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「易経入門」【鴻鵠先生の漢学教室6】

昭和の頃、影の宰相と言われていた安岡正篤さんの「得意たん然、失意泰然」という箴言は、よく知られています。
(「運命を創る」プレジデント社)

物事がうまく行っている時は、調子に乗ることなく、謙虚にしていなくてはならない。
(「得意たん然」)
しかし、何をやってもうまくいかない困難な時には、泰然自若としてあわてず騒がず、好調の波が来るまで待っているとよい
(「失意泰然」)
という教えです。

人は、好調な時ほど失敗しやすいものです。
有頂天になることから、物事を軽く見たり、人を見下したりしてしまいがちで、判断を誤ることが多くなるからです。
特に、若い時に社会で成功すると、世の中を甘く見てしまい、結果的に大失敗となることも少なくありません。
逆に困難な時は、他人の痛みや情けがよくわかります。そのため、このような時ほど、人間的に大きく成長できるでしょう。

好調な時は、いつまでも続くものではなく、必ず衰退の時が来るので準備をしておかなくてはならない。
同様に、不調な時というのも、いつまでも続くものではないので、チャンスの時を待つというのが、東洋の知恵である『易経』の考え方です。
これは、「治に居て乱を忘れず」「安きに居て危うきを忘れず」とも言えるでしょう。
周易繋辞下伝に出てくる「治乱興亡の理」というものですが、「満つれば欠くるは世の習い」と言うこともできます。

「いつまでも栄えているものはない。いつか衰退する時や滅亡の時は必ずやってくる」という発想は、ヨーロッパにもあります。
特にイギリス人は、ギボンの「ローマ帝国衰亡史」を愛読していると言われています。かのチャーチル元首相も、この本を愛読していたことはよく知られています。
「なぜ国家は衰退するのか」ということを冷徹に学ぶのが、イギリス人の知性です。
チャーチルは、後に「第二次大戦回顧録」という本を書いてノーベル文学賞を受賞します。日本の首相で、ノーベル文学賞を受賞するほどの文筆家は一人もいません。
このようなことからも、イギリスが誇るオックスフォード大学やケンブリッジ大学で行われている、人文学のすばらしい伝統を垣間見ることができるでしょう。
歴史に学ぶのが得意だったのは、イギリス人だけではありません。
ドイツの鉄血宰相ビスマルクも「愚か者は体験に学ぶ。私は歴史に学ぶ」と言っていました。彼も、歴史は繰り返すということをよく理解していたのでしょう。

あの国民的人気歌手であるユーミンの曲に「十四番目の月」という歌があります。
その歌詞の中に「次の日から欠ける満月より十四番目の月が一番好き」というフレーズが出てきます。
これは、『易経』の「満つれば欠くるは世の習い」と同じ視点で物事を見ている歌詞と言えるかもしれません。

『易経』は、宋学で大変重視されていました。
そのため、「近思録」にも『易経』の言葉がたくさん出てきます。
特に程伊川ていいせんは、代表作「伊川易伝」の中で、『易経』の哲学思想をさまざまな社会現象と結びつけ、王弼本『易経』の上下経および彖・象・文言に注釈を加えたことから、後世の『易経』研究に大きな影響を与えました。

易学の大家である本田濟さんが、政財界の有志の集い「読易会」で講義した内容をまとめた「易経講座」(斯文会)をみると、出席者の中に、財界の大物が多数聴講していたことがわかります。
その中に、東京電力の元会長であり、後の経団連会長でもあった故・平岩外四さんの名前もあります。
平岩さんは、自宅に約4万2千冊の蔵書があり、財界随一の読書家として知られていました。彼の蔵書は、没後、東京電力に寄贈され「平岩文庫」となっています。

チャーチルや平岩さんのように、一国の首相や大企業の経営者たちは、激務の中にあっても、寸暇を惜しんで読書をし学んでいます。
なかでも『易経』は、そのような人たちにとって偉大なる道標みちしるべとなる必読書と言えるでしょう。


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