見出し画像

第25回 藤原隆信の歌集(2) 【早稲田の古文・夏期集中講座】

五条三位入道、昔はまことの親にもまさりて、こころざし浅からず頼みきこえりしをやうやう年積もりて後、母なども無くなりはべりて、かの入道もやそぢに余り、我が身もまたむそぢに余りて後、世を遁れてはべりしにいとあはれに、昔今のことなど懇ろに書き続けられて、せめてのこころざしのあまりに、歌に一句添ふるなどはべりして

「五条三位入道」は、藤原俊成のことです。
俊成は、非常に長命な人で、91歳まで生きました。
90歳の時に、後鳥羽上皇から祝賀を賜っていることが『建礼門院右京大夫集』に書かれています。それは、建仁三年(1203年)のことでした。

藤原隆信が書いたこの文章にみると、「俊成が80歳をこえて出家している」とあることから、それより10年ほど前、1193年頃のことだとわかります。
平家滅亡後から8年経った頃であり、源頼朝が征夷大将軍になった時期と同じです。
筆者である隆信も60歳をこえて出家していることが、この文章からわかります。隆信も、当時としてはかなり長生きでした。

ここで注意しなくてはならないのは、「せめてのこころざしのあまりに、歌に一句添ふるなどはべりして」の意味です。

それは次の歌で分かります。

みどり児と 思ひし人も 老いぬとて 背く世を見る かなしさは ゆめかうつつか

返し

ありて無き 夢もうつつも 誰にかく とはれまし 君が見る世に 背かざりせば

この感涙尽きせず、抑へ難きあまりに、これより、返しの奥に書き添へはべりし

もろともに とはまし人も 亡き後に 君一人 あはれかくるも 夢かとぞ思ふ

返し

もろともに あらまし人の 亡き後の かなしさは 夢路ばかりに 逢ふを待ちつつ

字数の多いことは、一目見てわかるでしょう。
それが(問二十四)で、四十字以上五十字以内の記述問題になっています。和歌というものは、必ず「五七五七七」で終わらなければならないという決まりはありません。「長歌」というものがあるからです。

『増鏡』にも、後鳥羽上皇の御代を寿ぎ奉る、慈円や定家の長歌があります。
想いのたけを言の葉にのせるのが歌というものですから、延々と続いていてもかまわないのです。

ここは「美福門院加賀の死」という、俊成にとっては「愛妻の死」、隆信にとっては「母の死」という、抜き差しならない現実があります。
その思いが募り、一句増えたとみるべきでしょう。
そのため、(問二十四)では、「思いの極まり、深まりによって五音一句増えた」という内容であれば、正解となるはずです。

俊成にとっては、隆信という人は、いつまでも赤ちゃんのような存在だったようです。
それが「60歳をすぎて出家している」というのは「夢か現実か」。
そして「美福門院加賀の死」も「夢か現実か」。
それは「幽冥界を魂が彷徨うような思い」だったのでしょう。
隆信にとっては、義父である俊成に気にかけてもらったことが、殊の外、感激する出来事だったようです。
「夢か現実かわからぬ世界に魂が彷徨う」というのが、「幽玄美」というものなのです。

この記事が参加している募集

#古典がすき

4,044件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?