鐘を聴くまで

 吐き出すと息が白かった。澄んだ青空のあとは星空がきんと冷える。冬のさまざまな表情が見られた心地になる。
「ほら、ポン。行くよ」
 リードを引いて、チェーンをまたいだ。下を走り抜けるポンを追って、リードを潜らせる。はッはッはッと荒い息に顔をあげると、爛々とした目がこちらを向いていた。柴犬はその形にしか口を開けないとわかっているのに、この犬のそれは笑顔にしか見えない。夏に保健所から迎え入れてから六ヶ月。四歳になる成犬は、随分と緩んだ表情を見せてくれるようになった。
 家の前の遊歩道に人はいなかった。深夜なのだから当然といえば当然だが、昼間の賑やかな街並みに慣れていると、ただそれだけで非日常の世界に迷い込んだ気持ちになる。右にいったり左にいったり、ポンが足を上げてマーキングするところに水をかけながら、遊歩道沿いに進む。オレンジ色のスニーカーが触れる地面の下には、今も川が流れているらしい。その水音が聞こえそうなくらい、街は静かだ。
――あのお寺、犬も入ってよかったっけ。
 思い浮かべながら、コンビニの角を曲がって坂道を上がっていく。ランドセルを背負って駆けていた道には、あのときはなかった白い綺麗な家が建ち、あのときはあった陰気な病院が姿を消していた。「竹中」の表札が見えてくる。母親はここを通るたび、「たけぼうくん、覚えてる?」と話し出す。7つ上の兄の同級生のことは全く知らないけれど、母が話すので覚えてしまった。彼は名門私立高校から一浪して東京大学に進学、商社に就職したけれど激務で帰宅して家の玄関で倒れ込む日々を送っているらしい。
 茶色い三角屋根はパーキングになっていた。開けた視界に寂しさを覚え、なんとなく律儀にまた角を曲がる。すぐに左手に土塀が始まって、遠くにぼんやりとしたオレンジ色の光が見えてきた。
 深い茶色の門扉が口を開けている。
 心を踊らせたら、ぐいっと体が右に引っ張られた。ポンがちょっとした生垣で不恰好に踏ん張っている。彼なりの締めくくりだろうか。その姿を見守り、用意していた袋にものを拾う。どうして犬は、こういうとき、わたしは何も見ていません、とこちらが言うべきことを言っているかのような澄まし顔をするのだろう。
 目の前に佇む小さな寺は実は一七〇〇年代に建立された由緒正しいものらしい。宗派などには詳しくないけれど、地元のお祭りの賑わいを見るにきっと昔からこの地域の中心だったのだと思う。だけどどうしてか、今日この日は、周りに誰の姿もなかった。てっきり、行列でもできているかと思ったのに。
「あ、やっぱり」
 歴史を感じる門扉のすぐそばの、そこだけ現代的な白い看板には、ペット禁止の文字があった。右手に握ったリードの先にはッはッはッと、また楽しそうな息遣いを感じる。お前がいるから入れないよ、とポンの方を振り返る。
 そうしたら、虎がいたのだった。
「わ」
 東京の真ん中、深夜の住宅街に虎がいたら、大騒動だ。だけどそれは太った虎猫だった。中型犬の王道を行くポンと比べても、体格は少し劣る程度。ヨギボーのようなでっぷりとした体は黒と茶の毛が入り混じった虎柄だ。そこに不釣り合いに小ぶりな顔と手足がついている。街頭に照らされて光る猫目には黒い縦線が走り、前足をかろうじて組んで寝る姿は裸の王様の昼寝のようだ。いつもは動物と見るや走り寄って戯れようとするポンも、息を荒くするだけで及び腰になっている。本能的に何か感じるところがあるのだろうか。
 膝を折ったら、ポキ、と音が鳴った。
「君もお参り?」
 深夜の化け猫に声を掛ける。どこか満足げな表情に警戒の色はなく、ゆっくりと手を伸ばしても嫌がる素振りはなかった。眉間から耳、顎へとそっと指を滑らせていく。猫は目を細めて、口角をくいとあげたように見えた。
「そうですねえ、でも入れませんねえ」
 嗄れた太い声に、びくりと肩が震えた。
 少しだけ離れたガードレールのそばに、顎と口元にたっぷりと髭を生やしたおじいさんが立っていた。
「ああ、いえ、すみません」
 釣られて、間延びした声が出た。
 こそばゆさに立ち上がり、ポンのリードを気にかける素振りをしながら、その人を盗み見る。着ている赤いちゃんちゃんこのせいでシルエットはサンタのオフシーズンのようだけれど、髭は黒々としていた。中に黒いタートルネックセーターを着ているらしく、豊かな顎鬚と一体化している。茶色いスウェットパンツを履いて、右手には太い杖を、左手には巾着を持っていた。深い皺がたくさん刻まれた目元とは対照的に、身につけているものにはほとんど皺が寄っておらず、清潔感がある。そのせいでいまいち状況に怪しさを感じられず、こちらも言葉を紡いでしまう。
「ペット、入れないんですね」
「仏教の世界では動物は穢れと言われますからねえ」
 ゴロロロロロ。化け虎猫の喉が鳴った。体躯に似合わず、その音は優しげで心地よい。おじいさんは猫に近寄って片膝をたて、耳の付け根をじんわりと撫でた。肉に食い込んでいて気づかなかったけれど、首元にはきちんと首輪がある。おじいさんの飼い猫なのだろうか。
「入りますか」
 こちらに目を向けずに、おじいさんが言った。まるでもう約束してあった事柄かのように、提案というよりは確認という声色だった。
「それは流石に。今日は特別だめでしょう」
「今日だから、いいんじゃないですか」
 ねえ、とおじいさんは猫の眉間にどんどん指をめりこませる。顔にも肉がついていたのか、彼の皺だらけの親指が茶と黒の混じった毛の海に消えてすっかり見えなくなった。満足したのか、おじいさんが立ち上がってようやくこちらをみた。頭一つ大きくても、不思議と威圧感はない。それはきっと、悪戯をする少年みたいな目をしていたからだ。
「実は私は、この寺の関係者なんですよ」
 嘘か本当か甚だ怪しい言葉を耳にして、気づくとおじいさんの背中に続き門の内側に続く石畳を進んでいた。粗相をするとまずいのでポンのリードは短く持っておいたけれど、気圧されているのか紐は緩んだまま、ぴたりと足元に寄り添っている。
 深夜にこのお寺に来たことがあっただろうか。高校生の頃、早朝の走り込みで入ったことはあったかもしれない。今と同じように、Tの字の短辺の右側から入って、交差地点の本堂を参拝した。家からまっすぐここに向かうと、表の参道よりもこちらの東門から入ることになる。行ったことはないけれど、Tの字の短辺の反対側には雑木林が続いているらしい。
「ここのお寺がどんなものを祀っているか、知っていますか」
 前方を歩くおじいさんが後手のまま、尋ねてきた。手に持っている杖は一体いつ使うのだろう。先が三又に分かれた、変わった形の杖だ。
「確か、毘沙門天、ですよね」
「そうです。若いのによくご存知だ」
「小学生の頃、地域研究の授業で調べたんです。住職さんにお話を聞いたりしました。毘沙門天っていう音の響きがかっこよくて、たくさん質問した記憶があります」
 おじいさんはうれしそうに、ふぉっふぉっふぉと声に出して笑った。横顔が見えて、皺に埋もれて目がなくなってしまっている。後手の巾着と杖がぶつかって、カタカタと音が鳴った。
「では毘沙門天がどんなものかも知っていますか」
「いや、そこまでは……七福神の一人なのは覚えてますけど」
 たった七人しかいないのに、毘沙門天の絵を見ても当時はしっくりこなかった。そもそも七福神なんて、ベールを纏った弁財天くらいしかわからない。あとは太ったおじいさんが何人か並んでいる程度。
「毘沙門天というのは元々ヒンドゥー教の神様でした。福徳と財宝を司る神で、修行を積んで北方を守るようになった。仏教でも、北方を守る、金運の神として知られます」
 朗々と語るおじいさんの声には不思議な迫力があった。冷えた外気を押しのけて、耳に届く。
「お詳しいんですね」
「ここの寺の者ですから」
「ああ、そうでしたっけ」
 あながちそれも嘘ではないのかもしれない。虎猫も慣れ切った表情でおじいさんの横を歩いている。
「多くの彫像で、彼は槍と宝塔を持ち、甲冑を着ています。かつては暗黒の世界の悪霊の主で、神々の世界において色々な戦いを生き抜いてきたことから、病気を薙ぎ払う無病息災の神、戦いにおける勝利の武神といった信仰を持つひともいます。七福神の中には恵比須天さんや大黒天さんのように丸々とした人が多いから、毘沙門天は“強さ”や“厳しさ”の象徴のような役どころですね」
「役どころ」
 変わった表現がおかしくて繰り返す。するとおじいさんは大真面目な様子で、くるりとこちらを振り返った。足元の砂利が音を立てる。
「そりゃあ役作りも必要でしょう。布袋尊さんたちが溶けてしまいそうな笑顔のときも、毘沙門天はどこか凛々しい顔をしなくてはいけません。パワー担当だから、みんなが笑っているときも気を引き締めて憤怒の表情を浮かべるんです。毘沙門天にだってふにゃふにゃの笑みを湛えたい時があったと思いますよ。まあでも、それでは格好がつきませんからね。寅年、寅日、寅の刻生まれだなんて、誕生の瞬間まで役に徹しています。おかげで神使は虎一択です」
 おじいさんはふう、と息をつきまた歩を進める。饒舌な後ろ姿に、若い頃は友達が多かっただろうな、などと考える。
「毘沙門天もキャラ作りに腐心していたんですね」
「戦いの神ですからね。弱そうだとよくない。学業成就なんかも任されているから、あまりヘラヘラもできません」
「さっきからどんどんご利益の幅が広がっていきますね」
「名声がいろんなところに聞かれるから、多聞天と呼ばれることもある。楠木正成の幼名の多聞丸は、毘沙門天からとったそうです」
「すごい、テストに出そう」
 気づくと本堂までたどり着いていた。ポンを連れてきてよかったのかと今更心配になるが、大人しく座り込み、悪さをする様子はない。化け猫に圧倒されて、明らかに下手に回っているようだ。
 おじいさんは閉じられた木の扉の奥を見透かすように、じっと本堂を見つめている。
 そっと横に並んだ。
 左右は二十メートルほどもあって、シナモン色の柱が錆びた緑の屋根を支えている。向拝に立つと、同じようにここに立ってきた数多のひとたちと一体化したような気持ちになった。たくさんの時代、たくさんの思いを胸に、お参りに来た人々の記憶。それらが、ひんやりとした温もりのある柱から染み出している。
「いいお寺ですよね」
 前を向いたまま、言葉が出た。
――御利益に、安産祈願はないのかな。
 心の中でつぶやくと、おじいさんがこちらに顔を向けたのを感じた。じりじりと見据えられている。だけど振り返っていないのに、どうしてそうとわかるのだろう。細いと思ったはずの目が徐々に開かれ、隠れていた瞳が顔を出す。薄い茶色の中で、黒々とした瞳孔が獲物を定めるように妖しい光を宿し、大きさを増していく。眉間に力が入り、口元が描いていた孤は上下を逆さまに、髪と髭は逆立って――。
 息をするのを、忘れた。
「さあ、そろそろですかね」
 気の抜けた声に、ハッと体を覆う氷が溶けた。振り返ると、おじいさんはしゃがみこんで虎猫をがしがしと乱暴に撫でている。今のは、なんだろう。立ったまま、金縛りにあったような。気のせいかと思ったけれど、スウェットの中に着込んだインナーにはしっとりと汗をかいている。
 足元のポンが心配そうにこちらを見上げていた。頭に手を乗せると、安心したように目を細める。黒い鼻先が湿っていた。そのまま背中の方に手のひらを滑らせた。
 ぼおおーーーーん。
「あ」
「除夜の鐘、始まりましたね」
 二人して、音のする方に顔を向けた。
「煩悩の数だけ音を鳴らせばいいだなんて、ちょっと面白いですよね」
「鐘をつくことで安心したいんでしょうねえ」
 賛同するように、あるいは急かすように、猫がにゃあと鳴いた。おじいさんはまた猫を撫で始める。
「さあまた一年が始まります。わたしは今年、忙しくなりそうです。あなたも、他人の心配ばかりしていないで、自分の健康を大事に一年を過ごしなさい」
 おじいさんは立ち上がって、猫に目を向けたまま、そう言った。ゆっくりと雑木林の方に歩いていく。追いかけては行かない。
 数メートルほどいったところで、おじいさんはくるりと振り返った。その顔はハッとするほど、凛々しかった。眉がそそり立ち、唇を思い切り引いている。手のひらに巾着を載せ、杖を地面に垂直に突き刺した。そして次の瞬間には好好爺のふにゃふにゃの笑顔に戻る。
「自分と共にいなさい」
 直後の猫の鳴き声は、まるで本物の虎みたいに野太かった。

「ひろや! どこ行ってたの!」
 家に帰ってポンを軒先のハウスに繋いでいると、母親が縁側から大声を出した。
「ポンの散歩でもしようかなって」
「もう! 大事な時に! いいから、電話!」
 目元を濡らした母が差し出すスマホは煌々と光って、「雄大」の文字を映している。
「もしもし、兄ちゃん」
「ひろやぁ」
 文字通りの涙声だった。本当に泣いているのかもしれない。
「赤ちゃん、産まれたよ」
「え、まじ」
「産まれたんだよー」
 兄はそこから子が誕生するまでの苦労話をぐずぐずと語り出した。年の瀬の病院は落ち着かなかったこと、妻の麻美の子宮口がなかなか開かなかったこと、意味もわからず彼女のお尻にテニスボールをあてがって応援したこと、雄叫びが怖くて自分まで声を出してしまい看護師に叱られたこと。つい数時間前、年越し蕎麦を食べた後の電話で聞いた内容とほとんど一緒だったけど、深い混乱と疲弊を、黄色い達成感と高揚感が覆っている。
「麻美さんは大丈夫なの」
「顔真っ白だけど、特に心配はないらしい」
「血圧上がったとき、俺けっこう怖かったよ。本当に誰か死んじゃうんじゃないかって」
「嘘だ、お前全然そんな感じじゃなかったぞ」
「何年(なにどし)になるの」
「え?」
「ほら、年の瀬だったから。丑? 寅?」
「ああ、えっと、産まれたのは〇時三分だから、ギリギリ寅年だな」
「そう」
 頭の中で虎柄の巨体な残像が揺れる。おじいさんの槍と宝塔も。
「安産も叶えてくれるんだな」
「なんて?」
「なんでもない。赤ちゃんの名前は? 決めたの?」
「いや、まだ。麻美といくつか候補作ってあるから、そこから決めるよ」
「多聞とか、どう。楠木正成とお揃いだけど」
「は?」
 何いってんのよ、とすぐそばにくっついている母に小突かれる。いつもより随分と距離が近い。やっぱり初孫って、うれしいものなのか。
「とにかく、よかった、兄ちゃん」
「おう、よかった」
「よかったねえ」
 よかった。川向かいにいたふたり同士がきちんと手を取り合い、こちらにやってきた。麻美さんがみんなを代表して、流れに身を投げ、そして戻ってきてくれたのだ。何もできずにほとりで見守ることしかできないのは、歯痒く、何より怖かった。
「兄ちゃん、母さん」
 心の中で、おじいさんと化け猫を加える。
「あけまして、おめでとう」
 うん、おめでとう、おやすみ。声を掛け合って、通話を切った。

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