読書について
妻「日記書いてるの〜?(ニヤニヤ)」
私「んー、書いてない〜」
最近上記のようなプレッシャーを受けているので、重い腰を上げて何か書こうかと思います。
いつもnoteを書くときは、iPadの純正メモアプリにnoteフォルダを作ってそこに書いているんですけど、前回noteを書いたのはほぼ1ヶ月前でした。
1ヶ月間何してたのって話なんですけど。
特に何かをしていたとかではなくて、ただ文章書くのをサボっていただけです。
それで、久しぶりに何を書こうかなあと思ったんですけど、ちょうど今読んでいる本が面白いこと言っていたので、それについて書こうと思います。
今読んでいるのは「読書について」という本です。著者はショーペンハウアー。ドイツの哲学者です。
まだ本の序盤なのですが、すでに書きたいことが盛り沢山でした。
本書「読書について」では、読書の批判から始まります。
特に「多読による博識」を強く批判しています。
なぜなら、読書による知識の吸収は、「他人が考え抜いてたどり着いた結論のみを知った気になる」可能性が高いから、だそうです。
例えば、歴史における、現場での目撃者とのちの歴史研究家の関係に近いです。
前者は自分の目で見たものを自分で判断し伝える。
後者は誰かが伝えていた事柄を比較検討し、それらしい真実を追求する。
つまり読書での知識によって到達できるのは後者まで、前者になろうとすると、自分自身が当事者になった上での「思索」が必要になるということです。
ここまで読んでいただいた方、これ、どう思いますか?
以下は、私が思ったことを書こうと思います。
私は、「これは今こそ必要な思考なのでは?」と思いました。
現代において、情報は氾濫しています。右を見ても左を見ても情報情報。端末から溢れ出す情報を処理するために多大な時間を消費してしまう私たちは、情報処理以外の時間を節約するようになってしまいました。いくら節約しても、その分情報に触れる時間が増えるだけなのに。
そんな正誤の判断も難しいような情報があふれる時代に必要なのは、多くの知識を吸収して発信することではなくて、「自分ならどうか」を考え続ける姿勢、およびそのための自分の軸なんじゃないでしょうか。
信頼するに足る人が発信する情報だったとしても、それを判断するのはあくまでも自分でなければならない。他人に自分の意思決定を委ねてはいけない。そう思っています。
よく、真偽不明の情報に対して「ソースは?」という問いかけがあります。
情報の出どころ、その真偽も大切ですが、「1番大事なのは自分がどう思うか、そしてその理由は?」を自身に問い続けることです。
私は、根拠ある意思決定が苦手です。なので有益そうな情報に流されやすい側面があります。
ですが環境の変化もあり、最近は「自分はどう思う?」に焦点を当てられるようになった気がしています。
自立って、他の人の意思決定に従って立派に振る舞うことではなくて、自分で考え抜いた上で意思決定をし続けられることなんです。
恐らくこの本では、読書の良い側面についてもしっかり述べられているとは思いますので、また面白いところがあったら感想書いていこうと思います。
久しぶりに思うままダダっと書きましたが、楽しいですね。
それでは。
この記事が参加している募集
無理は言いませんし、そう簡単に得られるとも思っていませんが、サポートしていただけたらそのお金で買ったことのない飲み物を買います。