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早稲田の古文 夏期集中講座 第27回 千五百番歌合と新古今集

『増鏡』に後鳥羽上皇の「千五百番歌合(うたあわせ)」の記録が残っています。『千五百番歌合』は私歌史上最大の歌合で、現代にいたるまでこれを超えるものは存在しない、と専門家の先生は書かれています。(『増鏡』(上)井上宗雄全訳注 講談社学術文庫)

この時の後鳥羽上皇の言葉として

「こたみは、みな世に許(ゆ)りたる古き道の者どもなり。宮内卿はまだしかるべけれども、けしうはあらずと見ゆめればなん。かまへてまろが面(おも)起すばかり、よき歌つかうまつれ」というものがあります。この歌合では、すぐれた歌人として道に老練(てだれ)の者ばかりである。宮内卿はまだ若いが、私の面目が立つほどよい歌を詠むように」

といったところでしょうか。

 この歌合は建仁元年(1201年)の事で、宮内卿の君というのは、文治元年(1185年頃)生まれというそうなので、この時十六歳そこそこの若さです。

後鳥羽院の女房ですぐれた歌人だったそうですが、二十歳くらいで亡くなっているそうです。(同書P60)実はこの時あの俊成卿女(『無名草子』の作者)も出詠者三十人のうちの一人に加えられており、新人(三十歳くらいか)としては破格の扱いだったそうです。「女ばかり口惜(お)しきものはなし」と嘆いていた俊成卿女は、和歌の世界においても、女性が占めていた地歩の低さ、撰者となることはおろか、入集者となることも難しいと言っていたのです。(『無名草子」桑原博史柱注 新潮古典集成)

 宮内卿の君については、「この人、年つもるまであらましかば、げにいかばかり目に見えぬ鬼神をも動かしなましに、若くて失(う)せにし、いといとほしくあたらしくなん」と『増鏡』の作者は、若き才能が消えていったのを惜しんでいます。

 「かくて、この度撰ばれたるをば新古今といふなり。元久二年三月廿六日、竟宴(きょうえん)といふ事を、春日殿にて行はせ給ふ。いみじき世のひびきなり」と続きます。きょう宴の「きょう」という字は本来「終わる」という意味だそうで、宮中で『日本書紀』のような一級の書物を御前で講義したあとで行う宴だそうで、勅撰集が成立した後に行うきょう宴はこれが最初だそうです。(学術文庫『増鏡』(上)p61)

 院御製

いそのかみ 古きを今に ならべこし 昔の跡を またたづねつつ

 摂政殿良経大臣(おとど)

敷島や 大和こと葉の 海にして 拾いし玉は みがかれにけり

 後鳥羽上皇の歌は、古い歌を今に並べて、『古今集』の昔にならって『新古今集』を選んだのであるよ、ということだそうです。古今集(905年)からちょうど三百年後のことだからでしょう。

(1205年)摂政藤原良経は、大和の国は言の葉の海にして、この海から拾われた宝玉のごとき美しい歌の数々であるよ、と祝賀を述べています。

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