オリーブになっちゃう

シャワーを浴びているときに、気づいた。これはなんだろう?

右の足の付け根にぽっこりとできものがあった。色は浅黒く、触るとどこかこりこりとしている。内側に膿があるような気配もない。

からだを濯ぎ、脱衣所に立って、メッセージアプリをいじりながら、化粧水をほどこしていく。最近めっきり肌の調子がいい。ヘアオイルを塗って、ドライヤーを傾ける。スマホの検索欄に、「足の付け根 しこり」と入力すると、そこは鼠蹊部と呼ぶらしい、変な名前だ。調べている人が多いのか、予測変換がすいと現れ、すぐに目当ての「医師が教える〜」と謳うページを見つけた。すっすと指を動かす。すっす、すっす。

気づくと涙がぽろぽろ流れ、なのに髪の毛はしっかり乾いて、リビングに立っていた。脳内には先ほどみた病名と、検索画面に出てきた子宮のイラストが映し出されている。そういった類の絵をみるといつも、本当にわたしの体の中にあるのかよ、と思う。件の病を説明する図では、三角形の壺のようなものの片方の肢が大きく膨らみ、茶色く彩られていた。卵巣と子宮をつなぐ卵管に炎症が起きて膨れ上がったそれを、チョコレート嚢胞というらしい。甘やかでグロテスクな名前が、神経にまとわりつく。

婦人科は木曜休診のところが多く、明日は近所のクリニックも、職場に一番近い医院も、やすみだった。しかも明朝10時からはオンラインの打ち合わせがあり、診察時間の具合が悪い。諦めよう、と思うのに、指と涙は止まらなくて、会社から一駅離れた小さなクリニックで木曜日も診察しているところを見つけた。オンライン予約のページを開くと、8時30分からの枠だけ「残りひとり」とあり、ほかの時間は埋まっていた。瞬く間に個人情報を入力して、予約完了メールを受け取り、朝6時にアラームをかけてスマホのライトを消す。時刻は深夜2時を回っていた。

わたしは子どもをうめない体なのだろうか。

その可能性は人生のすぐそばに並走していたものなのに、いきなりはっきりと気配を感じさせてきたことに、狼狽える。暗闇で目を閉じ、眠らねば眠らねばと思うほどに、恐怖から心地よくない出がらしの涙が垂れていく。

明日の打ち合わせ相手は、子を持つ女性だ。あの人は子をうめて、わたしはうめない、かもしれない。

わたしのほうが、綺麗なのに。そんなひどいことを、考えた。

眠れないと思ったのに、けたたましいアラームの音で目が覚めた。朝日を浴びながら、白湯を飲み、顔を洗い、軽い朝食をとる。鏡を前に、いつも通りにさらさらと手が動く。普段は塗らないファンデーションを塗り、そのぶんアイシャドーはほとんど塗らず、なのにホワイトのアイラインを引いた。ビューラーをどうしてもしたくなくて、だけどしないではいられなくて、結局まつげをもちあげてインディゴのマスカラを塗る。心のありようを無視し、問題なく働く自分の手と意識に、無性に腹が立った。

扉を開けると、恐れていたような不潔感や噎せた空気はなく、さっぱりとした木目調が優しいクリニックだった。受付に保険証を渡し、かわりに問診票を受け取る。初めて書く婦人科のそれは、記入項目が月経や妊娠にまつわるものばかりだ。

診察室に呼ばれ、たおやかな女性医師が「どうしましたか」と尋ねてくれる。一瞬のうちに緊張がほぐれ、それでも平静を保って、昨日の夜から、と話し出す。調べたら、子宮内膜症の可能性ってでて、それで。ふんふんと聞きながら、医師がマスク越しに口を開く。

「しこりは、子宮内膜症の典型的な症状では、ないです」

慎重な物言いを選ぶ彼女はマスクの下で微笑んでいるようにも、困っているようにも見えた。その眼差しが、固くなっていた心の結び目を、ほろほろと解いていく。それでも一応、とエコー室に通され、不思議な椅子に座らされた。カーテンの世界、知らない痛み、変な映像。医師の声が聞こえる。

「うん、大丈夫、綺麗です」

会計をして、クリニックの扉を閉じる。その瞬間に、涙が出た。ここで泣いていたらよくない、とこらえる。クリニックへの階段には若いカップルがいて、男の子が女の子を労わるように支えていた。道に出てから、目の力を抜く。じわり、と涙がせりあがる。

たった6時間ほどの恐怖だった。でも、こわかった。真っ暗だった。子どもができなかったら、死んでもいいと思った。そこまで思う自分に驚いた。生きている意味を考え、隕石のような絶望と不全感が全身を包み込んで、闇にひきずりこまれるようだった。他人の子を愛す自信を失い、子を持つ人を見る度に心臓を抉られる痛みと闘う未来が見えた。心の弱いわたしがそれに耐えられるとは思わなかった。

これを乗り越えて生きる人が、この世にたくさんいる。

子は授かりものという。授かることは奇跡だ、とも。その一方で、多くの女性にとっての当たり前のマイルストーンとして、出産が存在している(そうでないひとも、もちろんいるけれど)。当たり前にできることとして、女も、男も、子も、親も、社会も、個人も、わたしも、あなたも、感じてしまう。当たり前の奇跡というのはなんとも矛盾していて、実態はどちらなのだろう、と考える。

授かるか、分からないのだ。授かる可能性も、授からない可能性も、ある。若くても、健康でも。授かることは、すごいことだ。

授からないのは、悪いことじゃない。

わたしはそのことをちゃんと理解できたのだろうか。自信はない。少なくともこんな小さな事件に打ちのめされてしまうわたしは、まだ母親にはなれない。そう思った。

クリニックから会社へ向かう道すがら、よたよたと歩いていたら、オリーブの木を見つけた。昔、家で育てていたオリーブは、冬場の水やりを怠ってすっかり枯らしてしまった。つやつやと輝くその葉を見るうちに、小さな実がぽちゃりと成っているのが見えた。オリーブの木に、実がなることはとても珍しいと聞く。しなしなとして、とても食べられたものではなさそうだけれど、でも存在するだけで、それは素晴らしい。

はーあ、ただの、取り越し苦労だった。壮大な勘違い。つかれた。よかった。腹が、減った。

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