ。


最初に借りたのは高村光太郎の詩集で、
その詩集に深く感動した私は、返すとき、率直な感想を伝えた。
その後、その人は何冊かの本を「おすすめ」として私に貸してくれて、
その最後が『カラマーゾフの兄弟』だった。


それは2冊のハードカバーで、
両手で抱えなければ持てないほどに重かった。
渡されたとき、冷や汗が脇の下を流れ落ちたのを、今でも憶えている。

その頃の私は忙しかった。一年前に母が他界し、勉強のほかに家事の一端も担っていたのだから。
「私には重すぎます」と言って返せばよかったのに、と思う。

それでもその重厚な2冊の本を断らなかったのは、
私なりの意地だったのだろう。

よく分からないながらも読み続け
そして、2か月くらいで読了した。
(何故そこ迄読み続けることが出来たのか、
不思議だ)。

記憶に残っているのは、
毎日読んでもいつまでもページ数が減っていかないもどかしさと、苦しさと、
下巻を読み終えた時の解放感
ただそれだけだ。

本を返すとき、どんなコメントを付けたのか、或いは何も言わずに返したか
それも憶えていない。その人はそのあと、すぐに転勤してしまったし、その後会うこともなかった。



村上春樹の翻訳本は「訳者あとがき」がけっこうな長文であることが多い。
それは彼自身の、原作への思い入れの深さからくるものなのだろうけれど。

例えばチャンドラーの『ロング・グッドバイ』のあとがきで、彼はまるで少年のように生き生きと、語り尽くせぬほどに語っている。長文だけれど本文と同じくらいに、あるいはそれ以上に面白い。
村上春樹は翻訳を楽しんでいる。
そのせいか、ときどき凄いことを語ったりもする。

世の中には二種類の人間がいる。『カラマーゾフの兄弟』を読破したことのある人と、読破したことのない人だ。
『ペット・サウンズ』あとがき

この一文を初めて読んだとき、私は胸をチクリと何かで刺された様な、小さな痛みを覚えた。
彼が『カラマーゾフの兄弟』について、その熱き思いを語るのは以前から他の場所でも目にしてきたけれど。

私は「読んだことはあるけれど「読破したことのない人」だ。


村上春樹の作品を私は20年以上読み続けているし、『1Q84』以降の新刊はすべて発売日に書店に並び、奥付で初刊本であることを確かめてから買い求めている。

『村上春樹は癖になる』という本を読んだことがあるけれど、
私はその本のタイトルそのままなのかもしれない。 つまりファン。


だから、
村上春樹の言葉はスルー出来ない。
いつか「読破したことのある人」になりたい、と思っていた。


亀山郁夫著『新カラマ-―ゾフの兄弟』

村上春樹の言葉に触発され、いつか「読破したことのある人」になりたいと願っていた私は、図書館の蔵書検索でこの本を見つけてしまう。
原作から逃げようとする心がそうさせたのか、
『新』に惹かれたのか、
何気なしに予約ボタンをクリックしていた。
すぐ下の行には原卓也訳ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』が在ったというのに。

図書館でその本を受け取った。
亀山郁夫著
『新カラマ-―ゾフの兄弟』。
上下巻2冊のハードカバー

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分厚い! 
重い!
一瞬遠い日の苦い思い出が過った。

上下巻合わせて約1400ページ。
その圧倒的なボリュームに気持ちが萎えてしまうが、ページを開くと文字数はさほどでもなく、スカスカの箇所もある。文章も平坦で読みやすい。

舞台はなんと1995年の東京で、オウムらしき宗教団体が出てきたりする。
読んでいくうちに気づいたのは、遠い昔に読んだ原作の内容が、ところどころ蘇ってくることで、『新』と原作を対比させている自分に驚くこともあった。
半ば義務的に読んでいたとばかり思っていたのに。


亀山郁夫著『新カラマーゾフの兄弟』は、ドストエフスキー作の土台に乗った、まったく別の物語だった。
読みやすいけれど、途中、混乱する場面もあり、よく分からないところもあった。
長大な小説なのにこれと言った感慨もなく、ただただ長い物語だったな、という感想と共に読了した。

図書館に本を返却した後、村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』を手に取り、第一部『泥棒かささぎ編』を読んだ。長い長編(?)の、プロローグで、何度読んでも飽きることがない。やがて物語は深い森に入り、読む者はその森を抜けるために、いくつかの壁を乗り越えなければならない。目を背けることのできない苦しみもまた。
私はこれまでに二度、その壁を乗り越え、深い森を抜け出たことがある。


今はこんな風に言ってみたい。


世の中には2種類の人間がいる。『ねじまき鳥クロニクル』を読破したことのある人と、読破したことのない人だ。


ドストエフスキー作『カラマーゾフの兄弟』は、いつか読もうと思う。
「読破したことのある人」になりたい、ただそれだけでなく。