紫陽花

ランダムな日記など。https://rukoso.hatenablog.jp/

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誰かの頭の中で鳴るノイズにはなりたくない

某年7月28日  毎日目にするベランダの植物は、毎日目にしているのに日によって違って見える。その日晴れているか雨かでは明らかに違う。けれど、晴れ続きの日に違って見えると、私は自分の中で何かが起こっているとしか思えない。植物は眩しい輝きを放って空に向かって伸びている日もあれば、今にもぽっきりと折れてしまいそうに頭をもたげている日もある。植物は日々、私の心の様子を如実に表している。彼らはきっと芸術家で、私に鑑賞されることをいつも心待ちにしているみたい。  植物は優しい。自身の

    • 愛の気配

       愛という言葉が氾濫していて、「愛」を見聞きしない日はない。貴方も私も愛については考えていて、それでも実態は分からずじまい。確信をもって言う者が現れれば胡散臭さを伴って宗教じみてくるし、論理を突き詰めれば哲学として成り立つものの、実感とはまた別の乖離した何かであるという感触になる。私達は愛の気配を感じながら、欲望に身を投じてはこの気持ちはなんだろうと夜の空に漂って、星々に口づけを交わしている。たとえ人を想う気持ちが肌に触れたいという欲望によるものであったとしても、そのすべてを

      • 「余計なお世話」をするバランス、何もしないバランス

         最近、自覚している変化がある。他者に対してどのような働きかけをするかということについてだ。例えば困っている人を助けるとか、助けないとか、良くないかもしれない方へ向かう人に対して、何かアクションを起こすのか起こさないのかということ。  多分昔は、うざいと思われてもいいから言葉をかけようとか何かしようと思うことが多かった。しかし、今は、相手の力量(内在的な力や成長速度)を見てそれに委ねてみるといったことを結構やっている。この人はいずれ自分自身で気づくだろう、というわけであえて

        • 戦争の記録から僕たちはなにを学ぶべきか

           2021年8月9日、11時2分。僕は黙祷を捧げる。長崎に生まれてこの方、この日のこの時間、欠かさないように行ってきた習慣である。1分間の黙祷のさなか、僕はさまざまなことを考えた。いまから76年前の1945年8月9日、11時2分、長崎の町に原子爆弾が投下された。  良く晴れた暑い日だったらしい。いまと変わらずセミが鳴いていただろう。いまと変わらず夏らしい澄み切った空気の中で、山の裾野が照り返し輝いていただろう。田には蛙が鳴き、萌えいずる樹木の新芽がみずみずしくその肌を日にさ

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        誰かの頭の中で鳴るノイズにはなりたくない

          「記憶」

          眩い日差しの下、草花をキャンバスに描いた幼い君は その光景が脳裏に焼きつき、何十年と反芻することになるとは露程も思わなかっただろう おぼつかない心のままにみんなと歌ったあの日も もう二度とやってこない輝かしき日だとは自覚していなかっただろう 苦しみを押し殺し、歯を食いしばりながら通ったあの道は今も変わらず 君に帰る場所を与えてくれた 日中閉めきられた校門の向こうは明るく 音楽室の子どもたちの歌声も グラウンドで弾ける笑い声も遠く聞こえて 甦らない日々を知り 積み重なった

          「記憶」

          プレゼントを忘れてくる

          某年9月14日。  友達の誕生日祝いということで一緒にランチに行く。が、しかしプレゼントを忘れてくる。我ながらどういう神経をしているのか分からない。彼女の家の通り道に私の家があるので、とりあえず大丈夫と思うことにする。  情報に過敏になっていると、いろんな刺激が辛く感じる。今日は車の通るのがやや気になるくらいだから多分大丈夫。先日はつらすぎてギブアップした。会食恐怖的なものは少しあるけど、気にしちゃいけない。  気付いたら蚊がいて、すでに刺された後だった。ここにも蚊はい

          プレゼントを忘れてくる

          山でひたすらノコギリを使ってノコノコしていた。

          某年2月21日  受容とあきらめは同居することがあり得るのだろうか。私は言葉を飲み込んで押し黙るつもりである。忠告や助言が成り立たない場面ではそうやって黙ることしかできない。しかし、全くの沈黙では心許ないため、自分の生き方を一つの道として示す。心の中で別れを告げる。今までありがとう。そして、さようなら。  今日は木を切った。伐採である。山でひたすらノコギリを使ってノコノコしていた。伐採を経験する女。……あまりその辺にいる気がしない。  急に長崎へ行くと決まったものだから

          山でひたすらノコギリを使ってノコノコしていた。

          「細部に宿るのね、神」と思いながら音楽を聴いていたり、本を読んでいたりする。

          某年2月15日。  自分は熱心な仏教徒ではないのだけれど、他宗教の良さを力説されればされるほど、仏教に立ち返ってしまうのだった。おそらくそれは理屈として仏教が良いと判断しているのではなく、自分がそのような地盤、文化圏で生きてきたからだと思う。文化として一宗教の教えを大事にしたい、守りたいと願っているのだろう。  しかし、異なる宗教について力説されると物悲しくなるのはなぜだろう。人と人との分かり合えなさは、すでに感じていたことなのに、なぜか断絶を強調されているように思えてし

          「細部に宿るのね、神」と思いながら音楽を聴いていたり、本を読んでいたりする。

          疲れやすい日々

          某年8月22日。  ……伸びている。  母と朝からはりきって散歩してきた。歩数的には7000歩程度なのに汗をたくさんかいたし、なんだかくたびれた。日を浴びたり、車が多く通る道を歩いたりすると余計にストレスのかかる感触がある。  そうして帰宅してシャワーを浴びると、母が手際良くざるそばをつくっていた。薬味もたくさんある。ただ、炭水化物オンリーだなあと思い、栄養のなさに不安を覚えた。実際食べると、やっぱり物足りないなあなどと感じたけれど、食べたいものが他にあるわけではなかったの

          疲れやすい日々

          音楽を何かに喩えてみる

           音楽の定義にもよるのでどういう定義のもと喩えているかを記しながら書いてみます。その前に音楽とはどういうものなのか簡単に定義すると、まず、広義では音を材料とし、音の性質を組み合わせ、時間の流れの中で構築されているものとしておきます。狭義ではリズム、メロディー、ハーモニーの三要素によって規範構築され、作曲、演奏、鑑賞の三者によって成立し、情感を喚起するものとしておきます。そして音楽は、認知のしやすさによって好ましい音(協和音)とそうでない音(不協和音)が存在することを留意してお

          音楽を何かに喩えてみる

          サウンドオブジェとしてのルーブ・ゴールドバーグ・マシンの機能、その音景観

           神戸市の神戸ハーバーランド;キャナルガーデンにはボールマシン(愛称「ディンドン」)が設置されている。ジョージ・ローズ(George Rhoads)が制作したもので、彼は多くの作品を様々な場所に残している。ルーブ・ゴールドバーグ・マシンはいわゆるピタゴラ装置(スイッチ)であるが、ボールマシンは中でもボールの運動に限定したピタゴラ装置であると解釈できる。  外観はかなり人工的、機械的な印象を受ける。あるいは色合いや上部にある形状からカンディンスキーの抽象画を想起させるような様相

          サウンドオブジェとしてのルーブ・ゴールドバーグ・マシンの機能、その音景観

          「ブログやツイッターで人様の私生活を覗き見ている趣味の悪い私」

           切実なものとして受け取る分には構わないと思うのだけれど、きっと私は山もオチもないフィクションとしてそれらを眺めている。何を感じるわけでもなく冷めた目で文字を辿る。こんな人生の形もあるんだなあなんて、あり得なかった可能性を考えて、空想に耽る。  人が生きていることの不思議は、矮小な私を超えて存在している。その人がその人として生きているということ……。私にはそのどれもが輝いて見えると同時に、そんな簡単にその人の一部を不特定多数の人間に見せていいものなのか、切実に生きている人の生

          「ブログやツイッターで人様の私生活を覗き見ている趣味の悪い私」

          愛された日々は消えない

          某年1月14日。 最近夢見が悪い感触がある。 私の夢はいつも学生で、いつもなかなか授業が受けられない夢。 教室に辿り着けない夢。 でも今日はホームルーム的なことをしていた。 ちなみに昨日はみんなでアルトリコーダーを使い、「白日」を吹いていた。 多分発表会みたいな感じだった。 「今」が少し混ざり込んでいる。 学生の夢はいつも苦しくて、でもどこか甘美だ。 甘い色彩感と守られた世界の中で痛々しいほどの新鮮さを全身で受け止めている。 まさか鈍麻するなんて思ってもみなかった。 まさ

          愛された日々は消えない

          「ビロードに浮かぶ雫」は、「とりとめのない話」に触発されてできた話で、文体や内容をかなり寄せているので一緒に読むと面白いんじゃないかなと思います。

          「ビロードに浮かぶ雫」は、「とりとめのない話」に触発されてできた話で、文体や内容をかなり寄せているので一緒に読むと面白いんじゃないかなと思います。

          とりとめのない話Ⅲ

           19時30分。逃げるように降機した僕は、薬院大通のホテル群に向かうべく、地下鉄空港線の改札を通っていました。55分発の電車を待つ間、フライトの無事を彼女に連絡をしようと携帯を取り出します。すると僕は、電源を切ったスマートフォン画面の黒さに驚嘆するのでした。真夜中の空でもここまで黒くはありません。色彩の欠如としての黒と、色彩の飽和による黒。いったいどちらの黒がより黒いのでしょう。黒色と闇は別のものなのかもしれない。きっと黒は異世界へと繋がる色なのです。とするとそこに、数匹の赤

          とりとめのない話Ⅲ

          とりとめのない話Ⅱ

           18時10分。クロワッサンの群れのような雲の階層を抜け、銀色の機体は虹色の宙に浮かんでいる。これが人々の憧れる「空の外の世界」か。と言えども、僕はまだ空を見上げることができます。そこに黒色の蓋がある。大きい中華鍋みたいなこの世界に、黒く涯のない蓋が被せられている。蓋は回転しながら徐々にスライドし、いよいよ暗闇を引き連れてき、虹色を侵食し始めている。  ああ、完全に閉じてしまう……。銀色に輝く無機質な鱗を光らせながら、魚は巨体を滑らせます。外へ……外へ……と泳ぐのです。蓋の

          とりとめのない話Ⅱ