見出し画像

茂井羅ものがたり【岩手の伝説㉒】

参考文献「いさわの民話と伝説」 編:胆沢町公民館


昔、面塚(めんづか、現水沢区佐倉河字下川原)に、北郷隆勝(きたごうたかかつ)という人が住んでおりました。

※北郷隆勝・・・きたごうたかかつ。仙台藩家臣に名前が残されているので、その人物と考えられる。


満々と水をたたえた、四米(メートル)余りの堀の内は、大樹が欝蒼と繁って、南蛮渡来という大鶏の刻を告げる声が、犬の吠えるに似た音を響かせていました。

屋敷の東側に廻ってみると、朱塗りの幅広い橋が架かっていて、それに続く四ッ門には、いつも重そうな扉が堅く閉まっていて、中はうかがい知るすべもありませんでした。

里人は、御屋敷様、御屋敷様と腰を低くして、その前を通っておりました。

ではその里人の言う御屋敷様とは、何者でありましょうか。

北郷隆勝氏とは即ち、里人の言う御屋敷の主でありました。

この北郷隆勝氏の祖は、岩城氏に属して、岩城国北郷村に住んでおりましたが、後、伊達政宗の命によって移封されることになった岩城氏にしたがって、今の南都田字浅野に住むことになりました。

※岩城氏・・・平安時代末期の陸奥国南部に起源をもつ氏族。現在の福島県いわき市あたり。

※岩城国・・・磐城国。明治時代に陸奥国が分割され設立されたこの地域の名前。福島県から宮城県南部に当たる。

※移封・・・いほう。大名などを他の領地へ移すこと。転封(てんぽう)。国替え。


その後、大阪の役に参加して立てた戦功などから、持寺宝福寺と共に下河原(しもかわら)に移住することになりました。

※大阪の役・・・徳川氏が豊臣氏を滅ぼした戦い。お寺と一緒に引っ越して来たということ。

※名字は北郷だが、長い歴史のある岩城氏の末裔で、岩城氏の歴史がこうであったという話。


その北郷隆勝氏に一人の女児が産まれました。

男の子ばかりの隆勝氏には、この姫の誕生は、諦めていただけに大変なお喜びでありました。

朝から産室をのぞいては、いたくトリアゲババ(助産婦)から叱られておりました。

如何にお偉い北郷氏といえども、この場合トリアゲババの叱声には、苦笑して退がるより他ありませんでした。

女といえば美人と考えるのは常識、世の人々と同じく、北郷氏夫妻もそう考えておりました。

だが、産室から出てきた妻の懐に抱かれたモイラ(女児をそう名付けた)を見た時、北郷氏はウウウと唸ってしまいました。

妻は間違って、猿でも抱いてきたのではないかと思ったほどでありました。

しかし夫妻は、嬰児の不器量も、いずれ成長するにしたがって美しくなることだろうと、金目を惜しまず、モイラ姫の成長に望みをかけておりましたが、二年、三年と年月を経るにしたがって、容貌の醜さが益々ひどくなっていくのでありました。

※嬰児・・・えいじ。生まれて間もない子供。赤ん坊。


こうなってくると北郷夫妻は、姫が可愛そうになって参りました。

何の因果でこんな醜い児が産まれただろうかと、天を恨んでもみました。

女児の出生は当然、嫁という問題につながる訳ですが、夫妻にはそんな夢もなく、モイラの好むように育てていくというだけになってしまいました。


月日の流れに関守なく、とは古い言葉、モイラもいつしか十の齢を越えていました。

※月日の流れに関守なし・・・月日がとどまることなく、過ぎていくことのたとえ。

もうその年になってみると、自分の容貌が人並でないことを自覚していました。

こんな醜さではお嫁に貰い手もあるまい、そう考えて沈むことがしばしばありました。

そして父、隆勝にせがんで、読み書きを教えてもらいました。

その習得力はまた、すごいほどでありました。

まず、一度教えられたことは絶対に忘れるということはなく、夫妻も舌を巻いて驚くほどでありました。

夫妻は、姫をその方に伸ばすことが、姫の生きる道でもあると考えるようになりました。


ところが不思議にも、その醜いモイラ姫に縁談がありました。

若柳の蜂谷冠者(はちやかんじゃ)からでありました。

ではその蜂谷冠者とは、いったい何者でありましょうか。

戦国時代の武将、武田信玄が天目山で滅びると、その遺臣は散り散りに分かれていきましたが、武田の一方の大将であった蜂谷冠者定国は、遠くみちのくに逃げて、若柳の山中深く居を構えておりました。

かくいう蜂谷冠者が嫁を迎えるとなっても、あたりは皆土俗であって、かつての日が幻のように頭にこびりついている蜂谷冠者には、似合わぬ者どもでありました。

※土俗・・・どぞく。その土地の民。土着の住民。

そうしたところに北郷隆勝氏の名声が、彼、蜂谷冠者を幻惑したということでありましょうか。

※定国は戦国時代の人物なので、その子孫の蜂谷氏ということ。冠者はおそらく若者という意味。


一度は、いや、数度もモイラ姫はその縁談を断りました。

自分の醜さを百も承知の姫は、とっくの昔、死んだつもりでいたのでした。

しかし、蜂谷冠者からの使者は執拗でありました。

姫もとうとう根負けの体で、顔を縦に振りました。


その夜、百目蠟燭が林立して灯る中で、綿帽子を取ったモイラ姫を見た蜂谷冠者は驚いてしまいました。

※百目蠟燭・・・ひゃくめろうそく。1本の重さが100匁(もんめ)ある大きな蝋燭。

化粧していたとはいえ、二目とはとは見られない嫁の顔、それは怪異そのものでありました。

そんな訳でこの縁は、短くして終わりました。


離縁になったモイラ姫はしかし、下河原の北郷には帰りませんでした。

若柳の里に住んで、米作りに励むことになりました。

当時の水田といえば干拓でありました。

荒れ川である胆沢川は、洪水の度に大小の沼を沢山作りました。

その沼の尻に、堰を掘って水を流すと、立派な田が出来上がるのでした。

灌漑は、沼尻の堰を止めるという作業で事足りました。

※干拓・・・かんたく。河口・湖沼などを堤防で仕切り、内部の水を排除して陸地にすること。

※堰・・・せき。 河や池に、石や土を盛って、水の流れをせきとめ、用水をたたえておく所。

※灌漑・・・かんがい。田畑を耕作するのに必要な水を水路から引き、土地をうるおすなど、水利をはかること。

※沼尻・・・尻は下の方ということ。沼の低い方。


しかしこれには限度がありました。

人口の増加は、もっともっと多い田の必要を訴えました。

モイラもそのことに早くから気付き、その打開を考えていました。

こんなに広大な原野が、何とかならないものかと思いました。

ある雨の日モイラは、ぼんやりと外を眺めていました。

銀色の両脚が、幾条となく地に突き刺さる光景は、彼女の欝々とした心を晴れ晴れとするに、充分でありました。

その時モイラは、あることに気付きました。

醜い顔に微笑が浮かぶと、両手を組んで胸に当てて強くしめました。

「これだ!」

低く、そして強い言葉が、口から飛び出しました。

モイラは庭の凹地の、濁る雨水を見たのでした。

※凹地・・・くぼち。おうち。低地。

そして水を上から注ぎさえすれば、どんな高い所でも田ができると思ったのでした。


モイラは早速、堰を掘り始めました。

それは高地へと向かって掘るのでありました。

里人たちは、その作業をいぶかりの目で眺めていました。

堰とは、沼の水を流し出す時だけ掘るものとのみ思っている人々にとっては、もっともなことでありました。

モイラはこうして何日後には、立派な田を作って見せましたので、里人はびっくりしてしまいました。

そしてモイラを真似て、堰の下流に田を作りました。

その田には、従来の沼田から見ると、数倍もの良質の米が生産されました。

田はどんどん増えていきました。

したがって用水の不足をきたしました。

モイラは堰の拡張を図りました。

それには勿論、里人の協力を願いました。

用水は若柳を越え、南都田、佐倉河、水沢へと伸びていきました。


その頃モイラも相当の年輩になっていました。

もう頭髪は真っ白くなって、腰もひどく曲がり、頑丈な杖が両手に持たれておりました。

彼女の前には、滔々と流れる大堰がありました。

※滔々と・・・とうとうと。水がとどまることなく流れるさま。

その顔には満ち足りた美しさが漂っていました。

やがて夕陽が国境の山並みの上にかかりました。

赤い斜陽が彼女の顔を真っ赤に染めました。

滔々と流れる大堰の水をも真っ赤に染めました。

彼女はその流れの傍から離れようとはしませんでした。

あたかも、成長しても我が子を労わっているかのように。


里人たちはこの大堰を茂井羅堰と呼んで、胆沢川からの取入にも、大きな標を建てました。

※川の水を取り入れる所?

しかし後の人は、これをモイラ堰とは呼びませんでした。

シゲイラゼキ、シゲイラゼキと呼ぶようになりました。

少しでもサポートしていただけるととっても助かります!