見出し画像

◆読書日記.《古賀太『美術展の不都合な真実』》

※本稿は某SNSに2021年11月6日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。


 古賀太『美術展の不都合な真実』読了。

古賀太『美術展の不都合な真実』

 著者は現在日大で映画を専門としている芸術学部の教授だが、元々国際交流基金で日本美術の海外展開を手掛け、その後朝日新聞社で展覧会企画に携わり、長年美術展覧会の企画に携わってきた人物。
 その著者が日本の展覧会の「裏の仕組み」を詳しく紹介していく内容。

 ……とは言うが、タイトルや帯の煽り文句ほど本書の内容は過激ではない。
 せいぜい、著者の関わってきた美術業界のあちらこちらの人々からイヤな顔をされる程度のものだろう。

 それよりも、全く世界の常識から離れてガラパゴス化している日本の展覧会の開催事情を事細かに解説し、地味な内容でさえある。

 これは、一般的な「美術ファン」が見ても、面白くはないだろう(笑)。
 しかし、ぼくにとっては、本書の内容は非常にためになったし、勉強になった。

 そもそも、日本の展覧会の開催事情や収支に関して、これほど真正面から書かれたものを他には見た事がなかったので、本書の内容は非常に貴重な情報となったのだ。

◆◆◆

 本書で指摘されている「不都合の真実」というのには、様々な問題点が挙げられている。
 が、これについては、ほとんど「ライトな美術ファン」には、関係のない事ではあるし、興味もない事であろう。
 そういった人たちはこと「芸術とは何か?美術とは何か?」といった難しい問題には興味をしめさないからである。

 これは本書でも指摘されている日本の美術界の問題の一つでもあるのだが、どうして昨今そのような「ライトな美術ファン」が増えているのかと言えば、近年の日本の展覧会というものはもはや「アミューズメント化」しているからである。

 だから、あいちトリエンナーレ「表現の不自由展」のような、深刻なテーマ性と批判的内容を抱えた現代美術を展示すると、「わかってない人たち」から批判を受けるのである。

 何故、日本の美術展覧会が「アミューズメント化」しているのかと言えば、その理由のひとつに、多くの美術展に「主催」としてマスコミが関わり、収益を出すために大量動員を煽っているからという事情がある。

 そもそも何故、日本では新聞社が美術展の「主催」をしているのだろうか?

 日本の新聞社は元々「文化事業」として様々なイベントを主催しているのである。
 例えば「春の甲子園」は高校野球連盟と共に毎日新聞社が関わっているし、「夏の甲子園」は朝日新聞社が主催に名を連ねている。箱根駅伝は読売新聞が関わっている。
 このように日本の新聞社はその豊富な資金源を元に様々な文化事業に関わっているのである(日本の新聞社は海外の新聞社よりも発行部数が格段に多いから、そういう事業に関わる事が出来るという事情もある)。

 日本では、戦後はまだ美術館の数もあまり多くはなかったので、展覧会などの企画展は百貨店などの催事場を展示会場として行う事が多かった。
 そのために、百貨店や貸し展示会場など「専門の学芸員がいない展示場」で展覧会を企画する際は、新聞社などが企画の中心となって取り仕切り、作品を手配し、自社広告によって広く宣伝し、中心となって開催してきたために、学術的なものというより「イベント」という性格が強まっていったのだという。

 自然、展覧会企画のノウハウや海外を含めた美術界のコネクションは新聞社の文化事業部に集中して強化された。

 日本に美術館が増えていっても、美術展企画の多くは新聞社の文化事業部が担っていた。
 昔から展示企画のノウハウをため込んできたのは、美術館の学芸員たちよりも、それら新聞社の人々だったからである。
 新聞社の社員が企画を美術館に持っていき、学芸員と会議を重ねて決定。海外の美術館と作品貸し出しの交渉や輸送や保険の手配、会場運営、広報など、学芸員ではなく新聞社の社員がメインとなって展示会の準備を進める。

 こんな状況だから日本の美術館は学芸員が育たない。

 本来「企画展」というものは、学芸員が美術品を収集、研究、等々した結果を展示会という形で発表し「美術史的に意義のある情報」を提供するためにある。
 何故なら、美術館はアミューズメント・パークではなく「生涯学習施設」と位置付けられているのだから。

 しかし、美術館からしてみれば、展示企画は新聞社に任せたほうがラクでいいし(ノウハウも新聞社のほうが豊富だ)、広報もしてくれるので収益にもつながる。資金力もあるので、美術館の少ない予算を度外視した企画もできる。

 新聞社のほうからしてみれば、美術展は本業を補填する「収益事業」として、そして社会的ブランディングとしても役立つ。

 つまり、美術館も新聞社も、持ちつ持たれつで今までやってきたのだ。

 そういった事情から、日本では新聞社が展覧会の中心を担う「伝統」が出来てしまったのである。

 しかし、そこは「営利企業」の新聞社である。
 バブルが崩壊して長期不況が続いている現在の状況では、美術史的な意義のある展覧会ではなく「収益の回収できる企画」が優先されてくるのは当然の流れだったのだ。

 だから、日本の昨今の美術展は「内容」を優先せずに、一般ウケして派手であり、分かり易い企画を多く通すようになって「アミューズメント化」してしまうのである。

 これが災いして、日本人の美術展に対する一般人の感覚は「休日の娯楽」になり、映画や遊園地と変わりないエンタテイメントという事になってしまっているのだ。

 因みに海外の美術館では、新聞社が「主催」などと名乗る事はまずない。
 主催はあくまで「美術館」がやるのである。
 だから、新聞社の社員が海外の美術館に貸出交渉に行くと「何故、新聞社が交渉に来るのか?」と訝しまれるそうである。
 ルーブルやメットなど海外の大手美術館はもうこの「日本式」には慣れているそうなのだが。

◆◆◆

 「美術展のアミューズメント化」という日本ガラパゴス方式には様々な弊害ある。

 例えば最近、新聞社主催の美術展には、やけに『〇〇美術館展』という企画が多くないだろうか?
 これは、美術展を開催する側からすると、準備が非常に「ラク」だから、こういうのが多くなるというのである。

 『〇〇美術館展』系の企画で多いのは、例えば海外の美術館が施設の大規模改修などで、常設展の作品などをいったん倉庫に入れておかねばならないと言ったような事があった際、それを聞きつけた日本の美術展の担当者がその収蔵品を50~80点ほど借りて行ったりするのである。

 これは、向こうの美術館にとってもありがたい事なので、貸し出し交渉もわりと上手く行く。(因みに、美術館と美術館同士で収蔵作品を貸し借りする場合は、通常借料は取らない決まりがある。が、日本の場合は新聞社が「主催」として美術館の間に入るので「借料」が発生してしまうのである。だから、海外の美術館は日本の企画展を「金ヅル」と見ているのだ)。
 モノによっては、海外の美術館の収蔵庫にいわば「お蔵入り」されている作品を借りてくる事があるので、傑作・名作があまり入っていない場合さえある。

 最近だと、主催にテレビ局が入っている事があるが、テレビ局はあまり長引く交渉を好まないのだそうで、しばしばそれは学芸員に任せてしまうのだという。
 テレビ局としては、目玉となる「メインビジュアル」としての作品が確保できればいいから、海外の有名美術館に数億円の資金をぽんと投げて、任せてしまうという事もあるそうだ。

 これが例えば特定のアーティストに焦点を絞った回顧展だとかになると、一つの美術館だけでなく、そのアーティストの作品を収蔵している複数の美術館であったり複数の美術コレクターなどに交渉に当たらねばならないので、非常に手間も時間もかかる。

 つまり『〇〇美術館展』系の企画というのは、主催側からしてみれば時間がかからず手っ取り早くてラクな企画だという事なのである。

 しかし、その手の企画となると目玉となる美術作品を除けば、大した作品は貸し出されなかったりするものだから、美術展に来場する観客も大して「目」が養われるわけではないし、美術に詳しい来場者が楽しめるものになっているわけでもない。
 そのうえ、日本の美術館は混雑が凄いので、作品をじっくり鑑賞する時間もない。

 本書によれば、日本の美術館で「1日あたりの来場者数」が、世界のトップ10に入る展覧会はしばしばあるそうなのだが「"1年"あたりの来場者数」については、世界のトップ10に入る事はあまりないそうである。
 この辺については、日本の美術館は規模が小さいという事情も関係しているようだ。

 例えば、ルーブルや大英博物館といった世界的な美術館は展示面積が5~6万平米あるものもあるが、日本の美術館はだいたい千平米あれば大きいほうと言われるくらいである。
 その中には常設展もない、完全に「貸会場」と化しているものまである。
 そういうあまり広くない会場に、来場者をザザっと入れるのが日本式の美術展なのである。

 これでは、じっくりと作品を鑑賞して様々に考え、一緒に来た人と意見を交わすなどという時間が持てるはずもない。
 日本人がいくら美術館に通った所で一般的なアートリテラシーがいつまでたっても上がらないのにはそういった事情が絡んでいる。

 こういった事も日本の美術展が、教養や学術に関わる事ではなく「イベント」と同一視される原因となっているようだ。

◆◆◆

 ざっと見てきたように日本の美術展というものは、海外とはまるでその性格が違っているのである。

 そもそも日本の博物館法でも、美術館・博物館は「生涯学習施設」とされているし、海外の認識もそうなっているはずだ。
 だが、実際の所はどうなのかと言えば――日本の美術館は単なる「アミューズメント・パーク」のようなものとなってしまっているのである。

 その原因となっているのは、上述してきたように日本の歪んだ美術展の開催形式が大きく影響しているし、それが「伝統」となっているのが日本の美術界を更に世界的にガラパゴス化させてしまっているのだ。
 それが災いとなって、いつまで経っても日本人のアート・リテラシーは上がらないし、日本では学芸員も育たず、専門家も育たずにちゃんとした仕事ができない環境にある。

 著者は本書の最後に、この流れを変える一つのきっかけとして、近年盛り上がり始めているトリエンナーレや現代美術展に一抹の希望を託しているようであるが……例の「表現の不自由展」問題を見る限り、世界標準の現代美術を日本人に受け入れさせるというのは、まだまだ先の話のようでもある。


この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?