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「余計なお世話」をするバランス、何もしないバランス

 最近、自覚している変化がある。他者に対してどのような働きかけをするかということについてだ。例えば困っている人を助けるとか、助けないとか、良くないかもしれない方へ向かう人に対して、何かアクションを起こすのか起こさないのかということ。

 多分昔は、うざいと思われてもいいから言葉をかけようとか何かしようと思うことが多かった。しかし、今は、相手の力量(内在的な力や成長速度)を見てそれに委ねてみるといったことを結構やっている。この人はいずれ自分自身で気づくだろう、というわけであえて言葉にしない。私がめちゃくちゃ変化したわけではない。今でも私はうざいと思われてもいいと思っているし、手を差し伸べられる余力があれば声をかける。ただ、その方法として「何か意見する」のでは十分に伝えられないことが分かってきたからしないのだ。特に生きづらさのように本人が具体的に把握できずに曖昧な苦痛として抱えているものに対してあれこれ語りかけるのは、その人を傷つける可能性が高い上に拒絶されうる。表現としてなんだかいやらしいので自らこう言うことを躊躇するけど、私はその人を信じているからこそ何もしないんだとも言える。

 伝えることを諦めてしまったわけではなく、表現の仕方、伝え方をよりよくしていこうと考えているからこそ時に言わないことを選択するのだ。他者に何か意見することは、どんなに他者を慮った意見であってもすること自体がもう「余計なお世話」だと思う。ツイッターのリプライをする時は思い上がった振る舞いをする自覚をもった上でするし、会話において相槌以外の発言をするときも大体そういう感覚がある。世話を焼き続けるわけでもなく、そして押し黙るわけでもなく、バランスをとりながら上手く遊戯する。今はそんなやり方が自分にとって快いし、人とのベストな関わり方じゃないかなと感じる。

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