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早稲田の古文 夏期集中講座 第32回 『増鏡』の女性達① "遊戯門院"

 後醍醐天皇の父、後宇多院の皇后は游義門院姈(れい)子といいます。後深草天皇の皇后、東二条院の皇女です。ということは、御宇多院は父である亀山院の兄、後深草院の皇女を正妃に迎えたということになります。父の兄の子ですから、いとこ婚ということになります。

この時代、このような近親結婚は珍しい事ではありません。後深草院にいたっては、母大宮院の妹、東二条院を正妃として迎えています。つまり、叔母ににあたる女性と結婚したことになるのです。後深草院十四歳、東二条院二十五歳のことです。

もちろんこれは、東二条院が多門西園寺の実力者である、太政大臣実氏(さねうじ)の娘であることが関係しています。游義門院は東二条院が三十九歳の時、文永七年の生まれであることが『増鏡』第八 あすか川の「東二条院のお産」に書かれています。

しかし『増鏡』の記述は『とはずがたり』に依っているとされ、この女院が『とはずがたり』巻五で重要な場面で登場するのでとりあげたのだろう、とされています。(『増鏡』(中)井上宗雄全訳注 講談社学術文庫)『とはずがたり』の文章は的確な描写で、生き生きと冴えている、とされています。(同書P158解説)

 游義門院は、東二条院の子女のうち、唯一成人した皇女でもあり、歌人で素直な資質をもっていたそうです。父の後深草院からも兄伏見院からも大切にされ、後宇多院の正妃となってからも深く愛され、その死が後宇多院の出家の原因となったと言われるほどであったそうです。(『とはずがたり』次田香澄全訳注 講談社学術文庫P437)

 早稲田の教育学部で2015年に出題されたのは、この『とはずがたり』巻五(十七)「八幡で游義門院と邂逅」の所です。筆者である後深草二条は十四歳で後深草院の側室となるのですが、正妃である東二条院に相当憎まれているようで、たびたび後深草院や母である大官院に恨み言の手紙が送られていたようです。

 それでも作者四十九歳で游義門院(三十七歳)に出会った時、もうすでに後深草院は亡くなっており、(二年前、六十二歳)同じ年に東二条院も死去(七十三歳)、出会いの前年には亀小院も亡くなっているという状況でした。そして游義門院もこの出会いの翌年に亡くなっています。(徳治二年1307年)

 游義門院は作者のことはよくわからずに、「いづくより参りたるぞ」ときかれても、昔のことは言へずに「奈良の方(かた)よりにて候」と言うのが精一杯だったようです。高い所へ昇った游義門院に「肩をふませおはしまして降りさせおはしませ」と申し上げても、まだ不審そうな顔だったので、とうとう「いまだ御幼く侍りし者は慣れ使うまつりしに、御覧じ忘れけるにや」とうちあけたのでした。

 女院様の「いまは常に申せ」(これからはいつも訪ねておいで)という言葉で二人のやりとりは終わっています。無常の風吹きすさんで花も散る、といった歌でこの巻は締めくくられています。

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