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「志」を立てることの大切さ 【王陽明『伝習録』】

人心れ危うく、
道心かすかなり

『尚書』大禹謨篇

書経にあるこの言葉をみてもわかるように、人の心というものは、兎角とかく放っておくと悪い方向に流れてゆくものです。
そのような人心を正すためには、それを律する「もう一人の自分」が必要となります。
そのもう一人の自分が、則ち「こころざし」です。

王陽明の語録である『伝習録』には、「弟に示す立志の説」という一文があります。
そこでは、「志を立てることがいかに大切なことであるか」が述べられています。

それ学は志を立つるより先なるはなし。
志の立たざるは、
猶ほその根をえずして
いたずらに培擁ばいよう灌漑かんがいを事とするも、
労苦成るなきがごとし。
聖人の聖人たる所以は、
これその心の天理に純にして
人欲なきを以てすれば、
則ち我の聖人たらんと欲するも、
亦これその心の天理に純にして
人欲なきに在るのみ。

【現代語訳】
学問を修めて自分を磨く為には、
何よりもまず志を立てることが大切である。
志が立っていないのは、
根の生えていない植物に
やたら水をかけてやるようなもの。
苦労ばかり多くて、
一向に成果があがらない。
聖人が聖人である理由は、
その心が天理に純一であり、
人欲の混入がないからである。
だから凡人でも進んで学問をし、
わが心を天理に純一にすることができれば、
聖人となれるであろう。

『伝習録』山田準・鈴木直治訳註(岩波文庫)

王陽明は、真実の学問をするための「志」は、「聖人になる」という志であると言っています。
学問の目的は「自らを聖人にすることである」としたのです。
しかし、それだけでは「志が立った」とは言えません。
「聖人を聖人たらしめる根拠は何なのか」ということをしっかりと把握しなければならないからです。
それは、「その心が天理に純にして、人欲がない」状態になろうという志を立てることによって実現できます。

自らが「志が立たない」状態=悪い心の状態となっていないかを知るためには、次のような心持ちに注目すると良いようです。

凡そ一毫の私欲の萌せば、
只この志立たざるを責む、
即ち私欲は便たちまち退く。
一毫の客気〔物事にはやる心〕の動くを聴けば、
只この志立たざるを責む、
即ち客気便ち消除す。
或ひはたい〔なまけ心〕生ず、
この志を責むれば、即ち怠らず、
こつ〔心ここにあらずの状態〕生ず、
この志を責むれば、即ち忽ならず。
そう〔心配性でそわそわする心〕生ず、
この志を責むれば、即ち懆ならず。
(人を妬みうらやむ心〕生ず、
この志を責むれば、即ち妬な らず。
忿ふん〔怒り、いらだつ心〕生ず、
この志を責めむれば、即ち忿らず。
たん〔人を押しのけ欲を追求する心〕生ず、
この志を責むれば、即ち貪らず。
ごう〔人を見下し軽蔑する心〕生ず、
この志を責むれば、即ち傲らず。
りん〔けちな心〕生ず、
この志を責むれば、即ちりんならず。

【現代語訳】
もし私欲が心中に湧いてきたのであれば、
それは「聖人になる」という志が
立たなくなった証しである。
そのような時には、
それを責め、再び志を立てれば良い。
客気、怠心、忽心、懆心、妬心、
忿心、貪心、傲心、吝心が
生じたのであれば、どうすればよいのか。
その全ての場合において、
その志を責め、再び志を立てればよいのだ。

『伝習録』山田準・鈴木直治訳註(岩波文庫)

陽明学では、これらを総称して「人欲」と言います。
私利私欲を追求し、他人に害をなし、社会秩序やマナーを乱す心情です。

これらを悪と見做し、それを正す「もう一人の自分」は、何を目指しているのでしょうか。
陽明学では、それを「天理」としています。
これは「天に通ずる理性や合理性」のことです。
「たとえ他人ひとが見ていなくても、天は見ている」という考え方と言えば分かりやすいでしょう。
日本人は、昔から、
他人ひとは見ていなくても、
 お天道てんとう様は見ているぞ。
 天に恥じない生き方をせよ。」
ということを美徳としてきました。
日本にやって来た他国の人たちは、車が通っていない横断歩道で、きちんと信号待ちをしている子供たちを目の当たりにして、非常に驚くそうです。
幼い時から、社会のルールをしっかりと守り、規律正しい生活をしている姿を見て、「他人が見ていなくても、天が見ていること」を信条として日々暮らしていることが理解できるからでしょう。
これは「聖人になる」ことを目的とした真実の学問をしている人の生活態度と同じです。
それをまだ幼いうちから実践している姿を見て、「ここ(日本)が次元の違う世界である」ということを実感するのです。

「天理を存し人欲を去る」というのが、陽明学の理想的な生き方です。
これを実践するだけでも立派な人生を送ることが可能となるでしょう。

かの夏目漱石は、その晩年、「則天去私」を理想の心境としていました。
「天にのっとり、わたくしを去る」という境地は、陽明学の「天理を存し人欲を去る」という生き方と全く異なるところがありません。
せっかく漱石の文学に触れるのであれば、この「則天去私」の生き方を自分のものにしなければ、彼の文学を真に理解したことにはならないでしょう。
教育とは、私欲を増長させるためにあるわけではなく、天理に生きる道、すなわち「道心」を教えることが、その本質としてあります。
そして、「真実の学問をする」=「聖人になる」という「志」を立てた時、まず出来ることは、「自分だけは人欲にまみれた人間にならない」と決心することです。
そのような「自己」を確立することができれば、それだけでも立派に社会貢献していることになるでしょう。
それこそ、儒学が理想とする「修身斉家治国平天下」の第一歩である「修身」だからです。
しかし、それは並大抵のことでは実現できません。

山中の賊を破るは易く、
心中の賊を破るは難し。
区区せつをせん徐するは、
なんぞ異と為すに足らん。
もし諸賢、心服の寇を掃蕩し、
以って廓清かくせい平定の功を収めなば、
これ誠に大丈夫不世の偉績なり。

【現代語訳】
山の中の賊を討伐するのはまだやさしい。
難しいのは、心の中の賊を討伐することである。
その辺にいる
こそ泥のような連中を平らげたところで、
何ら異とするに足りない。
もし諸君が心の中の敵をやっつけて、
しらみつぶしに
平らげてしまうことができたなら、
これ以上に素晴らしい手柄は無い。

『伝習録』山田準・鈴木直治訳註(岩波文庫)

これこそ、現代の人々にも響く素晴らしい言葉といえるでしょう。



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