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立ち喰いの美学(まだ夢を見ていたい)

 今回のnoteは壹岐によるエッセイです。立ち喰い蕎麦屋のスピーカーから流れてきたのは…

 学校近くの立ち喰い蕎麦屋でいつものようにひとりでに、コロッケ蕎麦をすすっていると、
  〈つぼみのままで 夢を見ていたい
   影絵のように美しい
   物語だけ見てたいわ
   伊代はまだ 16だから♪〉
 松本伊代の「センチメンタル・ジャーニー」が流れてきた。

 有線から流れてくるわけだけど、なんかすごくよかった……まじまじと「センチメンタル・ジャーニー」の歌詞を意識したことがなかったんだけど、とくに「物語だけ見て」いたいというのはすごうわかるというか……。さすが松本隆である。


 立ち喰い蕎麦屋の店内で流れている音楽のセンスはいい。このあいだ、新宿の富士そばで食べていたとき、NSPがかかっていて、いいな……NSPとはちょっと共通点というか、ゆかりがあって、わたしは幼少期‐中学のころまでを一関で暮した、だから、堤防、磐井川河川敷だと思うんだけど、すごくよくわかる……
   〈田舎の堤防 夕暮れ時に
    ぼんやりベンチにすわるのか
    散歩するのもいいけれど
    よりそう人が欲しいもの

    夕暮れ時はさみしそう
    とっても一人じゃいられない♪〉


 ひとりで蕎麦をすするというのは、ほんとにさびしい。けど、こういった種のさびしさは、立ち喰い蕎麦屋7でないと味わうことができないと思う。いいさびしさである。
 ひとりになる瞬間が、急にあらわれ、それも各人がおのおのの孤独を抱え込みながらすすっている。
 それと、もし流行りの音楽が流れていたら、さびしさは小ッ恥ずかしさに変化するだろう……流行というのはたとえば、失恋ロック、といいますか、おのれが屑である、と高々に宣言しているようなやつが、なんというか……。
 とにかく、フォークとかアイドル・ポップとか、そういうのが流れていてほしいなと思う。テクノはちょっと興ざめかも。


 住む街にはかならず立ち喰い蕎麦屋がほしい、というか、いい街には必ず駅前に立ち喰い蕎麦屋があり、わたしは知らん街に降りると、立ち喰い蕎麦屋とブックオフを探してしまう。
 立ち喰い蕎麦屋でなきゃいけない。蕎麦屋もいいんだけど、ワシワシと食べるような蕎麦、茹で麺的な蕎麦が無性に恋しくなる。

 関東は醤油の、関西は出汁が、みたいなのがあるけど、わたしの生まれたあたりは鶏とか豚を煮て、その汁と一緒に軟らかく煮た蕎麦だった。
 煮蕎麦、とでもいおうか、コシはないし、滑らかよりは、汁を吸ってすこしざらざらとしている質感がたまらない、それが唇の間を通り抜けてゆく……。卵を落として食べるのもまた、いい。
 だから、初めて椎名町の「南天」で肉蕎麦を食べたときは、胸がつまるというか、グッとくるものがあった。軟麺と豚肉と濃いめの汁。みんなが夢中ですすっている(ちなみに南天では、レゲエが流れている)。


それで、松本伊代の「センチメンタル・ジャーニー」(の話に戻るけど)を蕎麦屋で聴いたあと、最近ようやく使いはじめたアマゾンミュージックで、だらだらとアイドル・ポップ(80年くらいの)を聴き流していたが、これがまた優秀で、工藤静香とか、キョンキョンとか、斉藤由貴とか、色色流してくれて全部知ってるわけじゃないから勿論ノレない音楽も結構ある。

  〈避けられてるかもしれない予感
   それとなく それとなく感じてた
   愛されてるかもしれない期待
   かろうじて かろうじて繋いだ♪〉

 この歌詞、中島みゆきが書いているのか、と少しびっくりした(中島みゆきについては、少し思うことがある、なんかわたしは中島みゆきの曲を聴くと説経されてる気分になるのだ……良くも悪くも)。
 工藤静香の曲をまじまじと聴いたことはあまりない、ミラクルひかるのものまねで聴くとか、去年の暮れの紅白にも出ていたな、すごく健康的に年を重ねていてきれい、と思った。郷ひろみもそう。

 本筋とはズレますが、「空地」のポッドキャストがおもしろい。
 それと、文学フリマをよろしくお願いします。
 おすすめの詩集をあげて、今回は終わりです。それでは、また。

(これは詩じゃないかもだけど、読後感が詩だった。
 暁方ミセイ氏の新詩集『青草と光線』もおすすめ。)

(文責:壹岐)

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