幸せ基準を下げた後に感じるようになったこと
今日もこんにちは。
前島公です。
本日は、幸せ基準を下げることによって、どのような思考回路が自分の中で芽生えてきたか、
ということについて、実際に体験、思考したことのついて書いていきます。
まず最初に、ボクの幸せ基準はコロナ禍によって、昔の自分と比較すれば大きく下がりました。
昔の自分であれば、到底考えもしなかったところに幸せを見出すようになったと感じています。
例えば、家族との会話ができること、1日にきちんと食事を摂ることが出来ること、
仕事があること、会社を通して社会に価値を提供できること、その見返りとしてお給料がもらえること、
ネットが使えること、こうして note を通してオンラインの世界で多くの人とコミュニケーションが取れること、
You Tubeで好きな動画を観れること、、、。
挙げるとキリがありません。
中には、コロナ以前からそんなこと幸せに決まっているじゃないか、と思われることもあるかもしれませんが、
一昔まえのボクにとっては、あたり前のこととして感じてしまっていたのです。
話をもとに戻します。
こうして幸せ基準が下がったボクは先日、閉店間際のスーパーに寄りました。
そこで、お刺身や、すき焼き重、お寿司がすべて半額で売られていました。
それらをボクは1年以上食べておらず、食べたくて食べたくて買おうか迷ったのですが、
なにせ、もとが高い分、半額であっても少しボクの中では、値が張りました(300円~400円くらい)。
ここでの思考パターンは、
300円あれば、鶏むね肉が何グラム買えて、何日間の食事を賄うことが出来る
自分がこのタイミングで贅沢できる勇気がない
ここで贅沢してしまったらあとでバチが当たるのでは?
でも、こういうのは一期一会で次また買えるかわからない
たまにこういった高級なものを食べて、自分の感情体験を豊かにしたい
でも、半額というものに慣れてしまうと自分の中で幸せ基準が上がってしまうのでは?
といったことが頭の中をぐるぐるめぐりました。
結論からいうと買わないという、選択肢を選びました。
今となってどう考えているかというと、
後悔が半分、納得が半分というところです。
結局どちらの言い分も、自分理念に対して、ある一定の正当性があったからなのではないかと思っています。
バランスを取ることは非常に難しいことだと思います。
幸せ基準を下げると、いろんなことに対して、哲学的に考えてしまうんですね。ボクは。
自分の内面と向き合って、この時間の使い方は本当に幸せかどうか、この商品を買ったあとの自分は本当に満足できるだろうか、
それは今やらなければいけないことか、執着しなくていいことに執着して自分を消耗していないか、色々考えて生きています。
ですが、こうやって自分の幸せについて考えることってすごい楽しいです。
今日も
感謝、謙虚、素直
それではまた。
続く、、、。
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