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家の向こう側には果てしなく海が広がっている。

今回のnoteは藤原によるエッセイです。
ここにはない海について

整備されていない浜辺のような気分だった。
誰もいない冬の海岸で、打ち上げられた砂礫と海藻に強い潮風が吹いていて、国道沿いのアパートのベランダの鉄棒が錆び付いている、そんな凡庸な景色が浮かんだ。
人気のない浜辺では端の方で雑草が茂っていて、防波堤や港には小汚い小舟が揺れている。
僕は生活の海についての取り留めもないイメージを思い返す。

部屋のカーテンを開き、窓を開ける。
向かいの家は広いが空き家で持ち主の女性は年老いて病院で暮らしていると聞いたことがある。時折息子と見られる男がやってきて家の手入れをし、季節の変わり目には庭師が樹木の形を整えている。
ガラス戸越しに空き家を眺めていたら、澄んだ水色の冬晴れの下に、果てしなく海が広がっているような気がした。
僕は部屋着の上にパーカーを被って外に出た。
玄関先で煙草に火をつけると、やはり、向こう側には海が広がっているような気がした。
僕は火を消すか迷った後、口に煙草を咥えたまま、路地をぐるりと回ろうと歩き出した。
目の前の建物の裏に行くには、左に一度曲がり、右に二度曲がらなくてはならないことを思い出した。
やがて空き家の裏の路地に辿り着くと、当たり前にそこには海が広がっていなかった。
特別なものなど何も無い、閑静な住宅街が僕の家と同じように広がっているだけであった。
それに気づくのは僕が家の外に出てからすぐのことで、煙草も半分ほどしか減っていなかった。
住宅街なので当たり前のように空き家の裏には家があり、僕はそれを眺めながら煙草を吸った。
午前中なのにカーテンが閉められており、誰もいる気配がなかった。家の前には四人乗りの赤い普通車が停まっている。
右側から車輪の軋む音が聞こえ、振り向けば幼い子供を後ろに乗せた若い主婦が自転車を漕いで此方に向かっている。
僕は路肩の端に寄って自転車をやり過ごしたが、すれ違う時に若い主婦が僕を怪訝な、あるいは不快な目で見たことに気づいた。
僕はそれを見慣れない人間が他人の家を眺めているからだ、とまず思ったが、彼女が不快な目で僕を見たのは僕の右手にある煙草が理由だったのだと気づいた。
僕は煙草を小さく前に放り投げて、歩いて行って右足で揉み消し、吸い殻を拾ってポケットに入れて帰った。
赤い車のその赤さは目に残らない凡庸な色だった。
向かいの家には海は広がっていなかった。

広いと言うにはあまりに広すぎる海浜公園で、観覧車が、ガタン、ガタン、と音を立てて静かにゆっくりと回っている。
そのスピードは遠くから見れば動いていないかのように思えるほどゆっくりだった。
僕は公園のベンチでコーヒーを飲みながらそれを眺めた。
音を立てる、揺れる、空を横切る。
初めて観覧車に乗った時は親にせがむような年齢だったのだが、その夕方にお台場の向こう側に虹が掛っていたような記憶がある。
虹を見たのは初めてのことだった。
高層ビル群、東京湾、夕焼け、虹。
僕はその後何度もクレヨンで虹を描いたことを覚えている。
しかしそれが本当に僕が虹を見たと言えるのか、今ではよくわからない。
絵本で見たのかもしれないし、アニメ映画で見たのかもしれない。あるいは夢で見たのかもしれない。
ただ現実なのか夢なのかは置いておいても、少なくとも僕の脳裏にはお台場の観覧車から母親と見た夕方の虹が残っている。
僕はやがて港区の私立の中高一貫の学校に進学して、お台場にも数え切れないほど行って、そして十何年も生きてきたのだが、端から端まで虹のかかった景色を見たような記憶がない。あるいはその景色を思い出せない。
観覧車と虹と夕方と母親。
幼い頃の記憶の母親は今の母親より若く、大抵母親との記憶は儚く朧げで今では少し悲哀が含まれている。

四ツ谷から赤坂へと続く冬の外堀通りを歩いていた。木々は黄色く変色した葉を纏っていて、それは色褪せて見えるというよりは服を着替えたように見えた。
僕はセーターの上に着込んだコートのボタンを閉めて、マフラーを忘れたことに気づいた。
外堀の水面には鳥が泳いでいる。鳥。大抵の鳥の名前を僕は知らなかった。
行き場のない水路で、その羽の力では飛び上がり外に出ることも出来ず、こいつらは泳ぎ続けるのだ、と思った。
しかし川の鳥は海を泳ぐのだろうか。
淡水魚のように海に行ったら死ぬわけではあるまい。波が強いから泳げぬのだろうか。
二月も半ばになれば春が訪れる予感がするのだった。昼間の陽射しの温度は確かに冬の底を通り抜けたようだし、底冷えするような空気が部屋の床から感じることもなくなった。
冬を生きている実感も湧かないまま春が来るのだろうと思った。
それを性懲りも無く繰り返して生きてきたのだった。
冬にはあの夏の熱と湿気と焦燥を忘れ、夏には冬の風と雨と不安を忘れていた。
しかしあのどうしようもない夏の午後を通り過ぎて今は冬を過ごしていることは確かなのだと思った。

赤坂へ辿り着くと、首都高速道路が街を横切っていた。首都高のある街の景色はいつも同じで、その音と空の遮りが、僕には居心地が悪かった。
高架下の信号を渡ろうとすると、信号を無視したと言えるか言えないかのタイミングで白い外国製の車が速く目の前を通り過ぎた。
どんな人が乗っているのか、どこのナンバーなのかもわからなかった。
そうか、そんな場所だったな、とぼんやり思った。
あの車は僕のいる地上から上に上がり、僕の追いつけないスピードで走っていく、そして僕のこの冬に纏わる何かを連れ去っていくのだと思った。

赤坂から地下鉄に乗り、少し遠回りしてもう一度確認したが、家の向かい側に海は広がっておらず、大きな蝿が飛んでいた。
そして確かに今も観覧車が空を横切っていた。
何かしらが僕の目の前を走り去っていった。
それは先の蝿だった。

(文責:藤原)

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