5 by 5+α〜私が影響を受けた本(藤原篇)
まず僕は熱心な読書家ではないことを明言したい。文芸誌でnoteを始める、だからまずは自己紹介がてら影響を受けた本やカルチャーについて書いてもらいたい、と編集長から進言があった時、僕は思案することになった。中高時代を夜遊びや非行に費やした僕は、それは今では大切な思い出となり学びが生かされているのだが、こういうことになると語ることが少なく、その読書量の無さや勉強不足に小さな劣等感を覚える。それが故に今回はベタな本、ベタな名作を挙げていくことになるだろう。それは僕が読んでいる本がそう多くはないこともあるが、原体験としての本を挙げるならば思春期の初期段階に読んだような、文学に対して全く造詣の深くない時期に読んだような本になることになるからだ。そして僕が書く上で何を大事にしているかがわかるような本を選んだ。今回挙げたもので僕や僕の書くこと、あるいは書こうとしていることの一旦が分かるだろうと思う。僕の言葉の幾らかの部分がジョン・レノンの言葉であるように、僕の作品に風が吹けばそれはボブ・ディランがくれた爽風であるように。
そして一本の映画と一本のアルバムを挙げよう。ベタでカッコよくて最高のヤツを。
フランツ・カフカの「変身」はカフカの数の多くはない長編の中の、数の多くはない完結された作品の一つで、主人公が虫(これは翻訳の問題で虫というよりは気持ちの悪い小動物のようなものなのだが)になるところから始まり、それが説明されることはないまま、それによっておこる家族社会の崩壊と変容が描かれている。カフカの作品は僕の日常的文脈の外にあるのだが、その圧倒的な力は僕を強く突き動かす。短く、読みやすい。
カフカ的に生きカフカ的に書きたいと思う者は多いが、カフカ的に書けないならばそれは悲惨なことだろう。
谷崎潤一郎との出会いは「秘密」という耽美主義的な短編であった。彼は知の巨人であると言える。僕は谷崎の本を読むことで知の巨人たる彼の肩に乗り世界を眺めることができる。ここであげる「細雪」は阪神地方に住む三人の姉妹の生活を描きながら当時の関西の文化背景や生活様式、そして関東大震災を含めた時代要素も描かれている。それは一つの絵巻物語を見ているようで、圧倒的な文章の美しさもあり、本を捲る手が止まらない。いわゆる谷崎の作品でイメージされるような雰囲気はないのだが、彼が書こうとした日本の古来の美しさとその文化は存分に分かるだろう。特に彼の重視した陰翳、つまり近代が失った生活の根底にあったもの、それが物語や生活に密接に関わり、とても美しく描かれている。
今でも手に取るように何個もシーンが浮かんでくる。圧倒的な物語の前に僕に出来ることはのめり込むことだけだ。
村上春樹は僕が最初に読んだ純文学であり、それは所謂純文学の初恋相手と言っていいのだろう。「多崎つくると彼の巡礼の年」が単行本で発刊され、子供の僕は本屋で手に取って読んだのだが、今まで読んだことのない世界の広がりに僕は興奮して色々な本を読むようになった。残念ながら「多崎つくる」はそこまで評価の高い作品ではない。しかし初恋の相手などそういうものだろう?と思う。人は初恋から何かに目覚めて少しずつ何かを学んで生きていくものなのだ。僕はそれから村上春樹が影響を受けた海外文学、あるいは翻訳した数々の小説を読み出し、大きな影響を受けて、今では小説を書こうなどとしている。
そしてその話と続くように、僕が村上春樹で挙げたいのが小学生の初恋の話から物語の広がっていくこの作品である。僕はどちらかと言えば「ノルウェイの森」以前の作品の方が好きで、「ノルウェイの森」は読んだ後に「書きたいことは村上春樹が既に僕の出来ないレベルで書いている」と思ったほどだ。
しかしいわゆる「以後」のこの作品はとても素晴らしい。「国境の西」と「太陽の南」という二つのレコードが主人公やその相手の女に何を思わせたのか。彼らは何を主題に生きてきたのか。重厚さを増した村上春樹の実力が存分に出ながら、同時代の大長編とは違った魅力のある長編作品である。
何度も読み返す本はそんなに多くない。読み返す本は読み返す度に違った見方ができるような、発見があるような本だ。それは人生に寄り添ってくれる作品であり、所謂「僕のための文学」と呼べるものである。他にも僕には「こころ」や「金閣寺」などそう感じた作品があるのだが、この作品は多くの人にとってそうあるものなのではないかと思う。僕がこれを読んだのは小学校高学年の時で、その時点で僕はこれは僕のために太宰が書いてくれたのだ、と思った。そして中学生で読めばもっと色んなことがわかるようになり、人生の節目で読むようになった。
この作品は若者が読むべきとよく言われる。自意識の強い葛藤は感受性に蓋をしてタフに生きなくてはならない忙しい大人には過ぎ去ったものなのだ。しかし誰もが読むべき文学だろうと思う。太宰が書いたこの本は孤独な男の自意識の葛藤であるのに、日本の若者の多くが共感して今も読まれている。太宰はその文章の美しさもある。太宰のように書きたいと皆が思う。僕も思う。徹底した孤独と自意識への追求が芸術になれば、それは確かな広がりを持って誰かに寄り添える作品となる。僕の孤独な葛藤が物語になった時に隣人の葛藤を救える作品になってほしい、少なくとも慰めになってほしい、この作品を読むと強くそう思わされる。
自分の中で最も素晴らしかった文学体験は何か、と聞かれたら僕はこの作品を読んだ時だと答えるだろう。僕はガルシア=マルケスを読むまでこんな文学があることを知らなかった。
この書き出しから始まるのだが、その幻想的なイメージの無数の連なりと重厚な文章、そして圧倒的な物語の強さに、僕は感動するしかなかった。語ることも難しいぐらい僕は感動した。土着的な語りの重要性は日本文学においても中上健次や大江健三郎などが示しているが、これはやはり南米の文化圏のいわゆる欧米中心文学の未開拓地帯と可能性を感じさせる。単純に、これはちょっと書けない。そしてこの凄さを語ることも出来かねる。後書きにはこの物語には42の矛盾があると書かれているがそれすらわからない。ただ圧倒されてしまう。
上手く語れないので余談として編集長との出会いを書こう。
大学の最初の自己紹介で僕が海外文学を読むと言ったら、昼休みに彼が何を読むのかと聞いた。僕はカズオ・イシグロとガルシア=マルケスが好きだと言ったら、彼は携帯の待受をガルシア=マルケスの写真にしていた。僕は嬉しかったが同時に変な奴だなと引いた。奇妙な縁である。
社会も自分を取り巻く日常も全てが抑圧的に映る。抵抗しなくてはならない。虫ケラのように殺されても。そこに意味はあるはずだ。生きることは抵抗することだ。僕はこんな映画を撮りたくて映画を学びに大学に入った。
僕は60年代から70年代に至るカルチャーに強い影響を受けた。ビートルズは僕が最初期に出会った素晴らしい音楽の一つだ。
「In My Life」では、僕には忘れられない場所があってそこでは色んな大切なことがあるんだけど僕の人生では君が何よりも好きなんだ、なんて、ことが書かれている。最近はそんなことをとても強く思う。
ビートルズは僕の中のことを歌ってくれたし、そして僕の外のことを教えてくれた。
それはここまで書いてきた作品も書ききれなかった作品もそうなのだけれど。
僕は人生を通して沢山とは言えない本と音楽と映画を好きになって多いとは言えない数の人と話した。それらについて考えると、風が吹くようなものだな、と思う。これから何かを書こうと思い、これから何とかして生きていかなくてはならない僕にとってそれらは過去であり道標であり足跡であるのかもしれない。ただ風は吹き去った時、確かに何かが僕の側にあったのだと思う。そしてその連続が生活であり僕の形になっているのだと思う。彼らの考えたことは僕の考えることになって、彼らの語る言葉で僕は話している。
最近僕はなんとなく思った。僕の作った映画が映画館で上映されて、それがたとえ理解されなくても誰か一人が半券を取っておこうと思えるような映画を作れたらと。そう思わせてくれたのは他ならぬ彼らなのだ。
(文責:藤原)
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