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◆読書日記.《北大路魯山人『魯山人味道』》

※本稿は某SNSに2019年2月5日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。


 北大路魯山人『魯山人味道』読了。

北大路魯山人『魯山人味道』

 先日は魯山人の陶器論を読んだが、本日は美食論である。

 そもそも魯山人が陶器を研究し始めたのは「美食倶楽部」で出す料理にマッチした器を求める内に、自らが作り出したものでなければなかなか思い通りのものを得られないと悟ったからだった。

 陶器は食と組んで視覚を満足させるのだ。

 魯山人は、器を「料理のお着物」だと言う。
 女性に着物を着せる場合、寒さ暑さだけを考えて着せても確かに用は足るだろうが、着る女性によりマッチしたお着物を着せたほうが、よりその女性の魅力が引き立つではないか、料理に対する器の関係も、それと同じようなものである、という考え方なのだ。

 そういう「料理と器の関係」という考え方も『美味しんぼ』の海原雄山に似ているが、料理の考え方も海原雄山に似ている。

 魯山人の理想はほとんど一貫していて、「自然美の追求」なのである。

 器も絵も、自然の美しさが最も美しい。料理も同じ。過剰に人の手を加えるのは下手であり、自然の旨味を引き立たせるべきだという。

 そもそも日本人が刺身を食うのが好きなのは、調理をしない状態の、魚のそのままの味を活かせるからなのだと言うのが魯山人の考え方だ。

 ごてごてと手を加えるのが良い料理ではない。
 基本は「善い食材を善い状態のときに食べる」これが良い。味も善いし、健康にも善い。
 善い食材であれば、多少下手な調理を加えても、多少は食えるものになる。

 逆に、食材が悪ければこれをいかに一流の料理人が手を加えてもどうにもならない。

 特に日本でとれる食材は世界中のどの食材にもまして質が良い。
 だから、野菜は新鮮なものをそのまま食べるのが最も美味い。

 ――というのが、魯山人なりの日本料理の美点である。

 魯山人が言うに、西洋料理が味付けに様々な手を加えるのは、元々自然の食材の質が日本よりも悪いからなのだそうだ。

 西洋の食材の質が良いか悪いかはこのさい横に置いておくとして(笑)、西洋料理ではしばしば「これの元の素材は何なんだろうか?」と疑問に思えるほど加工して「自然のままの色/形/姿」を消してしまっている料理と言うものはしばしば見られるのではないか。

 例えば、マカロンなど見たら、魯山人は顔をしかめるのではないだろうか。

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 自然の中にはない、カラフルなピンク、黄緑色、マリンブルーの個体。何故このような色を付ける必然性があったのか。そもそも素材はいったい何なのか、食べてみなければ決して分からない。
 思えば、アメリカなどにはこの手の毒々しいほどに人工的な色合いのスイーツがけっこうあるのではないか。
 建築デザインや庭園デザインにしてもそうだが、西洋にはある種の「人工性」に美を感じるという美的感覚と言うのは、けっこう多いように思われる。

 魯山人が考えていた西洋と日本との違いとは、西洋的な「人工美」と日本的な「自然美」との対立だったのかもしれない。

 西洋は自然のものから離れて人工的な線、人工的な着色、人工的な構図、人工的な模様、そう言った「人工的なもの」から美を考えた。それに対して日本は「自然が最も美しい」という考え方が重要なのだと。
 だから、料理も陶芸も、自然美を抜きにしては語れなかった。自然の美以上の美を人間が作り出す事などできないのだ、と。

 この美意識は魯山人の食哲学に共通した認識なのだ。

 日本の自然から作られる「自然の味」を超えるような「人工的な味」などは存在しない。
 だから、食材にこだわる。新鮮さにこだわる。食材の特性を活かす調理法にこだわる。

 魯山人の芸術は常に、日本の自然の恵みを崇拝する「自然美」の哲学だったのだろう。


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