短篇小説月評(2023年5月)

 四月のなか頃から井上陽水の音楽を聴くようになった。聴くようになったと云っても、代表的な歌が詰め込まれた出来合いの──つまりAppleMusicが提供するプレイリストを聴くばかりなのだけれど。
 YouTubeで山口智充(ぐっさん)が井上陽水のモノマネをしている映像を見かけたのが聴き始めるきっかけだった。フジテレビの『ワンナイR&R』という番組のワンコーナーである。ガレッジセールのゴリがゴリエとして一世を風靡していた番組と云えばピンとくる人もあるかも知れない。全く何の話か分からない人もあるだろう。
 私がまだ幼い頃、この番組を見た記憶がある。風呂を済ませて歯を磨き、さて寝るばかりという時間に父が帰ってくる。父の帰りは遅かった。いつも十時を過ぎてから帰っていたように思う。父の帰宅はこの時間帯のテレビ番組と共に私の記憶に刻まれている。と云うのも私が寝床を整えている間はテレビが消されていても、父が帰宅して晩酌をするとなれば、肴にテレビのバラエティが欠かせなかったから。
 『SMAP×SMAP』の始まりを告げる鳩が飛び交うロート製薬のCM、食わず嫌い王決定戦のゲストが入場する場面、そしてゴリエが海外ロケの際、入国審査で化粧を落とさなければならないかも知れないという一幕。
 こんな下らない番組の映るテレビを中心としたリビングの風景が私の幼少時にあった家庭の記憶である。
 井上陽水の音楽は、そういう記憶とは全然違う所のものとしてある。当然だ。
 初めに聴いたのは「リバーサイド・ホテル」で、いま聴いているのは「ジェラシー」です。「ジェラシー」は私が好んで聴く昭和の流行歌、歌謡曲的な雰囲気があって一番好ましく聴いている。
 井上陽水への関心は、私がいままで聴いてきた音楽と違う聴かれ方をしているところから湧いているのではないかと思っている。「違う聴かれ方」とは何かと云えば、私が井上陽水を聴き始めた時期と重なるようにして、ツイッターで「私を構成するアルバム何選」という画像だかハッシュタグだかが流行っていたことによって、私の音楽の聴き方と周りの音楽の聴き方はどうやら違うらしいと気がついた。その「違い」である。
 私は「アルバム」というのがよく分からない。『思い出のアルバム』という歌を幼稚園に通っていた頃歌ったことや山田太一の『岸辺のアルバム』という小説・ドラマのことは思い浮かぶけれど、そこで使われる「アルバム」の語は生後間もない頃の写真をまとめたり、卒業に際して配られる分厚い綺麗に造られた冊子を指していて、音楽とは余り関係がないようである。「アルバム」ってのは何なんですか?
 AppleMusicがご丁寧に付けてくれたキャプションに依れば、井上陽水は日本で初めてアルバムのミリオンセラーを達成したミュージシャンらしい。シングルではなくアルバムで聴くミュージシャンとして井上陽水はあるのか。それなら私には都合が良い。
 私がこれまで特に好んで聴いてきた歌手たち青江三奈や尾崎紀世彦、越路吹雪、佐良直美、島倉千代子、美空ひばりの音楽は一つのまとまりとして聴くというのではなかった。ヒット曲を飛び石のように聴いて歌声、スタイルに惚れ込み、やがて点と点を少しずつ結ばれていくように歌手の全体像を掴んでいく。こういう音楽の聴き方はYouTubeで音楽を聴くというスタイルが浸透したからあり得るもののような気がする。
 いい加減、小説の話をしよう。
 
 今月の初まりは、横山悠太『アジアの純真』から。
 中国へ語学留学に来た日本人の男と同じ授業を取っていたムスリムの青年が不意に交流を持つようになり、やがてイスラム教について余りに無知な主人公にムスリムの友人がクルアーンを講じる習慣が出来るという話。
 ここ数か月、図書館で借りた日本文藝家協会編の『文学2017』というアンソロジーに収められた短篇群を読んでいたのだけれど、四月に読んだ温又柔『被写体の幸福』などアジアに材をとった作品が多い印象があった……のだけど、実際に振り返ると温又柔、横山悠太の他にアジアに根差した作品はリービ英雄くらいだった。むしろ終末の雰囲気を漂わせた作品(今村夏子『あひる』髙村薫『移動販売車』上田岳弘『重力のない世界』など)や老いを書いた作品(古井由吉『その日暮らし』荻野アンナ『Credo』など。髙村薫『移動販売車』も老いをテーマにしている)が多かった。
 二〇一六年は「アジア、終末、老い」が文学の主題としてせり上がった年らしい。もちろんこの年以降も大きな主題として継続して書かれているのだけれど。
 私は友人関係を描いた作品が好きで、上林暁『ブロンズの首』などそういう理由で好ましい短篇小説の一つに数えているのだけれど、この『アジアの純真』も良い友人関係を書いていて好みだった。
 この一篇を読み終えて後、「アジアの純真」というのが井上陽水と奥田民生が共作してPUFFYが歌だと知った。不思議な巡り合わせだと思った。ちなみに小説に白のパンダは出て来ない。
 
 続けて同じアンソロジー所収の岸政彦『ビニール傘』を読む。芥川賞の候補になった少し長めの短篇である。大量生産された既製品の味気なさ、画一化されたものが街を覆い、人々を呑み込んでいる現況を描こうということは分かる。かと云って小説の言葉を貧しくすることが良いことなのか、という思いもある。エレベーターのなかに捨てられた食べ物の包み、乱れた部屋の雑然とした机に置かれたメイク道具の数々などのイメージが繰り返し描かれる。その繰り返しはタップルやペアーズやポコチャのCMが延々に垂れ流されるインターネットの荒廃を思ったりもする。しかし同じ言葉でこれらのイメージを提示するのは「小説」を貧しくしていないか。豊かな「小説」でも貧しさを書くことは可能だと思うのだけれど、どうなのだろう。と思った。
 
 同じ頃ふと、わが家には堀田善衛の本が幾つもあるのに一冊も手をつけていないことに気がついて読んでみる気になった。何から読もうかと考えて本棚から『広場の孤独』を取り出した。一九五一年下半期の芥川賞受賞作である。
 敗戦から六年を経ち、まだ占領地の構えになっている街で朝鮮戦争開戦のニュースが飛び込み、敗戦を経験した今いかに身を処すかということが切実な問題として書かれる。まさかこんなにもアクチュアルな話を書いている話とは思わず、難しいながら興味深く読んだ。
 以下、面白いと思った部分の抜き書き。 

「息子、君はひょっとしてわしが絶望して自殺するのじゃないか、などと思うかもしらんが、わしはもうとっくから墓場なのじゃ。わしの階級、貴族などというものは世界中どこにも存在しておらん。わしの存在そのものが、もはや一つの虚構(フィクション)なのじゃ。いかさま(フィクション)だ。わしはもう二十年くらいのあいだ、様々の服を着更えて来た。時には一日に二度も三度も。服を着更える毎に、きれいさっぱりとその服にあった気持に、自分の気持を転換する術を心得た。一着の服で人間の変るものなら、人間など存在しないも同然だろう。しかしわしは死にたくない。もちろんこれはいつ死んでもいいという意味でもある。だからわしは動乱が起って人間の新しい血の流れるところへ来て身を温める。動乱、それはつまりわし自身なのだ。もう一度云いかえれば、動乱や革命は、人間的理由に始まって非人間的結果を生む。わしはその結果なのだ。動乱や革命の、非人間的な結果のなかに、なおかつ人間的なものをつくり上げようとする、見方によって徒らな努力、その努力自体の中にしか現代の希望はない。……わしはそれを現場近くで見ていたい。わしの息子たちは、三十五を頭に、みなコミュニストになってしまったらしい……。君がさっき一緒にいたOA通信のハワード・ハント、あれなどもフレッシュな血だな」 

堀田善衛『広場の孤独』(新潮文庫)p.67

 さて、短篇小説ばかり読んでいる織沢であるけれど、流石にそろそろ長篇が恋しくなってきた。いや恋しいというより、長篇小説を読まずにいて良いのかという強迫感が徐々に増してきたというところだろうか。
 長篇小説でも章が細かく分かれていて、各章に題が付されていれば一章分を短篇一篇であると脳に言い聞かせて読み進めることが出来るのではないかと考えた。その試みとして手に取ったのが、辻井喬『虹の岬』。別にこれでなくても良かったのだけれど、辻井喬という作家に以前から興味があり、先の一月に関西に帰った時にも葉ね文庫で現代詩文庫の『続・辻井喬詩集』を買ったりして読む下準備(?)のようなことはしていたのだった。
 辻井喬の小説は余り上手くない。素人の私が云うのも烏滸がましいけれど、少なくとも小説は見事な仕事という感じではない。同じことを繰り返し書いたり、自殺未遂や愛し合う二人の歳の差から連想される「死」のイメージが鮮烈さに欠けたり……。しかし面白い小説として私はこの本を読み通すことが出来ました。実際の短歌の使い方などは上手いし、「上手くない」と言いながら辻井喬の小説には私の惹かれるものがあるように思えた。
 『虹の岬』を読み終えた後、『書庫の母』という短篇集も図書館で借りて少し読んだりなどして、これから読み進めていきたい作家であると思った。
 
 『虹の岬』を読み終えた日、私は新幹線に乗り、東京へ出掛けた。文学フリマ東京に参加するためである。
 前日、祖父母の家に泊めて貰い、朝ゆっくり起きた。祖父母と朝食を食べ、東京へ出てくる前に本屋で旅の共にと買った川上弘美『大きな鳥にさらわれないよう』を開いた。
 この本が出た時にSF系の年間ランキングの幾つかにランクインして気になっていた本だった。(確か飛浩隆『零號琴』と同じ年で、上位にはランクインしなかったのじゃなかったか、と思っていたら、『零號琴』は『大きな鳥…』の二年後だった。この年は筒井康隆『モナドの領域』奥泉光『ビビビ・ビ・バップ』北野勇作『カメリ』宮内悠介『彼女がエスパーだったころ』などが出た年のようです。)
 短篇を連ねて一つの長篇とした連作短篇の形式で、巻頭の『形見』という作品は川端賞の候補になっていた。どれが特にとは言い難いけれど、どの短篇も良い。
 
 文フリでは初めて鯖さんや庶民さんやヤマグチさんなどに対面で会うことが出来た。特にいま列挙した人は二年以上前から付き合いがありながらコロナの影響で会う機会のなかった人たちなので、嬉しさも一入だった。
 特にヤマグチさんとお話した時は強い感銘を受けた。何せヤマグチさんは目標のためにかなり具体的に頑張っているのだ。今回の文フリには当初『幸せな日常のための同人誌』を頒布するつもりでいたのだけれど、諸般の事情で刊行を秋に延期したので、その点でも自分の「頑張ってない」さに打ちひしがれた。
 文フリからの帰り、庶民さんとスペースで話し、本気で頑張ることを互いに誓い合った。織沢は『幸せな日常のための同人誌』を完成させ、群像文学新人賞に応募することを決意した。そのために何を書いたものか……。『日ため』には『パソコン教室』という題の作品を書くことにしよう。
 群像には以前書いて途中で放棄した『花散る夜を惜しむように』という作品を完成させて応募しようか。
 そうとなっては、こんな文章に手間取っている場合ではない。さっさと終わらせてしまおう。
 
 月末には恒例の「短篇の名手」読書会を行った。今回の課題作は向田邦子『かわうそ』ハインリヒ・フォン・クライスト『チリの地震』の二篇。今回は白濱さんしか参加できず残念だったけれど、白濱さんと濃密に作品を鑑賞出来たので良かった。
 最初は二人とも『チリの地震』をそこまで面白い作品と思えなかったのだけれど、クライストという作家について調べたり、頁をパラパラ繰りながら目に留まった部分について話すうちに、クライスト作品の良さが徐々に分かってきたような感じがあった。
 向田邦子の方は私が大好きで課題作に選んだのだけれど、白濱さんも気に入ったようで良かった。
『かわうそ』は、とにかく上手な作品で、実は子供が死んでいたという設定が妻の悪さを証明するための後付けのように出てくる辺りなどは、じっくり読むと「けっこう無理やりじゃない?」と発見したりするのだけれど、しかしそれを悟らせない上手さもちゃんとある。こんな短篇は書けそうにもないけれど、一度くらい書けたら良いなと思う。
 
今月はこのくらいで。駆け足に書いたので、書こうと思って漏れたことも多い。上林暁とヴァージニア・ウルフの短篇で読書会をしたりもしたのだけれど、終わるつもりになってしまったから、もうおしまい。さようなら。またね。
 

〈2023年5月に読んだ短篇小説〉
「アジアの純真」横山悠太
「逢引」松浦寿輝
「ビニール傘」岸政彦
「その日暮らし」古井由吉
「桜桃」森内俊雄
「モウグリの兄弟たち」ラドヤード・キプリング
「カーの狩り」ラドヤード・キプリング
「Credo」荻野アンナ
「ビゼンクラゲは大型クラゲ」川上弘美
「食べられる夢」島田雅彦
「春の鳥」辻井喬
「平和的玩具」サキ
「木枯しの墓」辻井喬
「鷲」辻井喬
「虹の岬」辻井喬
「形見」川上弘美
「水仙」川上弘美
「緑の庭」川上弘美
「かわうそ」向田邦子
「踊る子供」川上弘美
「大きな鳥にさらわれないよう」川上弘美
「チリの地震」ハインリヒ・フォン・クライスト
「夢の中」吉本ばなな
「書庫の母」辻井喬

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