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理解から最も遠い感情

「目標にしてる人とか、こういう風になりたいと思う人っている?」

と聞かれたことがある。

聞いてきたのは、私があまり得意としない人で、そしておそらく相手も私のことを苦手としていて、だから沈黙に耐えられず、そのようのなことを聞いてきたのだと思った。

「尊敬している人はいますけど、なりたいとまで思う人はいないですね」
と答えた。

なんで「◯◯さんを尊敬しています」と答えなかったのか。
我ながら一言多いなと思う。

とはいえ、嘘はついていない。
そりゃお金持ちとかに憧れはあるけれど、だからといってビルゲイツになりたいとかは思わない。アイドルとかも好きだけど、この人になりたいとかはない。

なんというか熱中ができないというか、盲目的になれないのだ。信仰心みたいなのが薄いのかもしれない。

もっと厳密に言えば、最初のうちは熱くなれるが、だんだん飽きてくるというか冷めてくる。

尊敬すればするほど、好きであればあるほど、その人がどういう人なのか知りたくて、いろいろ考えて、ある一定のところで冷める。
芸能人とか何かしらの作品が気になったら、Wikipediaとかを暗記する勢いで見てたりする。

なぜなのだろうか、と思う。好きな物をずっと好きではいられないのだ。
だから一つのコンテンツを好きでい続けることはないし、(ブランクを経て再熱することはあるけれど)盲目的に誰かを信心するということもない。


私の好きな漫画の一つにBLEACHがある。
そこの登場人物の発言の一つに
憧れは理解から最も遠い感情だよ
というのがある。

一応背景を説明すると、組織の幹部の人がより高い地位に登りつめるため、クーデターを起こす。部下の一人が、その幹部の裏切りが信じられなくて奔走するが、クーデターの犠牲になってしまう。その際に、味方の人がこの(犠牲になった)部下はお前(裏切った人)をとても慕っていたのに!みたいなことを言われ、その返答がさっきのセリフ。

当時は、このクーデターを起こしたキャラが作中のほぼ最強格だったため、自分が最強だから誰かに憧れることはない、憧れという感情を自分は理解できない、という意味で発言しているのだと思ってた。

ただ読み返すと、一般論として「憧れ」という感情と「理解」という行為が離れているもの、と捉えることもできるなと最近気づいた。

なるほど、私が考えていたこともこういうことなのか、と腑に落ちた。

私は相手のことを知れば知るほど、相手のことを好きに、より強く惹かれていくものだと思っていた。
ただそうではなく、相手のことを深く知るからこそ、その人のイマイチな部分とかも知って、勝手に自分の中で肥大化した理想に呑まれることことなく、盲目的にならずに相手と向き合える、ということもあり、私はそっちの気質の方が強いんだと思う。

もう一つ、似たようなことでアメリカの哲学者エリック・ホッファーの言葉がある。
(漫画のキャラと哲学者を並べることには目をつむってほしい)

他者への没頭は、それが支援であれ妨害であれ、愛情であれ憎悪であれ、つまるところ自分からの逃避の一手段である。奇妙なことに、他者との競争--他人に先んじようとする息もつがせぬ競争は、基本的に自己からの逃走なのである。

憧れは、他者への没頭になりうると私は思う。
生きる上での指針のようなものを示してくれるわけで、それは確かに自己からの逃避であろう。
相手と向き合うためには、そもそも自分が何者かなのか知らなければならない。

まとめると、他者への没頭>他者への理解>自己の理解の順になろう。
わかる気もする。

ただ、自分が理解されたいか、憧れられたいか、という風に考えると私は理解されたいと思う。
共感はされなくてもいいが理解はしてほしい。
そう願うのはわがままだろうか。

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