『読書論、書き方論を論じる必要って?』
オレは、一労働者。学も知識も無い。感性と体力だけで日々決断、勝負している階級層である。そんなオレがたまには難しいことを言ってみたいし、発言もしたい。で、当然、世間様から見たら、読書なんてしてなさそう。そういう輩の一人。うん、ほとんど最近本を読まない。どちらかというと目の前にマンガがあったら、そちらを手にして没頭する。で、今は自分の書き物が他人の著書を読むことより、遥かに楽しいし、面白い。自分の書き物が素晴らしいのです!って言っているのではない。音楽や料理を受け身で堪能するのではなく、自分で奏で、調理する方が楽しいと感じる人も沢山いる。そういう感覚に近いかもしれない。と言いたいだけ。
そんな労働者階層の自分にとって、まず蔵書数や読書量や読書のスピードを自慢してくる人たちの感覚が良く解らない。確かに本を読めば、他人の体験を追体験出来るのだから、質量を伴う読書体験をしている人たちは、一見知的で経験豊富な人、と同義に扱われがちなのだろうか?noteを初めて間もないけど、他人の書いた記事の量、だけじゃなく、他人の読んだ本の量、に関する記事が多い、多すぎると思う。「積ん読」って言葉の存在とか、「本の要約サイト」って言葉も気になるな。で、そういう話がハウツーnote物に繋がるのだか、noteの構造をかいつまんで説明して貰えるだけなら、初心者の自分も分かりやすいし良いのだけど。決まり事が嫌いな自分は、文章書くのにそこまで血の滲むような努力は必要?って思ったりもすることもある。
結論に近い事を言いたい。「本の要約サイト」の読書したって、それはもはや読書じゃあないじゃない?その一冊を堪能する行為では無いじゃない?「積ん読」って言葉からは、本を読みきれない罪悪、劣等感を抱く人たちが多いのだな、という印象を受ける。昔はこんな言葉は無かったはず。読書から学びがなければならないという前提で存在する言葉である。何で人ってそんなに書物から勉強していたいんだろう?
で、「追体験」は「追体験」に過ぎない。ハードボイルドを読んだから、勇者になったり、推理小説を読んだからって、探偵になったりしないだろ?自分にとっての良書に出会うと楽しいよ。けど、楽しい、それだけ。たかだか読書が自分の血肉に成るわけないじゃない?
確かにね、今オレは四十代後半なんだけど、子供の頃から沢山本を読めば頭が良くなる、って圧力を教育関係者から受けてきた記憶がある。けどね、夏目漱石の『こころ』も開高健の『オーパ!』も『北斗の拳』も同等に面白かったけどな。
自分の生涯で一番夢中で読んだのは、高校生の頃読んだ、船戸与一の『猛き方舟』だった。その船戸先生は、『ゴルゴ13』の原作も書いている。
だから、本なら賢くなれて、マンガならダメです、って感覚が解らない。本当に面白い一冊にある時出会ってしまうとしよう。オレの場合、その時の感覚が貴重に感じられて、基本、本は一回読んで終わり、としている。同じ本の二番煎じが面白い訳無いじゃない。読後の印象、感傷が読者にとっての宝だろ?即座に繰り返して、二回読むと記憶に定着化しやすい、らしい。その二回読みが学習参考書なら解るけど。それが啓発本でもオレはやらない。人の言葉が丸々自分の言葉になる訳がない。自分の体験を通して啓発本の言葉と同じ言葉がシンクロした。その時にしか啓発本の言葉は自分の言葉になっていない。啓発本も人の考えだもの。人の気持ちの根本までを100%理解する事が不可能なのと同じ。血肉にしようとしても出来るわけがない。すると啓発本は、参考に留め、著者の考えに感嘆する、で終わりだろ。
果たして読後の感動や感傷は、覚えておくためのものなのか?感動を記憶に刻んで置くために、また読むのか?綺麗な記憶は、キレイに風化させたいから、オレは読書は基本一回切りにしたい。読後の感傷は、本の中ではなく、自分の心の記憶の中だけで十分だと思う。
オレは思うのだよ。もしね、自分の「感覚」や「感性」に響くものを書物を通して、味わいたい、書きたいのなら、料理や音楽のように楽しみなよって。調理して、味わって、消化して、終わりだよ。その後感じたものが自分の糧になったかどうかを考えるなんて、無粋じゃない?読書だって、刹那的でいいじゃない。書物を読んで賢くなれる、なりたいって、発想事体がダサすぎるって気付けよな。年間500冊を達成したとか、世間に賢者であるように思われがちな職種の人は言うけれど、労働者でクリエイターの俺からしたら、知的になりたいって目的からそれた、ただの数値データしか印象に残らない。500冊切り!=賢い!って印籠が欲しいだけだろ。安い価値感だよ。書物読んで賢くなるのは、研究者や受験生だけで良いと思う。で、昔ギリシャ哲学の本で読んだけど、学問は娯楽から産まれたと記されていた。人類の研究、努力の賜物=知的好奇心を満たす、娯楽だよ。娯楽が学問の礎だから、刹那的に、本は一回だけで良いって訳じゃないけど。
そして書き方だって、刹那的で良いじゃない。思ったこと、考えたことを紙面に落とすだけの作業で良いじゃない。子供の絵や作文やポエムが訴える力が強かったりすることがある。全てをアートに捉えたい、訳じゃないよ。オレは。「取り扱い説明書」など、生活に必要な文章もある。人にきちんと論理だてて説明するには、文章に起承転結も必要になる。ただ、ベンチャー企業を興したの俺様の、偉い言葉を人に配っといて、更に著作で儲けちゃおう、的な、打算的な物って、書き物に限らず鼻につくよね。自意識の強すぎるアーティストほど痛々しく見えるものはないよ。俺みたいな素面の労働者にしてみれば。
オレは読書家じゃないし、労働者だし、読書スピードや読書量が気になる人たちみたいな知識階層ではない。オレの生涯読書量は、マンガを読んだ量と比較したら知れている。けれどね、オレは、書くこと(アウトプット)が大好きなんだよ。それこそやたらと、読書量や読書スピード、蔵書の量、投稿の数、フォロワー数を論じたがるタイプの人たちにはつまらん文章かもしれないが。それでもオレは、オレの書き物が一番面白いし、好きだわ。自分で自分が一番好きな料理を作るのと一緒だ。
読むことと書くことには、自分の場合、全く因果関係は感じられない、としておく。そこに因果関係を見いだそうとすると、「盗用」という言葉が脳裏にちらつくがその行為自体は否定はしない。俺も日常生活の中で、流行しているJk語を使うもの。ただね読んだものを咀嚼反芻して、自分の考えに置き換えて物を書くなんて、至難の技だよ。だから書くことは、読むことにより鍛えられるとか、あえて思わない。それに日々の生活の中で、誰でもたくさん人の言葉、言霊を拾うでしょ。それをボイスレコーダーで拾って文字に掘り起こしたら、立派な文章だよ。話が面白い人は、物語を作れるよね。書くために知識を増やしたいとは思うだろうし、参考文献も開くことだろう。専門性の高い分野となるととことん関連する書物を読んで調べまくるだろう。本を書くために読む人たちは、蔵書の量や読書スピードを自慢する人たちとは目的が違うからね。しかし自分の持っている感性だけで、日常を書くだけならば、書くために読むのも、ほどほどでいいんじゃないだろうか。誰でもそうだろうけど、専門性の高い分野にいる人の声より、隣人の、市井の人びとの言葉が気になるし、心に響くことはあるよね。
オレも「読書や書き方の事を論じる」なんてこれっきりだ。無粋だから。読書=叡知って圧が強すぎると、今から何かを書きたい、って人の勇気を挫くかもしれないよね。書くという行為にステップや段階を踏む必要はない。というより、今既に、色んな形式の書き物がこの世には存在するわけだし。実はそんな大層なものばかりではないし、書き物って。別に賢くなくても実は表現活動は出来るし。
大江健三郎さんも言っている。誰でも生きている間に小説を書きたくなる。
物語なんて、誰でも書けるって。
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