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この世にあるほうの腕ー 山崎聡子『青い舌』を読むー

はじまりよ 子どもを胸に抱きながらサルビア燃える前世を捨てる

なんて美しく、悲しい決意に満ちた歌なんだろう。
この歌集には、濡れた手で魂に触れてくるような言葉たちがおそろしいほどの美しさと生々しさで切り取られている。

不安定な子ども時代。母に対する仄暗い思い。娘を生み育てる母としての自分。
あまりにもわたし自身の境遇や背景との共通点が多く、読みながらしばしば「これはわたしのことだ」と思った。
そして、たびたび出てくる前世というキーワードにじわじわと心を炙られる。しんどかった。しんどいほど惹きつけられ揺さぶられた。

これはごく個人的な、歌集への手紙のような評である。

■娘への眼差し

生き直すという果てのない労働を思うあなたの髪を梳くとき
生きなおす、という章タイトルにもなっている言葉。ぞくりとした。
生き直したいと思って生きてきた。この不如意感に満ちた人生を、どこかから。もしかしたらできるのかもしれない。すがるように思った。
しかし本書における「生き直し」とは過去のどこかにタイムリープするのではなく、娘という存在を生み育てることで生まれた新たな世界線に生きる、という解釈が近いのではないかと考えた。

わたしがきみの傷となるかもしれぬ日を思って胸を叩いて寝かす
わたしも、母にこんなスタンスで育ててほしかった。娘には自覚的でありたい。母という存在として娘を傷つけるかもしれない、トラウマや汚点となる可能性さえあるということを。そんな可能性について、寝かしつけの最中にふと思いを巡らせることのリアリティ。
傲慢にならずに育てたい。本当に、心から。

脱がせたら湿原あまく香り立つわたしが生きることない生よ
乳児は特ににおいが濃厚だ。あのむせかえるような甘い香りはまさに湿原に踏み入ったような気分にさせられる。成長するにつれ、子どものにおいはさらっとしたものに変質してゆく。思春期にはきっとまた濃厚なにおいを放つのだろう、そんな予感を秘めながら。
自分から生まれたのに自分とは異なる生き物としての香りを発している、そのことに母親ははっとさせられる。我が子は自分の人生そのものではない。まったく異なる自我を持つ人間であり、自分の知らない道を歩いてゆく存在だ。

違う心の容れものひとつ抱いてゆく住宅街の中のパン屋へ
娘と連れだって買い物へゆく。仲良く手をつないで歩いていたって、心の容れもののかたちは違う。子は親の付属品ではない。
別個の人間としての我が子を尊重するさりげない言葉選びに打たれる。出かける場所が大げさでないのもよい。

■濃厚な母の気配

十代が死んでくれない 強くあなたをなじって夏の終わりがきてる
「あなた」の解釈によって異なる顔を見せる一首。母親かもしれない。夫かもしれない。いずれにしても、相手を強くなじるという負のエネルギーは作者の中の十代の自分が引き起こしており、それには母親の存在が深く関わっている。ままならない少女時代を生きた者にしかわからない生々しさがある。わたしの中にも、死んでくれない十代の自分がいる。

逆光のなかに立たせた母親を許す冷たい真夜のふとんで
許す・許さないについて考える。現在の定義でいえばわたしは虐待を受けて育てられたと考えている。とにかく人権がなかった。近年それを母にほのめかしたことがあるが、全否定された。それどころか自分の子育てに自信を持っており、「あれもしてやったのに、これもしてやったのに」が止まらない。絶望しかないとはこのことだ。
この歌では許す、と詠われている。その「許す」という言葉の、はかりしれない重さに思いを馳せる。

西瓜食べ水瓜を食べわたくしが前世で濡らしてしまった床よ
わたしはあなたにならない意思のなかにある淋しさに火という火をくべる

内在化した母親の存在、あるいは母の顔をした生き物の視線をいつもいつも感じながら生きる苦しみ。しかし、女児を得たことで「わたしはあなたにならない」と言いきり、その上で母を許すことで、ようやく「わたし」が自分の人生の主人公になったかのような救いを見た。
他方、ここにおいての許すこととは、突き放すことと同義のような気もしてぞくりとするのである。

■過去の自分との対話

犬を追うこどもをぼんやり見ていたら犬に追われた日の風がきた
国旗ってきれいだったなケチャップのご飯に墓標のように立ってて

過去と現在を自在に行き来する、軽やかな魂。読み手の頬にも風の気配が兆す。それにしても、ケチャップライスに立てられた国旗の楊枝を「墓標のよう」と捉える感覚の暗さと鋭さに圧倒される。

パーカーの背中ふくらむ風のなか若さを笑っていた日々だった
自転車が走る不思議が降ってくるわたしの青く薄かった胸

無自覚に若さを消費していた頃を俯瞰する眼差し。戻りたいわけではないがしかし、残酷なまでの若さに対する憧憬のようなものが淡く散りばめられている。読み手が自分の「青く薄かった胸」を思うとき、心は甘く締めつけられ疼痛が走る。
「青い舌」という本書のタイトルにも用いられている青のイメージは、心の未熟で繊細な部分を形容していると思う。

■隣り合わせにある死

死とは、なんて身近にあるものなんだろう。本書を読むと、生と死の境目が曖昧になったかのような心もとなさを覚える。
飛ぶことはこわいね(いつか死ぬことも)こわいね劇場のまるい天井
第一歌集『手のひらの花火』ではこのように詠っていた作者だが、この第二歌集ではもはや死を手懐けてしまったかのような身軽さが感じられた。出産という死に近づく経験を経て死が親しい存在になったのであろうか。自分の中にある痛みを引っぱりだしてきて考察した。あの分娩台の上で過ごす数時間は、人生観や死生観まで変え得るものだから。

この世から繋ぎとめられてる気がしてた風吹き荒れる屋上広場
あまりにも不穏な一首だ。風吹き荒れる屋上広場から下を覗きこんでいる女性の姿が浮かんでくる。しかし、この世に繋ぎとめられたのだ。作中主体はこのとき、生と死のあわいに立っていたのだろう。足元がぐらぐらとおぼつかなくなる。こんな一瞬が、意外に誰の人生にもあるのかもしれない。

牡蠣食べて震える舌よどこまでも私が生きるこの生のこと
死後にわたしの小さな点が残ることライターの火を掲げて思う

墨汁が匂う日暮れのただなかのわたしが死ねと言われてた道
クロールの腕の形をつくりつつ死ねって人に思われたこと

自分の紡ぐ生に、死後の世界に、視点は行き来する。死ねと言われたこと、死ねと思われたこと、そうした苛烈な記憶は自らの生死の決定権を他人に握られているかのような落ち着かなさを持ち続けてきたことを感じさせる。しかしそこには強い怨恨のようなものはなく、むしろ凪いだ海のような諦念があるような気がするから不思議だ。

■女から女へ

女から女へ手渡されてゆくのは、穏やかなものばかりではない。

姪っ子の手を手のひらで包むとき前世の記憶のような微熱よ
あなたの青い胸をずたずたにする人もいる世界へとはやくおいでよ
姪との時間を詠った歌に惹きつけられた。ここにも使われている青というモチーフ。幼く、未熟で、まだ湖のように透明な胸。
はやく、はやく、大人の世界へおいでよ。そんなふうに手招きする作者は残酷だろうか。かりそめの世界から早く「こっち側」へ来てほしいという同朋意識だろうか。女というままならない生き物としてのイニシエーションを早く経験して自由になりなよ、という激励だろうか。

女の名前よっつぽつぽつと降るようにある長命の画家の年譜に
画家の年譜にはパートナーとの結婚や離婚、死別の記録が淡々と記されていて、絵の解釈の一助として、あるいは純粋な好奇心をもって読んでしまう。長生きした画家ならば、多くの女性が付箋のようにさりげなく刻まれていたりする。好色な画家も多かった。
抱き合ったり子を成したりといった生き物同士としての手触りをいっさい感じさせないそのぽつぽつとした記載が、かえってグロテスクに感じられたりするものである。なんて繊細な着眼だろうか。

菜の花を摘めばこの世にあるほうの腕があなたを抱きたいという
この世にあるほうの腕ということは、あの世にあるほうの腕も存在するという意味だろうか。あなたとは、我が子だろうか。夫だろうか。それとも。
無粋な解釈を許してほしい。この歌に寄り添いたい。叫びたいほど切実な思いがあふれて止まらなくなる。

拒絶があり許容があり、母親がいて少女がいて、前世があって死後がある。
乱暴なまでの鮮やかさで、山崎聡子の歌は揺さぶってくる。目を凝らせ、と突きつけてくる。
『青い舌』は、わたしの心の奥の壊れた水道の蛇口を捻ってしまった。



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