歴史教科書問題の頃
「歴史教科書問題」「従軍慰安婦問題」によって、日本の現状に大きな危機感を呼び起された平成10年当時、まだPCもなく、感熱紙を使うポータブルのワープロに自分の思いを綴ったものが今も残っていましたので、当時の記録として書き残しておこうと思います。(前半は失くしてしまいましたが・・)
当時はインターネットもありませんでした。僕たちは、互いに孤立しており、発言する手段もなかったのです。インターネットという武器が僕たちにとってどんなに大きな力であるかを、あらためて感じます。
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・・検定そのものが、昭和57年の「教科書誤報事件」に端を発したいわゆる「近隣諸国条項」を契機に、今や外堀を埋められた城郭のように、機能不全に陥っているありさまを知らされたのでした。左翼・反日勢力の隠然たる教育支配の実態をはからずも国民の前に露呈することになったあの歴史教科書の「従軍慰安婦」記述事件は、わが国の歴史と教育の行く末を左右する分水嶺であったといっても過言ではありません。
とはいえ、この事態の重大性を真に理解し、実感しえた知識人が、当時も今もいったいどれだけいたでしょう。たとえば、自他ともに認める「保守専門家」として、自己の安住する保守思想と美学の境地に遊ぶ個人主義者福田和也氏のような西部邁氏周辺の若手高踏派知識人たち、彼らはもっぱら自分の「家」に関心を差し向けることに満足しており、その思想に直接関わらぬ現実の教科書問題への「当事者意識」など、もともと持ちようはずもないのでした。
にもかかわらず、保守の旗幟を掲げるこの手の知識人たちは、学校教育における彼ら自身の個人的体験の次元と歴史教科書問題が置かれている社会的・政治的次元の弁別すらせず、歴史教科書問題に対しては、イソップのきつねのごとく、「すっぱい葡萄」ならぬ「たかが教科書」といった調子の、「専門人」なればこその高踏的な傍観と冷笑をたくましくし、身をもって現実に直面する人たちの危機意識をさげすむがごとく、ワイドショーの評論家のように、保守思想の井戸端談議に花を咲かせていたのでした。
この種の高踏派知識人の常なる関心は、自己を超えた「運命」にあるのではなく、あくまでも職業的「専門人」としての「思想」および状況の「思想的解釈」と「表現」にあるにすぎないことを、したがって、福田和也氏のような保守派知識人に対しては、歴史教科書問題において何一つ期待すべきものはないことを理解すると同時に、歴史教科書問題に対する彼らの軽蔑混じりの傍観と冷笑が物語る一種のおめでたさが、この時ほど空しく、色あせて見えたことはありませんでした。彼が保守として自らの独自性を主張するために必要な議論ではあっても、それはどこまでも彼個人の自意識にかかわる私的な問題にすぎないからです。
この事態に敢然と立ち向かったのは、この種の雲の上に安住する保守派知識人などではなく、わが国の教育と歴史の行く末を憂える藤岡教授らごく少数の知識人たちでした。彼らとて、「たかが教科書問題」などとうそぶいて、見て見ぬふりを決め込むこともできたでしょう。だが、もしもこのとき、大方の保守派知識人がそうであったように、敢えて教科書問題にコミットメントすることによって、反日勢力との終わることのない戦いの修羅場にわが身を投じることになることを厭い、あるいは、保守貴族福田和也氏のように、「従軍慰安婦は非常にマイナーな問題だと思う」(「発言者」36号)などと高を括って、誰一人声を上げることもなかったならば、「従軍慰安婦強制連行」という反日勢力のデマゴギーは間違いなく、第二の歴史的虚構「南京大虐殺」として一人歩きを始め、やがては「南京大虐殺」と同様の結末をたどったでありましょう。
反日イデオロギーの淵源とされる「東京裁判史観」が、かくまでわが国に深く根を下ろし、今日まで延々と余命を保ってきた理由の一つには、このような自ら泥をかぶり、反日勢力の執拗な攻撃の矢面に立つことを怖れる事なかれ主義や、職業的・社会的な保身のために、左翼・反日知識人たちが繰り出すデマゴギーを放置し、彼らや戦後民主主義の風潮に迎合してきた文化人・知識人、およびジャーナリストの怯懦の結果ではないでしょうか。
しかし、今度の「教科書事件」は、けっして過去の繰り返しではありませんでした。多くの文化人・知識人がやはりこれまで同様、見て見ぬふりを決め込み、傍観と無関心を装う中で、藤岡教授や小林よしのり氏を始め、秦邦彦氏、櫻井よしこ氏、中村燦氏、渡部昇一氏らの果敢な応戦と検証の成果によって、この事件に至る国内の左翼・反日勢力の売国的暗躍の構図が暴かれると同時に、彼らが歴史の新たな「捏造」を狙って繰り出したシンボルこそ、「従軍慰安婦」なる造語の正体であり、「従軍慰安婦強制連行キャンペーン」にほかならないことが、広く知られるところとなったのでした。そして内外の反日勢力と結託し、「朝日」がやっきになって繰り広げた、国策による従軍慰安婦「強制連行」というデマゴギーの既定事実化を、からくもくいとめることができたのでした。
このことの意義は、いくら強調してもしすぎることはありません。それは間違いなく、一つのエポックでした。
このようにして登場した素性もいかがわしい反教育的・政治的造語を意図的に盛り込んだ左翼・反日主義者謹製の歴史教科書。本文ばかりかイラストから写真、そして脚注やコラムに至るまで、左翼・反日イデオロギーに沿って子どもたちを(彼らの狡猾な意図に対して無防備な子どもたちを!)巧みに誘導し、教化し、洗脳しようというプロパガンダの意図を臆面もなくさらけ出した歴史「教科書」、そのような薄汚れた教科書を、こともあろうに、国民の教育に責任を負うべき国が、みずから国費を投じて子どもたちに使用を強制するという驚くべき事態。それは、子ども自身の「内なる日本人」への敵意を、子どもの心の深層に注ぎ込み、根付かせることによって、国民の、そしてまた人格の統合の基礎となるはずのアイデンティティー(歴史意識)の形成を、「教育」の名のもとに、暴力的に抑圧し、圧殺する反日教育という名の犯罪に、国自身が加担し、これを公認したことを意味するものでした。
このような事態を招来せしめた80年代以降の歴代自民党政府および国益感覚を欠く細川、村山内閣によって一段と鮮明の度を加えることになった「謝罪外交」が残した禍根、その政治的責任の大きさは計り知れないものがあります。
わが国の主権放棄以外の何ものでもない「近隣諸国条項」は、わが国の歴史教育の反日的偏向を、国が半永久的に容認することを内外に宣言した、取り返しのつかない政治的失態でした。こうしてわが国の政治的指導者は、知ってか知らずにか、亡国の一里塚を自ら立てることになったのです。
しかし同時に僕たちは、戦後50年にわたり、こうした事態の到来を営々と招き寄せてきた黒幕の存在を忘却することはできないでしょう。
その黒幕とは、いうまでもなく戦後民主主義(反国家的進歩主義と平和主義)のイデオローグとして戦後半世紀、ジャーナリズムと論壇の場を舞台に、一貫してわが国の世論を誤導し続けたばかりか、一度ならず売国の仕掛人を演じてきた「朝日」・「岩波」・「進歩的文化人」(戦後民主主義派知識人)を中核とする左翼・反日勢力です。
彼らは、戦後の進歩主義と平和主義の宣教師として、戦後民主主義の浅薄と偽善を、教育やジャーナリズムを通じて広くわが国に蔓延させた張本人でもありました。彼らの言論の偽善に欺かれることによって、日本人の良識と国民意識はこの半世紀のあいだ、退行と抑圧を余儀なくされ、成熟を阻まれてきたのでした。
一昔前、「革新」という言葉がわが国の知識層の間でどれほど輝かしいシンボルとしてもてはやされていたかを思い起こすなら、戦後日本において進歩主義イデオロギーがいかに広範に知識層の意識を覆い、支配していたかが見て取れるでしょう。
その根底には、進歩主義が「未来=歴史の目標」を指し示す近代のパラダイムとして、また疑う余地のない「真理=歴史法則」として、近代の知識層に広く信仰されていたという世界史的な潮流と同時に、敗戦が与えた民族的な虚脱と自信喪失の精神的空隙に、占領政策とこれに歩調を合わせる進歩的文化人やそれに追従する新聞・雑誌によって、未来を約束された天賦の真理のごとく、戦後民主主義(進歩主義と平和主義)が植えつけられたという、わが国固有の歴史的背景が重なっていたことも確かです。
そしてしぱしば理想主義の装いの奥に潜む「モラトリアム」という暗黙の前提・・すなわち、現実によって試されることから生じる言論の結果責任を問われることのない、いわば思想上の安全地帯への無自覚な依存なしには成立しえない戦後民主主義者の平和主義と進歩主義思想を受け入れることを通じて、戦後日本の知識層もまた広く、このモラトリアムの種子を自己の無意識の中に取り込むこととなったのでした。
その結果、戦後日本の精神風土は、いたるところモラトリアム化した戦後民主主義イデオロギーの風土ともいうべき景観を呈するに至ったのです。
「朝日」・「岩波」の護持する平和主義や人権主義、そして反国家的市民主義など、もろもろの戦後民主主義イデオロギーの根底には、イデオロギーに依拠する者たちの精神に拭いがたくこびりついている「甘えの構造」が牢固として根を張っていることを見逃すことはできません。
戦後民主主義者の論理が、とかく甘えの助長と正当化の方向に収斂するのはそのためです。昨今の少年犯罪に対する加害者擁護に見る彼らの「人権」偏愛の倒錯ぶりはその端的な例といえるでしょう。良識を失った言論とはかくのごときものであるという醜悪な見本を、僕たちは「朝日」の紙面に見ることができます。
中川大臣就任会見における「朝日」記者の底意のある「従軍慰安婦質問」や、これに対する中川大臣の答弁を意図的に捻じ曲げ、誇大報道するという見え透いた愚挙を懲りずに繰り返す「朝日」の醜態は、今や末期的段階に達した感のあるこの新聞の言論の頽廃をまたしてもさらけ出す結果となったのでした。
戦後民主主義の一貫した特質は、その甘えの精神構造に発する「無責任性」と「反国家性」にあります。戦後50年、彼らが居丈高に「平和主義」や「人権主義」を掲げて、営々と積み重ねてきた言論の無責任と偽善の集積、それが「甘えの助長」を許す戦後社会の空気の醸成に大いにあずかってきたのは間違いありません。なぜなら、今日僕たちの眼前で繰り広げられる頽廃的病態の数々は、わが戦後民主主義者たちが意図し、推進してきた歴史的秩序と伝統の崩壊が引き起こさずにはいない、放縦と無秩序の反映以外のなにものでもないからです。「戦後」への異議申し立てが、究極において戦後民主主義=占領憲法への根本的な批判(懐疑と反省)に向かわざるを得ない理由はそこにあります。
およそイデオロギーに依拠した思想および言論は、精神の成熟を伴わない「未成年の思想」と呼ぶのが相応しい、概念の知能操作の産物に他なりません。「戦後」への訣別は、この「未成年の思想」から抜け出し、「経験論」という、精神の成熟を必須の条件とする「成熟の思想」を自分たちのものにすることから始めなければならないでしょう。
いっぽう、健全な社会の存立は、歴史的秩序と伝統に支えられた国民意識と国民的良識が庶民の生活感覚と日々の生き方(型)の中にどれだけ息づいているかにかかっています。そして、この国民的良識こそ、エゴや欲望の野放図な解放と傾斜に歯止めをかけ、歴史的秩序と伝統の破壊を目論むイデオロギーの徒のプロパガンダと横暴を抑止する、国家および社会の「免疫力」の源泉となり、またそれがいかに国民に広く共有されているかが、社会の安定と一国の国民の精神の質を決めるということを思い起こさねばなりません。
敗戦後の時流に乗って、安直な進歩主義路線への鞍替えをはかった戦後民主主義者やその末裔たちは、精神にとっていわば「内なる自然」に他ならない歴史的秩序と伝統という、人間の確かな精神の大地を、戦後半世紀にわたり疎んじ、あるいは率先して破壊する旗振り役を務めてきたのでした。
近代主義が簒奪し、破壊の矛先を向けるのは、けっして物質的自然ばかりではありません。近代の論理は、「自然」の内におのずから宿る全体的調和にも匹敵する経験的合理の具現にほかならない歴史的秩序と伝統を軽んじ、支配の論理を内包する人工的・人為的なイデオロギーの論理によって、自然および社会と人間を改造し、支配しようとするやみがたい本性を有しています。
わが国の歴史的秩序と伝統を、それがまさにわが国固有の歴史的遺産であるがゆえに蔑視し、またそれを忌避することじたいが自己の優越と選良性を確認し確信するよすがになるという進歩主義者に特有の心理構造を受容したわが国の戦後民主主義者たちは、あるときには「エコロジスト」としてあたかもハイエナが獲物を前に喜々として活気づくように、居丈高に自然破壊や公害に非を唱えるいっぽうでは、進歩主義と東京裁判史観がもたらさずにはいない日本および日本人であることへの抑圧した劣等意識の代償として、占領憲法への異常適応をあからさまにしながら、人権主義・平和主義・民主主義イデオロギーという社会改造という名の開発の論理をふりかざして、内なる自然破壊にも等しい歴史的秩序と伝統破壊の愚を傲然と犯してきたのでした。
この意味で、伝統破壊を先導してきた戦後民主主義者たちは(彼らと密通するエコロジストもまた)、自然破壊や公害を率先してきた者たちとその本質を同じくする、近代の進歩主義イデオロギーに魂を奪われた近代主義者の典型であることを僕たちは知らなければならないでしょう。
《にせ予言者に気をつけなさい。・・・悪い木がよい実をならせることはできません。・・あなたがたは、、実によって彼らを見分けることができるのです》(マタイ 第7章)
進歩的文化人たちが、新時代の福音としてのべ伝えた戦後民主主義(彼らは戦後民主主義の宣教師でした)。それが良い実を結ぶ木であったのか否かを、戦後50年を経た僕たちは、眼前に広がる荒涼たる祖国の頽廃的惨状と酒池肉林の死の踊りに興じる大衆の狂騒を前に、今ようやく(遅きに失したとはいえ)その木の正体を悟ることができたのではないでしょうか。フランスの飛行作家サン=テグジュペリの描いた「バオバブの木」のように、それがまさにわが祖国日本を破壊する毒の実を結ぶ木にほかならなかったことを。
冷戦時代、人々の平和への素朴な心情と善意につけこんで、日本人の精神に巧みに「白旗主義」を刷り込み、奴隷根性(自ら進んで奴隷状態に赴き、奴隷化すること自体に満悦を感じるように馴致された者に特有の心理)を植え込むことによって、僕たちのまっとうな国民意識と良識を窒息させ、防衛への意志を放棄させることを狙った左翼・反国家イデオロギー、それが戦後民主主義者たちの「反戦平和」の正体なのでした。
いうまでもなく、それは人々の素朴な平和への志向や心情などとはおよそかけ離れた、日本国民を半永久的に奴隷の平和状態に置こうとする抑圧のイデオロギーにほかならなかったのでした。
もともと反国家イデオロギーの派生物に過ぎないこのまやかしの平和主義のかかげる「平和」の内実は、守るべき国も国民も蒸発させた実体なき抽象的シンボルに過ぎず、しかも戦後民主主義者自身のたえざる存在証明のための偶像なのでした。
そもそも国家を否定する彼らに、現実の侵略や戦争からいったい「何が」守れるというのでしょう。むろん有事危機管理体制や国防体制などの具体的な「防衛論」がすっぽりと抜け落ちている彼らの平和主義によって守れるものなど何一つないことは明らかですが、少なくとも「何を」守ろうとするのかと彼らに問うてみるくらいのことはしてみるべきかもしれません。市民の生命と財産だとでもいうのでしょうか?国境なき、人類みな兄弟・市民だとしたら、「侵略」や「戦争」という概念すら消えてしまうでしょう。国であれ、何であれ、空間的な境域が人為的に設定され、その内と外に異質な集団が措定されることによって始めて「侵略」や「戦争」という概念が成立するからです。等質な地球市民などという夢想は、戦争や侵略の概念を消失させることによって、平和主義の自己否定に行き着くことは必定です。
彼らが、現実に平和が保たれるかどうか、いかにして平和を維持し侵略から国民を守るかには何の関心もないゆえんは、そこにあるのです。
戦後民主主義的人間観の欠陥が最も深刻かつ直截に現われている病巣が、子どもたちの人間形成の一翼を担うべき学校であるということは、皮肉な結果といわざるをえません。教育の荒廃は、学校という教育の場全体を覆おう構造的な荒廃の様相を呈しています。
教育の荒廃は、日教組の反日教師の跋扈という姿で教師自体の中にも現出しているのです。金欲にまつわる私腹を肥やす体の悪事ならまだしも許せるでしょう。しかし平成9年5月7日付けの産経新聞が報じた宮城県小学校の教師や、最近になってその罪業が明るみに出された足立区立中学校の社会科反日教師増田都のように、子どもたちの魂の自由と人格の尊厳を踏みにじる、子どもの精神に対する犯罪だけは断じて許されるべきではありません。
公職に奉じる身でありながら、自己の地位を利用し、公教育の場で公然と日本および日本人を冒涜する反日教育を行うこれら破廉恥教師の犯罪は、精神の法廷で裁かれてしかるべきです。国民として、否それ以前にまともな大人として当然にわきまえておかねばらなぬ社会的常識・ルール・マナーすら身につけずに教職に就いたに違いない、視野の狭い、自己中心的で独善的な欠陥教師にみる「ポル・ポト的精神構造」こそ、20世紀の数知れない虐殺の温床であったことを思い起こすべきです。
教師としての適格性を本質的に欠くこのような問題教師が教員免許を取得し、採用されること自体、現行の教員採用制度の欠陥を物語るものであると同時に、こうした問題教師に教職免許を付与し、あまつさえ、教育犯罪を放置することは、国民の教育権に対する重大な侵害の容認以外のなにものでもありません。
これらは左翼・反日勢力の隠然たる教育支配の実態の一端を示す氷山の一角にすぎません。戦後教育の荒廃の根は、日教組の教育支配やそこに身を寄せる硬直した反日欠陥教師の跋扈というかたちで当初から胚胎していたのです。しかし今や教育の荒廃は、問題教師による教育犯罪の横行にとどまらず、教科書にまで及んでいるところに事態の深刻さがあります。それは教科書の偏向という形を通して、より広範に子どもたちの精神の基底をなし崩しに荒廃させつつあるからです。
「従軍慰安婦問題」によってようやく教科書が陥っている事態の深刻さに気付いた僕は、この歴史教科書問題を通じて、その背後に横たわる「戦後」という時代の、水面下に隠された真の構造が自分の目にはっきりと見えてきたのでした。
僕たちを取り巻く戦後民主主義=占領憲法という巨大な偽善の体制。それこそ「戦後」の正体なのです。日本人が成し遂げた経済的な成功(経済復興と高度経済成長)は、「戦後」という時代の日の当たる表層の姿に過ぎないでしょう。その華やかな経済的成功の陰では、経済にうつつを抜かす人々の無関心と油断と慢心の背後で、左翼・反日勢力が教育や司法やマスコミ界を巣窟として、その支配の触手を伸ばし、絶えず日本人の精神を支配し、彼らの意のままにコントロールしようとしているのです。
彼らに占拠され、支配された教育や司法やマスコミを彼らの手から取り戻すこと。そのために僕たちは何をなすべきか、何をなしうるかと問う必要があります。
僕はたとえば、20世紀を席巻した巨大な全体主義=ソ連共産主義の圧政とペン一つで闘い抜いたソルジニーツィンをはじめとするロシアの「反体制作家」たちのことを思い起こさずにはいられません。ソルジェニーツィンの闘いは、彼自身が語るように共産主義の「嘘の支配」との対決でした。僕たちも左翼・反日勢力の「嘘」と闘い続けなければならないでしょう。たとえやむなく、彼らの支配する「嘘」の教育にさらされようとも、魂の自由をけっして手放さず、自分の子どもを「嘘」の支配から守ること。
自らの生き方を戦後民主主義の偽善の道徳から解き放ち、歴史的伝統の大地に立ち、国民的良識を自己の内に再興すること。そのために「僕たちの歴史」を取り戻すこと・・
「教科書が教えない歴史」の出現がいかに画期的な歴史的事件であったかは、時とともにいっそう明らかになるに違いありません。それは左翼・反日イデオロギーに支配された「戦後」の壁に初めて穿たれた風穴であり、僕たちが数十年にわたって忘れ、また忘れさせられていた日本人の声であり、僕たちが無意識のうちに渇望していた希望の声でした。
きたるべき20世紀を前に、やがて来る時代がいかに虚偽と偽善に満ちたものであるかをいち早く察知した晩年のトルストイは、過去の名声をなげうち、その偽の文明の害毒から明日の世代の子どもたちの魂を守るために、ヤースナヤ・ポリャーナの田舎に引き籠って、専心子どもたちのための本を書くことに没頭したのでした。「新しい歴史教科書」・・それは、明日の子どもたちのために、僕たちがどうしても手渡さねばならないものです。トルストイが未来の子どもたちに希望を託して遺したように。
僕たちの勝利は、必ずしも反日の徒の罪状を暴きだし、それを批判することに終始するものではありません。僕たちの勝利は、単に採択戦に勝利することだけでなく(それはどうしても必要です)、反日の徒がこの半世紀、わが国に乱造し続けた歴史書がけっして到達しえない質と内容における勝利でもなければなりません。
僕たちの生の一回性、その根本的な宿命こそ、まぎれもなく人間の絶対的な条件であり、この限界を等しく背負って「時代」という運命の舞台の中に生まれる生者によって紡ぎだされる、一回性の―それゆえ絶対的な―人間経験の現象、それが僕たちの歴史です。歴史とは、まぬがれえぬ人間の宿命と限界を持って生まれた者たちが、自己のめぐり合わせた時代の運命をいかに背負い、かつ生きたかの「記憶」であり、「運命」の物語であるといってもいいでしょう。僕たちの人生が、けっして喜びと成功だけでなく、過ちにもけっして欠けていないように、歴史もまた不条理の影に半ば覆われた悲劇であることを理解すべきです。
僕たちが今、「僕たちの歴史」を生きているように、生成する時間の先端に立ち、眼前の未知の時間の暗闇と相対しつつ、時代に翻弄され、あるいはそれと格闘しながら、死者たちもまた、彼ら自身の一回性の「歴史」を生きたことを忘れるべきではありません。僕たち生者は、みな歴史を生きつつ、その歴史を知り得ないまま、ついに死者たちの列に加わるのです。
《というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部だからです。・・今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔を合わせて見ることになります》(コリント人への手紙Ⅰ 13.12)
この宿命の上に超然として立ち得るはずもない者たちに、どうして「歴史を裁く」などという身の程を知らぬ思い上がりが許されるでしょう。
《偽善者よ、まず自分の眼からうつばりを取りのけるがよい。そうすればはっきり見えるようになって、兄弟の眼から塵を取りのけることができるであろう》
「歴史を裁く愚かさ」とは、現在の生者もまた、かつて生者だった死者たちと同じく歴史的存在にすぎず、したがって生の絶対的条件(限界)を免れているわけもない現在の生者に、そもそも死者の生の絶対性を「裁く」資格などありはしないこと、そして歴史的秩序と伝統は、死者が生者に託した、死者と生者を結ぶ共有財産にほかならないこと、このことに寸毫も思い至らぬ者の度し難い傲慢にほかならないのです。